フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007/06/30

月光日光 伊良子清白

月光日光   伊良子清白

 

月光の
語るらく
わが見しは一の姫
  古あをき笛吹いて
  夜も深く塔の
  階級に白々と
    立ちにけり

 

日光の
    語るらく
わが見しは二の姫
  香木の髄香る
  槽桁や白乳に
  浴みして降りかゝる
  花姿天人の
  喜悦に地どよみ
    虹たちぬ

 

月光の
    語るらく
わが見しは一の姫
  一葉舟湖にうけて
霧の下まよひては
  髪かたちなやましく
    亂れけり

 

日光の
    語るらく
わが見しは二の姫
  顏映る圓柱
  驕り鳥尾を觸れて
  風起り波怒る
  霞立つ空殿を
  七尺の裾曳いて
  黄金の跡印けぬ

 

月光の
    語るらく
わが見しは一の姫
  死の島の岩陰に
  青白くころび伏し
  花もなくむくろのみ
    冷えにけり

 

日光の
    語るらく
わが見しは二の姫
  城近く草ふみて
  妻覓ぐと來し王子は
  太刀取の耻見じと
  火を散らす駿足に
  かきのせて直走に
  國領を去りし時
  春風は微吹きぬ

 

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

 

月光日光(げつくわうにつくわう)   伊良子清白

 

月光(げつくわう)の
語(かた)るらく
わが見(み)しは一(いち)の姫(ひめ)
  古(ふる)あをき笛(ふえ)吹(ふ)いて
  夜(よ)も深(ふか)く塔(あらゝぎ)の
  階級(きざはし)に白々(しらじら)と
    立(た)ちにけり

 

日光(につくわう)の
    語(かた)るらく
わが見(み)しは二(つぎ)の姫(ひめ)
  香木(かうぼく)の髄(ずゐ)香(かを)る
  槽桁(ふなげた)や白乳(はくにう)に
  浴(ゆあ)みして降(ふ)りかゝる
  花姿(はなすがた)天人(てんにん)の
  喜悦(よろこび)に地(つち)どよみ
    虹(にじ)たちぬ

 

月光(げつくわう)の
    語(かた)るらく
わが見(み)しは一(いち)の姫(ひめ)
  一葉舟(ひとはぶね)湖(こ)にうけて
霧(きり)の下(した)まよひては
  髪(かみ)かたちなやましく
    亂(みだ)れけり

 

日光(につくわう)の
    語(かた)るらく
わが見(み)しは二(つぎ)の姫(ひめ)
  顏(かほ)映(うつ)る圓柱(まろばしら)
  驕(おご)り鳥(どり)尾(を)を觸(ふ)れて
  風(かぜ)起(おこ)り波(なみ)怒(いか)る
  霞立(かすみた)つ空殿(くうでん)を
  七尺(せき)の裾(すそ)曳(ひ)いて
  黄金(わうごん)の跡(あと)印(つ)けぬ

 

月光(げつくわう)の
    語(かた)るらく
わが見(み)しは一(いち)の姫(ひめ)
  死(し)の島(しま)の岩陰(いはかげ)に
  青白(あをしろ)くころび伏(ふ)し
  花(はな)もなくむくろのみ
    冷(ひ)えにけり

 

日光(につくわう)の
    語(かた)るらく
わが見(み)しは二(つぎ)の姫(ひめ)
  城(しろ)近(ちか)く草(くさ)ふみて
  妻(つま)覓(ま)ぐと來(こ)し王子(みこ)は
  太刀取(たちとり)の耻(はぢ)見(み)じと
  火(ひ)を散(ち)らす駿足(しゆんそく)に
  かきのせて直走(ひたばせ)に
  國領(こくりやう)を去(さ)りし時(とき)
  春風(はるかぜ)は微吹(そよふ)きぬ

 

***

 

朝の天気はよい。体調も少し復した。では、随分、ごきげんよう。

2007/06/29

花賣 伊良子清白

   花賣   伊良子清白

 

花賣娘名はお仙
十七花を賣りそめて
十八戀を知りそめて
顏もほてるや耻かしの
蝮に儼まれて脚切るは
山家の子等に験あれど
戀の附子矢に傷かば
毒とげぬくも晩からん

 

村の外れの媼にきく
昔も今も花賣に
戀せぬものはなかりけり
花の蠱はす業ならん

 

