「ノース2号の巻」のエピソードはAct.4から6まで[前編][中編][後編]の三部からなるが、小学館2004年刊の初版「PLUTO 01」でこれらを通してコマ数を数えると
総コマ数 492
である。約500と念頭に置いて各シークエンスを見て行くと、その絶妙な構成とリズムがこの作品を成功に導いていることが分かる(以下総コマ数は僕のオリジナルな数え方[但し特に判断に困るようなコマはない]。Act6-12といった数字は「01」の各Volごとにページのどこかに小さく振られている通しページ番号である)。また印象的シークエンスにはオリジナルな名を『 』で附した。
[前編]
17 執事としてダンカンのもとに来たノース2号のフルショット。1ページ1コマ(これはカタストロフのAct6-27の488コマ目までない)。
後段で畳み掛けるように示される([後編]冒頭313から343で現実の仕事2件の屈辱的エピソードを含むシークエンス)、現在のダンカンは、音楽家として既に過去の人であることの事実としての明示と、虚栄のかった強烈な自負(それは現実世界への呪詛=母への呪詛の転移したもの)が、28から53コマ目までの『テラスの喫茶』シークエンスに現われる。
ここで注意したいのは、ダンカンは「母に捨てられた」という強いトラウマから、他者を信じない質であるにも関わらず、この新参の『人非人殺人兵器』ノース2号に対して、皮肉と虚栄をからませながらも、内実を語っているという点であろう。そこには「母=人間」を信じないダンカンゆえに、図らずも人間でないが故にノース2号に内実を語ってしまうという構造を持っているのである。ダンカンは自己の作曲した過去の映画音楽をすべてゴミ箱にぶち込むごとき発言をするが、これはダンカンの内的な、誰にも知られていない『真実』なのである。そうして、そのシーンの中間部Act4-8の41コマ目に大切な伏線が張られる。「書けないのではない、書かんのだよ。」というノース2号への言葉だ。これはこうして単独で切り離した時に、その特異性が明らかとなる。この、相手にその言明の理解を心から求めるような口ぶりに注意せねばならぬ。この時、実はダンカンはノース2号を無理解なロボットと、見ていないのだ。少なくとも僕はそう思う。この一瞬のダンカンからノース2号へのラポートは、しかし、7コマ後、ノース2号への、最初のダンカンの恣意的で悪意に満ちたAct4-9の47コマ目で遮断される――「名前と同じだな。」「は?」「お茶だ。」「味もそっけもない。」――このお茶を『ジャー‥』とこぼすダンカンのコマは丁度、50コマ目である。
ノース2号がダンカンのうわ言の中のメロディを垣間聴く大切な伏線シークエンスは、その後のAct4-18及び19の108コマ目から121コマ目である。
翌日。『ノースの願い』(Act4-20から最後のAct4-24)。
ここでノース2号はロボット法第一条に5回連続で違反する(ロボット法の嫌いな僕は快哉を叫ぶのだが)。「ピアノに触れるなと言ったはずだ!」(125)、「出て行け」(137)、「この屋敷から出て行け」(139)、「主人の命令だ!! 出て行け!!」(141)、(ピアノを弾き始めたノースに)「やめろ!」(151)……ノースはこれらをことごとく無視する。そこには、ダンカンの『夢の曲』を完成することがダンカンの心を癒すことに繋がるということをノースが察知し確信したから、であり、ゆめゆめ、それは曲を完成できないことで困っている主人を、夢の曲で補完することで完成できると論理的に認知したから、では決してない。ここを押さえることが肝要だ。ここから、僕たちは最早「ノース2号」という呼称をやめよう。「彼」は一個の存在としての「ノース」である。
