大事なことは
誰に愛されたか、ではなく、誰を愛したか、「本当に愛した」のは誰かを考えることであり、何に怒ったか、「本当に怒った」のは何かを考えることである。そうして、誰も愛していないし、何にも怒っていない自分に今更ながら気づいた時、やっと僕らは、「僕ら」になれる。そこから歩き出せば、よい。誰かのために歩くのでは、ない。僕らは僕らのためにしか、歩かない。自身のためでさえろくに歩けない輩は、金輪際、他者のために歩くことは、できないのだから。
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