市に艶なる花賣が
若き脈搏つ花一枝
彌生小窓にあがなひて
戀の血汐を味はん

 

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

 

   花賣(はなうり)   伊良子清白

 

花賣娘(はなうりむすめ)名(な)はお仙(せん)
十七花(はな)を賣(う)りそめて
十八戀(こひ)を知(し)りそめて
顏(かほ)もほてるや耻(はづ)かしの
蝮(はび)に嚙(か)まれて脚(あし)切(き)るは
山家(やまが)の子等(こら)に験(げん)あれど
戀(こひ)の附子矢(ぶすや)に傷(きづゝ)かば
毒(どく)とげぬくも晩(おそ)からん

 

村(むら)の外(はづ)れの媼(おば)にきく
昔(むかし)も今(いま)も花賣(はなうり)に
戀(こひ)せぬものはなかりけり
花(はな)の蠱(まど)はす業(わざ)ならん

 

市(いち)に艶(えん)なる花賣(はなうり)が
若(わか)き脈搏(みやくう)つ花一枝(はなひとえ)
彌生(やよひ)小窓(こまど)にあがなひて
戀(こひ)の血汐(ちしほ)を味(あぢは)はん

 

***

 

これを以て僕は明日から山に入る。絶不調の山入、残念なことに山神に魅入られぬようならば、また生きて逢おう。

2007/06/28

夏日孔雀賦 伊良子清白

   夏日孔雀賦   伊良子清白

 

園の主に導かれ
庭の置石石燈籠
物古る木立築山の
景有る所うち過ぎて
池のほとりを來て見れば
棚につくれる藤の花
紫深き彩雲の
陰にかくるゝ鳥屋にして
番の孔雀砂を踏み
優なる姿睦つるゝよ

 

地に曳く尾羽の重くして
歩はおそき雄の孔雀
雌鳥を見れば嬌やかに
柔和の性は具ふれど
綾に包める毛衣に
己れ眩き風情あり

 

 

 

雄鳥雌鳥の立竝び
砂にいざよふ影と影
飾り乏き身を耻ぢて
雌鳥は少し退けり
落羽は見えず砂の上
清く掃きたる園守が
箒の痕も失せやらず
一つ落ち散る藤浪の
花を啄む雄の孔雀
長き花總地に垂れて
歩めば遠し砂原
見よ君來れ雄の孔雀
尾羽擴ぐるよあなや今
あな擴げたりことごとく
こゝろ籠めたる武士の
晴の鎧に似たるかな
花の宴宮内の
櫻襲のごときかな
一つの尾羽をながむれば
右と左にたち別れ
みだれて靡く細羽の
金絲の縫を捌くかな
圓く張りたる尾の上に
圓くおかるゝ斑を見れば
雲の峯湧く夏の日に
炎は燃ゆる日輪の
半ば蝕する影の如
さても面は濃やかに
げに天鷲絨の軟かき
これや觸れても見まほしの
指に空しき心地せむ

 

 

 

いとゞ和毛のゆたかにて
胸を纏へる光輝と
紫深き羽衣は
紺地の紙に金泥の
文字を透すが如くなり
冠に立てる二本の
羽は何物直にして
位を示す名鳥の
これ頂の飾なり
身はいと小さく尾は廣く
盛なるかな眞白なる
砂の面を歩み行く
君それ砂といふ勿れ
この鳥影を成す所
妙の光を眼にせずや
仰げば深し藤の棚
王者にかざす覆蓋の
形に通ふかしこさよ
四方に張りたる尾の羽の
めぐりはまとふ薄霞
もとより鳥屋のものなれど
鳥屋より廣く見ゆるかな

 

 

 

何事ぞこれ圓らかに
張れる尾羽より風出でゝ
見よ漣の寄るごとく
羽と羽とを疾くぞ過ぐ
天つ錦の羽の戰ぎ
香りの草はふまずとも
香らざらめやその和毛
八百重の雲は飛ばずとも
響かざらめやその羽がひ
獅子よ空しき洞をいで
小暗き森の巌角に
その鬣をうち振ふ
猛き姿もなにかせむ
鷲よ御空を高く飛び
日の行く道の縦横に
貫く羽を摶ち羽ぶく
雄々しき影もなにかせむ
誰か知るべき花蔭に
鳥の姿をながめ見て
朽ちず亡びず價ある
永久の光に入りぬとは
誰か知るべきこゝろなく
庭逍遙の目に觸れて
孔雀の鳥屋の人の世に
高き示しを與ふとは
時は滅びよ日は逝けよ
形は消えよ世は失せよ
其處に殘れるものありて
限りも知らず極みなく
輝き渡る樣を見む
今われ假りにそのものを
美しとのみ名け得る