「ピアノを……」(143)「ピアノを弾けるようになりたいのです。」(145)を介して、ダンカンがそれへの侮蔑的な激しい拒否感を示し、ピアノを引き続けるノースへの「やめろ! それはおまえのような破壊兵器が触るものではない!!」(151)「おまえには戦場がお似合いだ!!」(152)という痛打が打たれ……しかし全てを無視してノースは言うのだ。「だから弾けるようになりたいのです」(153)♪「もう……」(155)♪「戦場に行きたくないから……」(156)♪という最初の作品テンションのピークにくる。ここはプロローグからほぼ1/3弱、ストーリーテラーの定石(または推理小説の伏線張りの常識と言ってもよい)を、美事に踏んでいる。この前編の最後157コマ目は、黙ったダンカンのアップで終わる。黒眼鏡と深い皺のダンカンの心底は容易には見えない。しかし、ダンカンは黙し、ノースのピアノでFOする。
[中編]
しかし、その後、ダンカンの夢(Act5-1からAct5-3の最初の塗りつぶしのコマまで。158-170)が読者に示され、ダンカンの孤独な過去が開示されてゆき(最初の明確主題への暗示)、Act5-61からAct5-7(90から200コマ目)ではダンカンがノースの前でテルミン風の電子楽器やシンセサイザーを叩き壊す(第一ピークの余韻ピーク)。丁度200コマ目は印象的な、ダンカンが杖でノースを指し、「そのケープを脱いで、醜悪な兵器の体をさらしてみろ! その体で、何人の仲間を殺したんだ!?」である。ノースの身体と精神を完膚なきまでに引き裂く。これが全体のピッタリ2/5、これが中間部への強力な牽引ジョイントとなっているのである。
その直後、後半部への橋渡しとなるAct5-9から13(208から232)までが、作品構造でも中核となる重大なダンカンの過去の語りとなるのである。そうして先にブログで語った例のブラックジャックの足元は、その追想の中間点、225コマ目、ページをめくったAct5-12冒頭という、あのブラックジャック登場に相応しいコマ割りとなっている(実際の作品全体の中間コマ(246)にも近い)。「ブラックジャックの足」――それは間違いなく心理的な効果だけでなく、外見上の構造に於いても美的にコペルニクス的な転回点に位置していると僕が確信する所以なのである。
246――この作品の実際の半分である折り返し点のコマを見てみよう。Act5-15最下段の右側である。素晴らしい! そうして、これも極めて重大な伏線を孕んでいるのだ。
245
全ての懐古と母への歪曲した愛憎を吐き捨てた窓際のダンカン、その脳裏に浮かぶボヘミアの落日のイメージ画(間違えてはいけない。これはスコットランドのこの城からの景色ではない。そもそもダンカンには今の=眼前の真実の風景は最早見えないのである(これはただ彼が視覚障害者であるというような即物的なもの謂いではない)。常に見えるのは、記憶の中の母に繋がる「落日の風景」のみなのだ(Act5-1の159コマのボヘミアの落日=捨て去る母の象徴のコマの絵との一致を確認されたい)。そうしてそれにかぶさるのは、母への呪詛――「人間が捨てちゃいけないものはなんなのか、教えてやるよ!!」――
246
プレイルームに両手を広げて佇立するダンカン。両手を広げてやや顔を左背後に先にダンカンが叩き壊した電子楽器の一部が見え、反対側ダンカンの右背後に控えて立つノース。ややうつむいている。その右手にはピアノの一部がわずかに見える。台詞はない。
ここまででダンカンが今まで隠して生きてきた母に繋がる歪曲した愛憎、やり場のない鬱憤は開示された。そうして後は、この登場人物二人だけの(!)作品のもう一人の、ノースの内実を知ることのみが残されるのだ(本作品で現実の実体として登場するのはダンカンとノースだけであるという驚天動地の事実を確かめられたい。コーダに現われるプルートゥでさえ、普遍的カタストロフの象徴である雷の音のみであり、影も点も描かれないのだ!)。
第39次中央アジア紛争によるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を抱えたノースの「傷ついた心」のみが残るのだ。
そして、続く。
247
ノースのアップ。「ダンカン様…………」(言いよどむ)「あなたのお母様は…………」(言いよどむ。)
248
(247のノースの後のよどみを食って)ダンカン「黙れ!!」