 

振放け見れば大空の
日は午に中たり南の
高き雲間に宿りけり
織りて隙なき藤浪の
影は幾重に匂へども
紅燃ゆる天津目の
焔はあまり強くして
梭と飛び交ひ箭と亂れ
銀より白き穗を投げて
これや孔雀の尾の上に
盤渦巻きかへり迸り
或は露と溢れ零ち
或は霜とおき結び
彼處に此處に戲るゝ
千々の日影のたゞずまひ
深き淺きの差異さへ
色薄尾羽にあらはれて
涌來る彩の幽かにも
末は朧に見ゆれども
盡きぬ光の泉より
ひまなく灌ぐ金の波
と見るに近き池の水
あたりは常のまゝにして
風なき晝の藤の花
静かに垂れて咲けるのみ

 

 

 

今夏の日の初とて
菖蒲刈り葺く頃なれば
力あるかな物の榮
若き緑や樹は繁り
煙は探し園の内
石も青葉や萌え出でん
雫こぼるゝ苔の上
雫も堅き思あり
思へば遠き冬の日に
かの美しき尾も凍る
寒き塒に起臥して
北風通ふ鳥屋のひま
雙つの翼うちふるひ
もとよりこれや靈鳥の
さすがに羽は亂さねど
塵のうき世に捨てられて
形は薄く胸は痩せ
命死ぬべく思ひしが
かくばかりなるさいなみに
鳥はいよ/\美しく
奇しき戰や冬は負け
春たちかへり夏來り
見よ人にして桂の葉
鳥は御空の日に向ひ
尾羽を擴げて立てるなり
讃に堪へたり光景の
庭の面にあらはれて
雲を駆け行く天の馬
翼の風の疾く強く
彼處蹄や觸れけんの
雨も溶き得ぬ深緑
澱未だ成らぬ新造酒の
流を見れば倒しまに
底とごとくあらはれて
天といふらし盃の
落すは淺黄瑠璃の河
地には若葉
誰行くらしの車路ぞ
朝と夕との雙手もて
擎ぐる珠は陰光
溶けて去なんず春花に
くらべば強き夏花や
成れるや陣に騎慢の
汝孔雀よ華やかに
又かすかにも濃やかに
千々の千々なる色彩を
間なく時なく眩ゆくも
標はし示すたふとさよ
草は靡きぬ手を擧げて
木々は戰ぎぬ袖振りて
即ち物の證明なり
かへりて思ふいにしへの
人の生命の春の日に
三保の松原漁夫の
懸る見してふ天の衣
それにも似たる奇蹟かな
こひねがはくば少くも
此處も駿河とよばしめよ

 

 

 

斯くて孔雀は尾ををさめ
妻懸ふらしや雌をよびて
語らふごとく鳥屋の内
花耻かしく藤棚の
柱の陰に身をよせて
隠るゝ風情哀れなり
しば/\藤は砂に落ち
ふむにわづらふ鳥と鳥
あな似つかしき雄の鳥の
羽にまつはる雌の孔雀

 

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

 

   夏日孔雀賦(かじつくじやくのふ)   伊良子清白

 

園(その)の主(あるじ)に導(みちび)かれ
庭(には)の置石(おきいし)石燈籠(いしどうろ)
物古(ものふ)る木立(こだち)築山(つきやま)の
景(けい)有(あ)る所(ところ)うち過(す)ぎて
池(いけ)のほとりを來(き)て見(み)れば
棚(たな)につくれる藤(ふぢ)の花(はな)
紫(むらさき)深(ふか)き彩雲(あやぐも)の
陰(かげ)にかくるゝ鳥屋(とや)にして
番(つがひ)の孔雀(くじやく)砂(すな)を踏(ふ)み
優(いう)なる姿(すがた)睦(む)つるゝよ

 