そうして次ページのAct6-12の冒頭249コマで、ノースに執事としての解雇通告をし、プレイルームから庭へとダンカンは去るのである。
勿論、ここで僕らはノースが言いかけた事柄を容易に想像できる。それは恐らく、ダンカンの知らない、もしくは誤解している、そうしてノース2号だけが「データ」として知っているダンカンの母親の真実しかない。それは後にAct6-12の395コマ目ではっきりと開示される。ノースの「言いよどみ」――人間では慰藉を初めとするあらゆる意味合いを含むものであるが――ここでは絶対に慰藉ではない。悪名高き(と僕だけが思っているのかも知れない)ロボット法の禁則が、ここでもノースを言いよどませる(論理矛盾による判断停止と言ってもよいかも知れない)。ダンカンの母への憎しみは強烈である。「裏切った母」を真実と認識する彼に、「殺人兵器」の『ロボットふぜい如き』としか認識されていないノースが真実を語って、人間であるダンカンの誤りを指摘することは、「人間」のプライドを傷つけることであり、明白に第一条に反する。しかし、同時にそれは誤った感情によるPTSDから、ダンカン自身が誤った人生を送っていることでもあるのだ。誤った記憶とはダンカンの心的外傷である。では、それはダンカンが受けている心的危害にほかならぬ。それを排除しないことも、逆に第一条に反するではないか? だが、その論理矛盾に、ダンカンの「黙れ!!」の命令が致命的に加わるのだ。第二条の命令遵守が、そこで優先的にかかる。論理矛盾と禁則。ノースの悲しみが、今の僕には痛いほど、分かるね! 僕はロボットではない、人間だ。ノースと共有できると僕が感じる時、ノースは確かに僕と同じく「心」を持つ。僕がこの世界を許せないように……
……閑話休題。さて、続くAct5-16からAct5-20(252-280)の『ピアノと庭の老人』のシークエンスも、いい。
ここで初めてダンカンは心内にノースへの思いを明確に抱く。
ダンカンが出て行ったプレイルーム。左手のピアノの鍵盤に顔を向けるノース。ダンカンは電動車椅子で庭へ。ピアノを弾き始めるノース♪ダンカンの心に響くノースのピアノ♪ノースの言葉のリフレイン♪
「ピアノを弾けるようになりたいのです」♪
「もう戦場に行きたくないから……」♪
ノースは弾く……♪かぶる第39次中央アジア紛争の記憶……♪そのむごたらしい修羅……♪同胞ロボットを……♪完膚なきまでに……♪破壊しつくす……♪ノース……♪(そのノースのトラウマ的イメージ画に満ちた見開きページをめくる)と♪今の庭のダンカン……
♪「ふん!」(279)♪「多少はうまくなったようだな……」(280)♪
Act5-20からAct5-22(281-298)『ノースの悪夢』
深夜。キッチンで水を飲む寝巻のダンカン。寝室に戻ろうとして、床のコードを杖で見つけるダンカン。それはキッチンのサイドルームでエネルギチャージをしているノースに繋がっており、そのためノースの主電源はオフとなっているようである。「明日の出発に備えて、チャージ中か……機械めが……」(189)。明日の出発とは、先のダンカンによる解雇が生きていることを示している。ノースの横顔。ダンカンのアップ、そのコマに太字の「?」。
「ウ……」「ウウ……」パワーオフのノースが洩らす声。ノースの横顔。(292)
ノースの方を振り向くダンカン。(293)
ノースの横顔と呻き声。(294)
ダンカン「うなされているというのか……」ノース「ウ……ウ……」(295)
ダンカン「ロボットも……」ダンカンのあおりのショット。(296)
ノース「ウウ……」ノースのあおりのショット。(296)
ここのショットに着目したい。このあおりは296のコマの方が遥かに大きい。しかしそれはダンカンとノースの実物大と等比なのだ。このあおりは完全にそのフレーミングもあおりの角度もトリミングも一致している! ここはまさに、ダンカンの意識がノースの意識と自然に重層するように巧まれているのだ! その時、ダンカンの黒眼鏡でさえ、美事にノースのフェイスカバーと相同しているではないか!