地(ち)に曳(ひ)く尾羽(をば)の重(おも)くして
歩(あゆみ)はおそき雄(を)の孔雀(くじやく)
雌鳥(めとり)を見(み)れば嬌(たを)やかに
柔和(にうわ)の性(しやう)は具(そな)ふれど
綾(あや)に包(つゝ)める毛衣(けごろも)に
己(おの)れ眩(まばゆ)き風情(ふぜい)あり

 

 

 

雌鳥雄鳥(めどりをどり)の立竝(たちなら)び
砂(すな)にいざよふ影(かげ)と影(かげ)
飾(かざ)り乏(とぼし)き身(み)を耻(は)ぢて
雌鳥(めどり)は少(すこ)し退(しりぞ)けり
落羽(おちば)は見(み)えず砂(すな)の上(うへ)
清(きよ)く掃(は)きたる園守(そのもり)が
箒(はゝき)の痕(あと)も失(う)せやらず
一つ落(お)ち散(ち)る藤浪(ふぢなみ)の
花(はな)を啄(ついば)む雄(を)の孔雀(くじやく)
長(なが)き花總(はなぶさ)地(ち)に垂(た)れて
歩(あゆ)めば遠(とほ)し砂原(いさごばら)
見(み)よ君(きみ)來(きた)れ雄(を)の孔雀(くじやく)
尾羽(をば)擴(ひろ)ぐるよあなや今(いま)
あな擴(ひろ)げたりことごとく
こゝろ籠(こ)めたる武士(ものゝふ)の
晴(はれ)の鎧(よろひ)に似(に)たるかな
花(はな)の宴(さかもり)宮内(みやうち)の
櫻(さくら)襲(かさね)のごときかな
一つの尾羽(をば)をながむれば
右(みぎ)と左(ひだり)にたち別(わか)れ
みだれて靡(なび)く細羽(ほそばね)の
金絲(きんし)の縫(ぬひ)を捌(さば)くかな
圓(まろ)く張(は)りたる尾(を)の上(うへ)に
圓(まろ)くおかるゝ斑(ふ)を見(み)れば
雲(くも)の峯(みね)湧(わ)く夏(なつ)の日(ひ)に
炎(ほのほ)は燃(も)ゆる日輪(にちりん)の
半(なか)ば蝕(しよく)する影(かげ)の如(ごと)
さても面(おもて)は濃(こま)やかに
げに天鷲絨(びろうど)の軟(やはら)かき
これや觸(ふ)れても見(み)まほしの
指(ゆび)に空(むな)しき心地(こゝち)せむ

 

 

 

いとゞ和毛(にこげ)のゆたかにて
胸(むね)を纏(まと)へる光輝(かゞやき)と
紫(むらさき)深(ふか)き羽衣(はごろも)は
紺地(こんぢ)の紙(かみ)に金泥(こんでい)の
文字(もじ)を透(すか)すが如(ごと)くなり
冠(かぶり)に立(た)てる二本(ふたもと)の
羽(はね)は何物(なにもの)直(すぐ)にして
位(くらゐ)を示(しめ)す名鳥(めいてう)の
これ頂(いたゞき)の飾(かざり)なり
身(み)はいと小(ち)さく尾(を)は廣(ひろ)く
盛(さかん)なるかな眞白(ましろ)なる
砂(すな)の面(おもて)を歩(あゆ)み行(ゆ)く
君(きみ)それ砂(すな)といふ勿(なか)れ
この鳥影(とりかげ)を成(な)す所(ところ)
妙(たへ)の光(ひかり)を眼(め)にせずや
仰(あふ)げば深(ふか)し藤(ふぢ)の棚(たな)
王者(わうじや)にかざす覆蓋(ふくがい)の
形(かたち)に通(かよ)ふかしこさよ
四方(よも)に張(は)りたる尾(を)の羽(はね)の
めぐりはまとふ薄霞(うすがすみ)
もとより鳥屋(とや)のものなれど
鳥屋(とや)より廣(ひろ)く見(み)ゆるかな

 

 

 

何事(なにごと)ぞこれ圓(まど)らかに
張(は)れる尾羽(をば)より風(かぜ)出(い)でゝ
見(み)よ漣(さゞなみ)の寄(よ)るごとく
羽(はね)と羽(はね)とを疾(と)くぞ過(す)ぐ
天(あま)つ錦(にしき)の羽(は)の戰(そよ)ぎ
香(かを)りの草(くさ)はふまずとも
香(かを)らざらめやその和毛(にこげ)
八百重(やほへ)の雲(くも)は飛(と)ばずとも
響(ひゞ)かざらめやその羽(は)がひ
獅子(しゝ)よ空(むな)しき洞(ほら)をいで
小暗(をぐら)き森(もり)の巌角(いはかど)に
その鬣(たてがみ)をうち振(ふる)ふ
猛(たけ)き姿(すがた)もなにかせむ
鷲(わし)よ御空(みそら)を高(たか)く飛(と)び
日(ひ)の行(ゆ)く道(みち)の縦横(たてよこ)に
貫(つらぬ)く羽(はね)を摶(う)ち羽(は)ぶく
雄々(をを)しき影(かげ)もなにかせむ
誰(たれ)か知(し)るべき花蔭(はなかげ)に
鳥(とり)の姿(すがた)をながめ見(み)て
朽(く)ちず亡(ほろ)びず價(あたひ)ある
永久(とは)の光(ひかり)に入(い)りぬとは
誰(たれ)か知(し)るべきこゝろなく
庭(には)逍遙(ぜうえう)の目(め)に觸(ふ)れて
孔雀(くじやく)の鳥屋(とや)の人(ひと)の世(よ)に
高(たか)き示(しめ)しを與(あた)ふとは
時(とき)は滅(ほろ)びよ日(ひ)は逝(ゆ)けよ
形(かたち)は消(き)えよ世(よ)は失(う)せよ
其處(そこ)に殘(のこ)れるものありて
限(かぎ)りも知(し)らず極(きは)みなく
輝(かゞや)き渡(わた)る樣(さま)を見(み)む
今(いま)われ假(か)りにそのものを
美(うつく)しとのみ名(なづ)け得(う)る

 

振放(ふりさ)け見(み)れば大空(おほぞら)の
日(ひ)は午(ご)に中(あ)たり南(みんなみ)の
高(たか)き雲間(くもま)に宿(やど)りけり
織(お)りて隙(ひま)なき藤浪(ふぢなみ)の
影(かげ)は幾重(いくへ)に匂(にほ)へども
紅燃(くれなゐも)ゆる天津目(あまつひ)の
焔(ほのほ)はあまり強(つよ)くして
梭(をさ)と飛(と)び交(か)ひ箭(や)と亂(みだ)れ
銀(ぎん)より白(しろ)き穗(ほ)を投(な)げて
これや孔雀(くじやく)の尾(を)の上(うへ)に
盤渦巻(うづま)きかへり迸(ほとばし)り
或(あるひ)は露(つゆ)と溢(こぼ)れ零(お)ち
或(あるひ)は霜(しも)とおき結(むす)び
彼處(かしこ)に此處(こゝ)に戲(たはぶ)るゝ
千々(ちゞ)の日影(ひかげ)のたゞずまひ
深(ふか)き淺(あさ)きの差異(けじめ)さへ
色薄尾羽(いろうずをば)にあらはれて
涌來(わきく)る彩(あや)の幽(かす)かにも
末(すゑ)は朧(おぼろ)に見(み)ゆれども
盡(つ)きぬ光(ひかり)の泉(いづみ)より
ひまなく灌(そゝ)ぐ金(きん)の波(なみ)
と見(み)るに近(ちか)き池(いけ)の水(みづ)
あたりは常(つね)のまゝにして
風(かぜ)なき晝(ひる)の藤(ふぢ)の花(はな)
静(しづ)かに垂(た)れて咲(さ)けるのみ

 

 

 