Philip K. Dick “Do Androids Dream of Electric Sheep?”を挙げるまでもない。僕は今までの他の叙述でも、ロボットも(アンドロイドは勿論。そもそもこの「プルートゥ」のゲジヒトやアトムはその外見からも最早ロボットというべきではなく立派なアンドロイドである)夢を見ることを語ったつもりである(その場合、羊が電気羊でなくてはならないとは僕は思わない。ディックもそのつもりであることは分かっている。
ここでノースは夢を見ている。それは中央アジア紛争での、あの修羅場のフラッシュ・バックである。記憶素子に記されたそれは、フラッシュ・バック等と言う「生やさしいもの」(PTSD患者にとってフラッシュ・バックは「生やさしいものではない」ことは充分理解している上で、の確信犯的発言である)では、ない。この能面のようなノースの内なる病んだ心、ロボットゆえに正常に健常者を振舞いながら(振舞うことを強制されながら!)、心の闇を抱えていなくてはならなかったノース……それはこのポーカーフェイスな怪しい黒眼鏡の頑固な老人でもあったのだ。しかし、そこにダンカンが気づくまでには、もう少し、時間が必要だ……
なお、夢学説はフロイト・ユングに始まり、最近の睡眠学では脳が膨大な記憶情報を睡眠中に消去整理している状況下に生ずる意味のないものだという学説もある。この最後の最新学説は皮肉にも、人間機械論(人間=ロボット)の一見古風な学説にさえ戻ってゆく気さえする。しかし、それも僕は有意な学説と思う。僕らは機械だ。そうして、機械が心を持って、何が悪い!
翌朝。(299)ダンカンは呼べどノース2号の姿は、ない。ピアノに向かうダンカン。弾くのをやめるダンカン。中編の掉尾を飾る大きな312コマは、ピアノに向かってうなだれるダンカンを背後から描いた印象的なショットだ。そして、彼は遂に言う。曲を
「書けなくなった
のかも
しれない……」
……僕は若い頃は余り意識したことはなかったが、年老いて実際に漫画を朗読して見ると(私は小説の朗読同様、これを好んで一人でやるのだが)、この吹き出しの中での台詞の改行は、優れた漫画作家ほど、美事に計算され、実際の戯曲台本のト書きに相当するものを効果的に示していると言える。この「プルートゥ」然り、である。
[後編]
独りぼっちのテラスのダンカン。最初に記した通り、冒頭Act6-1からAct6-5(313から343)は、ダンカンが現役の音楽家としては最早、実質的に忘却されていることを示す2件の屈辱的エピソードのシークエンスが続く。その最後の部分、消沈した彼が電動車椅子で庭を行く。(397)香りがする。バラをはじめとして庭の花々が満開だ。それはノースが手入れしたもの。彼がいなくなった今、ダンカンは呟く。「手入れをしなければ」と。しかし、そこでダンカンは自身を嘲笑する。「私に何ができるというんだ……」「私がやることいえば、この庭を……」(342)「枯れさせるだけだ……」(343)。ここのモンタージュはうまい。実際には最後の343コマ目でカメラが引いて、ここで初めて「香り」の意味と、そのダンカンの言葉の意味するところが分かるようになっている。花に囲まれた孤独なダンカン……
ボヘミアの落日。(344)淋しげな母の顔。「母さん……」。(345)母のバストショット。)「母さん……」。(346)そこから急速に後退するカメラ、急速に急速に。)「母さん!!」。(347)
ダンカン、テラスのまどろみの中での夢からはっと目覚める。ピアノに向かうダンカン。例の曲を弾き始めるが、例の、ある所まで来て弾けなくなる。右手の拳で思い切り鍵盤を叩くダンカン。……そうして、斧を振り上げるダンカン。今にもピアノにそれを振り下ろそうとした瞬間(背後からのノースの目線で)、ノースの声。
「ダンカン様。」(365)。「ただいま戻りました。」。(369)「ボヘミアへ行っておりました。」「ダンカン様の故郷へ……」。(372)
と語るノース。彼は歌を採取してきたと語る。そうしてその中で遂にダンカンの寝言に現われる曲を見出だしたと言う。「今から歌います。」(378)というノースに、ダンカンは叫ぶ。「やめろ!」「機械の歌など聴きたくない!!」(379)「これ以上私の悪夢に入りこむな!! 人間には忘れてしまいたいものがあるんだ!!」(380)