今(いま)夏(なつ)の日(ひ)の初(はじめ)とて
菖蒲(あやめ)刈(か)り葺(ふ)く頃(ころ)なれば
力(ちから)あるかな物(もの)の榮(はえ)
若(わか)き緑(みどり)や樹(き)は繁(しげ)り
煙(けぶり)は探(ふか)し園(その)の内(うち)
石(いし)も青葉(あをば)や萌(も)え出(い)でん
雫(しづく)こぼるゝ苔(こけ)の上(うへ)
雫(しづく)も堅(かた)き思(おもひ)あり
思(おも)へば遠(とほ)き冬(ふゆ)の日(ひ)に
かの美(うつく)しき尾(を)も凍(こほ)る
寒(さぶ)き塒(ねぐら)に起臥(おきふ)して
北風(きたかぜ)通(かよ)ふ鳥屋(とや)のひま
雙(ふた)つの翼(つばさ)うちふるひ
もとよりこれや靈鳥(れいてう)の
さすがに羽(はね)は亂(みだ)さねど
塵(ちり)のうき世(よ)に捨(す)てられて
形(かたち)は薄(うす)く胸(むね)は痩(や)せ
命死(いのちし)ぬべく思(おも)ひしが
かくばかりなるさいなみに
鳥(とり)はいよ/\美(うつく)しく
奇(く)しき戰(いくさ)や冬(ふゆ)は負(ま)け
春(はる)たちかへり夏(なつ)來(きた)り
見(み)よ人(ひと)にして桂(かつら)の葉(は)
鳥(とり)は御空(みそら)の日(ひ)に向(むか)ひ
尾羽(をば)を擴(ひろ)げて立(た)てるなり
讃(さん)に堪(た)へたり光景(くわうけい)の
庭(には)の面(おもて)にあらはれて
雲(くも)を駆(か)け行(ゆ)く天(てん)の馬(うま)
翼(つばさ)の風(かぜ)の疾(と)く強(つよ)く
彼處(かしこ)蹄(ひづめ)や觸(ふ)れけんの
雨(あめ)も溶(と)き得(え)ぬ深緑(ふかみどり)
澱(おり)未(ま)だ成(な)らぬ新造酒(にひみき)の
流(ながれ)を見(み)れば倒(さか)しまに
底(そこ)とごとくあらはれて
天(そら)といふらし盃(さかづき)の
落(おと)すは淺黄(あさぎ)瑠璃(るり)の河(かは)
地(ち)には若葉(わかば)
誰(たれ)行(ゆ)くらしの車路(くるまぢ)ぞ
朝(あさ)と夕(ゆふ)との雙手(もろで)もて
擎(さゝ)ぐる珠(たま)は陰光(かげひかり)
溶(と)けて去(い)なんず春花(はるばな)に
くらべば強(つよ)き夏花(なつばな)や
成(な)れるや陣(ぢん)に騎慢(けうまん)の
汝(なんぢ)孔雀(くじやく)よ華(はな)やかに
又(また)かすかにも濃(こま)やかに
千々(ちゞ)の千々(ちゞ)なる色彩(いろあや)を
間(ま)なく時(とき)なく眩(まば)ゆくも
標(あら)はし示(しめ)すたふとさよ
草(くさ)は靡(なび)きぬ手(て)を擧(あ)げて
木々(きゞ)は戰(そよ)ぎぬ袖振(そでふ)りて
即(すなは)ち物(もの)の證明(あかし)なり
かへりて思(おも)ふいにしへの
人(ひと)の生命(いのち)の春(はる)の日(ひ)に
三保(みほ)の松原(まつばら)漁夫(いさりを)の
懸(かゝ)る見(み)してふ天(あめ)の衣(きぬ)
それにも似(に)たる奇蹟(きせき)かな
こひねがはくば少(すくな)くも
此處(こゝ)も駿河(するが)とよばしめよ

 

 

 

斯(か)くて孔雀(くじやく)は尾(を)ををさめ
妻懸(つまこ)ふらしや雌(め)をよびて
語(かた)らふごとく鳥屋(とや)の内(うち)
花(はな)耻(はづ)かしく藤棚(ふぢだな)の
柱(はしら)の陰(かげ)に身(み)をよせて
隠(かく)るゝ風情(ふぜい)哀(あは)れなり
しば/\藤(ふぢ)は砂(すな)に落(お)ち
ふむにわづらふ鳥(とり)と鳥(とり)
あな似(に)つかしき雄(を)の鳥(とり)の
羽(はね)にまつはる雌(め)の孔雀(くじやく)

 

***

 