……人間は忘れてしまいたいものを良く覚えている皮肉な生き物だ。僕は小学校1~2年の頃、毎日のようにいじめられた記憶を昨日のように鮮明に覚えている。それは45年近く経った今でも絶えがたい新鮮な憎悪と呪詛である。僕の周りにいる人間は、時々『そいつら』になるのだ。鮮やかなフラッシュバックだ。僕は今でも、そいつらに逢って、お前を殺してやりたいと言い放ってやりたい願望にかられる(正直言えば殺すことも辞さないのだ)。こんな風に、僕らは思い出したくないことを普通以上に思い出し、その都度、そのイメージを更新してしまう。だから忘れたいものほど忘れない(その癖、痴呆やボケは、皮肉にも、最愛の人や大切な記憶を一瞬にして、人から奪い去る)。
ダンカンにとって、実は最も悲しかった母との別れは、忘れたくない思い出であるはずだ。何故なら、彼はその憎しみの負のエネルギーを自身の作曲する映画音楽に昇華して生きてきたはずだからだ。しかし、自分を「捨てた母」への復讐のために、このスコットランドの城を手に入れ(Act5-14の240で語られる)てしまった時、彼にはその半生に作曲した映画音楽が如何に非芸術性であったかが自己開示されてしまったのだ(Act4-8の42の「もうあんなくだらんものは」書かないという台詞)。だから、彼に残されたのは「私のための曲」(Act4-9の45)のみであったのだ。しかし、その曲がどうしても出来ない。だから、ノースの採取してきたそれは当然、ダンカンが知りたい続きのメロディ・ラインである。彼は「母」を忘れたくないし、「歌」を聴きたいのだ。
それがノースには/だけには分かる。「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(381)はロボットの論理的な回路からの応答、ではない。そうした蒼ざめたただの、しかしダンカン自身が知らない母のインプット・データを、ノースは自律的に思索し(!)行動し(!)勝ち取った(!)のである。その歌い手としての母のオリジナルの歌を添えることで、それをデータとしてではなく、『心』としてダンカンに伝えようとするのである。そうでなくて、どうしてノースは、自己の地獄のような苦しみをダンカンに再開示する必要があっただろう。ノースは暗に言うのだ。
『ダンカン様、私はあなたの苦しみが分かりました。私はあなたの心を救うことが出来ると信じます。だから、あなたもピアノを私に教えてくれることで、戦場に行かずに済むようにここに置いて戴くことで、この苦悩から「私の心」を救って下さい。』
と。
「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(Act6-8の最終コマ381)に始まるノースの語りは実に30コマ分ある。終始ノースが語り、ダンカンはこの間、404コマ目に「そんな……」というのみである。
母が実は彼の病気――これは網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)の方――のためにその治療費を得る為に成金に近付いたとあるが、ここはやや補足が必要となるであろう。恐らくブラックジャックはRPは治療できないと断ったと思われる。その後、寄宿舎に入った彼が膠原病を患い、生死の境を彷徨った際、彼女は再度、ブラックジャックのもとを訪ねた。そうして、BJが膠原病の治療を承諾したという経緯であろう。
「あなたは捨てられたんじゃない」(402)「視力を失ったあなたのすぐそばまで、お母様は、やって来ていた……」「でもお母様はあなたの憎しみを知り、手をさしのべることができなかった。」(403)
そうして、ダンカンが忘れていた、この、「悪夢」の、本当の意味が、ノースの歌によって明らかにされる。……
これ以上、この後半を分析することに、実は僕には堪えられない。このダンカンの「母さん……」と呟いて涙するAct6-16の421コマ目は、このページを開いただけで、僕は涙を押さえられないのである。だから少し駆け足で行くことにしよう……
歌い終えたノースはダメ押しで言う。「申し訳ありません。機械の歌で……」(422)「あなたの夢は悪夢なんかじゃない。」「私の夢とは違う……」(423)。本来なら、このノースの『絶対の孤独の心情』を語らずにはおけないはずであるが、以上のような理由から、後に考察を回したい。
ただ、ここで注意しておきたいことがある。この(422)以降、本シークエンスの最後419コマまで、ノースはダンカンの前に立ちながら、ダンカンの前方の右下をうつむいて見たままなのである(ダンカンへの真実の告知はダンカンを正面からしっかりと見据えているし、母の歌を歌う時は正面を向きやや顎を上げて歌っているにもかかわらず、だ)。