丸山応挙だろうが長澤蘆雪だろうが曽我蕭白だろうが何枚屏風や襖絵を持ってきても、清白のこの絢爛精緻な描写には、誰も勝てないね。

2007/06/26

楽しいのはDODOを聴いてる時だけ

Dodo Marmarosa“Dodo Marmarosa Trio Complete Studio Recordings”この2枚組の洋盤、侮れない。CD1が1946~1950の23曲、CD2がお馴染みの1961のカンバック盤“Dodo's Back! ”+翌1962の7曲と総曲数40の盛り沢山! 特に40年代のドドのトリオ演奏は素晴らしい。コーダや早弾きは、どこかパウエルを意識している(実際かなり似ている)けれど、そのフットワークはあくまで軽快だ(パウエルの気負った部分が全くない)。パウエルの、あの神業ながら、かえってそこに一抹のある種の息苦しさが付き纏うのと違って、ドドはいつもしっとりしてそうして暖かいんだ。“Dodo's Dance”なんか、ピッチが早くなると、思わず、にっこりして聴いている僕がいる。“Smoke Gets In Your Eyes”もいんだな、これが(ちなみに知ってるね? これは煙草の煙じゃあないんだよ!)! バラードのラインのスマートな繊細さはパウエルにはないものだ。比喩がおかしいことは重々承知の上ながら、どこか……ショパンのようなドド! しかし、これらほとんどは実はアナログ版で持ってるんだよ……な……全然、かけなくなっちゃった……

寺島良安 和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚 または HP2周年

寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鯨」(注未完)を公開した。注は少しエンジンがかかってきたところ。次の「糞」は「糞」どころか、これって「龍涎香」だろ!

 

本日をもってHP「鬼火」は2周年を迎えた。この2年、僕は何度か僕であることをやめようと思ったが、所詮、僕はこのちっぽけで愚劣なおぞましい生き物であることから離れることは出来なかった。それを、喜ぶべきか、悲しむべきか。寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」は、少なくとも、そうした自問への答えではあるかも知れぬ。

目から鯨

「和漢三才圖會」の「鯨」をテクスト化する過程で、『目から鯨(鯨に鱗はないからね)』の吃驚! 「ミンククジラ」の「ミンク」って、どこかで何故だか無批判に“mink”=あのイタチ属のミンクの毛皮のミンクだと思っていた。肉の色かなあ? なんて思ってたんだろう。今日、帰りの電車の中で、ふと疑問に思って「広辞苑」を引いた。ドヒャー! ミンクはミンクじゃあなくてメインケクジラだった! ミンクの毛皮なんてなよったもんじゃあないんだ! 知ってた?

ミンク‐くじら【―鯨】‥クヂラ

(ドイツ人の捕鯨砲手Meinkeの名から) ヒゲクジラ類ナガスクジラ科のクジラ。全長10メ-トル前後。大西洋・太平洋のやや高緯度の水域に分布。コイワシクジラ。

ダンケ!