425 ダンカンのうつむき加減の左横顔。
ダンカン「おまえはもう……」「戦場へ行かなくていい……」
426 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま)。
427 ダンカンのノースを見上げる左横顔。(425より寄る)
ダンカン「ピアノの練習をしよう。」
428 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま。426より寄る)。
429 ピアノ、その前のノースを見上げるダンカン、その前に428と同じ姿勢で佇立するノース。
ノース「はい。」
枯葉……レッスン……夕暮れ……帰雁……秋……冬……枝から落雪……雪かきをする二人が雪をかぶる……笑う(!)ダンカン……レッスン……春……
エピローグは、春のコマ、Act6-19最下段右側の444コマから始まると読んでいいだろう。
446コマ目で遂にダンカンはノースに言う。「やっとあの曲が完成した。聴いてくれ。」あの曲とは勿論、母の思い出の曲にインスパイアされたダンカンの『新曲』である。
しかし、遂にノースはこれ聴くことはない。
ここで初めて、僕らはこれが「プルートゥ」の一エピソードであったことに思い至る。そう、僕らは何とこの終局間近の、450のノースの「何かがこちらに近づいてくるのです。」という台詞から455のダンカンが語る「スイスのモンブランとかいうロボットが、竜巻に巻き込まれて大破した」というニュースの話の部分で、これが「プルートゥ」の一挿話に過ぎなかったことに今更ながら気づいて驚愕する。それほどにこの作品の独立完成度は高い。いや、「プルートゥ」の挿話という属性を忘却させるだけの、本話を食ってしまった危うい麻薬効果をさえ持っていると言ってよい。
しかし、その覚醒と共に僕らは哀しくなる。ノースは間違いなくプルートゥにやられて死ぬということが分かるから。
……以下、既に僕はこの後編後半部入って批評の力を失うほどに、本作に打たれてしまっている。シナリオ風に纏めて、愚かな批評は控えたいと思う。ここを語るためには冷徹になる必要がある。泣いていては書けない。僕は僕が冷徹になれるのを、少し待ちたい……いや、そんなクソ冷徹さは、いらないのかも知れない、な……
撥ねられるケープ。(461)装着される附属肢の一本。(462)ページをめくって463コマ目、ノースのアーミー仕様の全体像が哀しくも示される(!) 遠い雷鳴、『ゴロゴロ‥』。(464)空を毅然と見上げるノース!(465)ノース、飛ぶ!(466)
……見上げるダンカン。雷鳴! 476で空中の激しい爆発音!!
……見上げるダンカン。『?』。何かに気づく。
「これは……」(480)♪
「あの曲だ……」(481)♪
「大気いっぱいに……」♪
「あの曲が……」(482)♪「ノース2号が……」(483)♪
[空中♪遠く高い遥かな位置でボンという爆発♪破砕したノースの一部が落下を初める♪(484・485)]♪見上げるダンカン♪
「ノース2号が歌っている…………」♪(486)
一言だけ、言おう。
ここでノースの「霊」は自身の「死」の瞬間に、残存した有効な身体機能の全てを用いて、愛する師ダンカンのために「あの歌」を、歌っている――
――そして、それを聴いているダンカンは――この時、ノースの死を直感している――ダンカンの「霊」は、ノースが死んだことを、「肉体」から開放されたノースの「その」歌声から、分かっている――でなくて、どうして、最後の492のダンカンの台詞が、限りなく悲しく、僕らの胸を打つことが、あろう!
……[飛行機雲のような後を引きながら♪ゆっくりと落下し始める♪](487・488)
Act6-27の488コマ目は1ショット1ページ1コマ。そのゆっくりとした落下の映像は前ページ下の487コマの画像からの流れと、コマ(及びその境界線上)に配された複数の音符によって、実際の動画を見るようだ。それは実に哀しく、かつ美しい「色」、なのである。
以下、最終ページAct6-28。
489 見上げるダンカンの顔のアップ。
「そんな所で
歌ってないで、
早く帰っといで。」♪
490 ♪カメラ、引く♪テラスの椅子に坐ったダンカンのバストショット♪
491 ♪更にカメラ、引く♪テラス、テーブル、椅子に坐るダンカンのフルショット♪
「ノース2号……」♪
492 ♪ダンカンの城の尖塔を含む屋根をなめて空をあおる、やや広角のショット♪その中央に♪落ちてゆく……ノース……♪
ダンカン(オフで)
「ピアノの
練習の時間
だよ。」♪