2007/06/24

海の聲 伊良子清白

   海の聲   伊良子清白

いさゝむら竹打戰ぐ
丘の徑の果にして
くねり可笑しくつら/\に
しげるいそべの磯馴松

花も紅葉もなけれども
千鳥あそべるいさごぢの
渚に近く下り立てば
沈みて青き海の石

貝や拾はん莫告藻や
摘まんといひしそのかみの
歌をうたひて眞玉なす
いさごのうへをあゆみけり

波と波とのかさなりて
砂と砂とのうちふれて
流れさゞらぐ聲きくに
いせをの蜑が耳馴れし
音としもこそおぼえざれ

社をよぎり寺よぎり
鈴振り鳴らし鐘をつき
海の小琴にあはするに
澄みてかなしき簫となる

御座の灣西の方
和具の細門に船泛けて
布施田の里や青波の
潮を渡る蜑の兒等

われその淵を泛べばや
われその水を渡らばや
しかず纜解き放ち
今日は和子が伴たらん

見ずやとも邊越賀の松
見ずやへさきに青の峰
ゆたのたゆたのたゆたひに
潮の和みぞはかられぬ

和みは潮のそれのみか
日は麗らかに志摩の國
空に黄金や集ふらん
風は長閑に英虞の山
花や郡をよぎるらん

よしそれとても海士の子が
歌うたはずば詮ぞなき
歌ひてすぐる入海の
さし出の岩もほゝゑまん

言葉すくなき入海の
波こそ君の友ならめ
大海原の男のこらは
あまの少女は江の水に

さても縑の衣ならで
船路間近き藻の被衣
女だてらに水底の
黄泉國にも通ふらむ

黄泉の醜女は嫉妬あり
阿古屋の貝を敷き列ね
顏美き子等を誘ひて
岩の櫃もつくるらん

さばれ海なる底ひには
父も沈みぬちゝのみの
母も伏しぬ柞葉の
生れ乍らに水潜る
歌のふしもやさとるらん

櫛も捨てたり砂濱に
簪も折りぬ岩角に
黑く沈める眼のうちに
映るは海の泥のみ

若きが膚も潮沫の
觸るゝに早く任せけむ
いは間にくつる捨錨
それだに里の懷しき

哀歌をあげぬ海なれば
花草船を流れすぎ
をとめの群も船の子が
袖にかくるゝ秋の夢

夢なればこそ千尋なす
海のそこひも見ゆるなれ
それその石の円くして
白きは星の果ならん

いまし蜑の子艪拍子の
など亂聲にきこゆるや
われ今海をうかがふに
とくなが顏は蒼みたり

ゆるさせたまへ都人
きみのまなこは朗らかに
いかなる海も射貫くらん
伝へきくらく此海に
男のかげのさすときは
かへらず消えず潜女の
深き業とぞ怖れたる

われ微笑にたへやらず
肩を叩いて童形の
神に翼を疑ひし
それもゆめとやいふべけん

島こそ浮かべくろぐろと
この入海の島なれば
いつ羽衣の落ち沈み
飛ばず翔らず成りぬらむ

見れば紫日を帯びて
陽炎ひわたる玉のつや
つや/\われはうけひかず
あまりに輕き姿かな

白ら松原小貝濱
泊つるや小舟船越の
昔は汐も通ひけむ
これや月日の破壞ならじ

潮のひきたる煌砂
うみの子ならで誰かまた
かゝる汀に仄白き
鏡ありやと思ふべき

大海原と入海と
こゝに迫りて海神が
こゝろなぐさや手すさびや
陸を細めし鑿の業

今細雲の曳き渡し
紀路は遙けし三熊野や
白木綿咲ける海岸に
落つると見ゆる夕日かな

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

   海(うみ)の聲(こゑ)   伊良子清白

いさゝむら竹(たけ)打戰(うちそよ)ぐ
丘(をか)の徑(こみち)の果(はて)にして
くねり可笑(をか)しくつら/\に
しげるいそべの磯馴松(そなれまつ)

花(はな)も紅葉(もみぢ)もなけれども
千鳥(ちどり)あそべるいさごぢの
渚(なぎさ)に近(ちか)く下(お)り立(た)てば
沈(しづ)みて青(あを)き海(うみ)の石(いし)

貝(かひ)や拾(ひろ)はん莫告藻(なのりそ)や
摘(つ)まんといひしそのかみの
歌(うた)をうたひて眞玉(またま)なす
いさごのうへをあゆみけり

波(なみ)と波(なみ)とのかさなりて
砂(すな)と砂(すな)とのうちふれて
流(なが)れさゞらぐ聲(こゑ)きくに
いせをの蜑(あま)が耳馴(みみな)れし
音(おと)としもこそおぼえざれ

社(やしろ)をよぎり寺(てら)よぎり
鈴(すゞ)振(ふ)り鳴(な)らし鐘(かね)をつき
海(うみ)の小琴(をごと)にあはするに
澄(す)みてかなしき簫(ふえ)となる

御座(ござ)の灣(いりうみ)西(にし)の方(かた)
和具(わぐ)の細門(ほそど)に船(ふね)泛(う)けて
布施田(ふせだ)の里(さと)や青波(あをなみ)の
潮(うしほ)を渡(わた)る蜑(あま)の兒等(こら)

われその淵(ふち)を泛(うか)べばや
われその水(みづ)を渡(わた)らばや
しかず纜(ともづな)解(と)き放(はな)ち
今日(けふ)は和子(わくご)が伴(とも)たらん

見(み)ずやとも邊(べ)越賀(こが)の松(まつ)
見(み)ずやへさきに青(あを)の峰(みね)
ゆたのたゆたのたゆたひに
潮(しほ)の和(なご)みぞはかられぬ

和(なご)みは潮(しほ)のそれのみか
日(ひ)は麗(うら)らかに志摩(しま)の國(くに)
空(そら)に黄金(こがね)や集(つど)ふらん
風(かぜ)は長閑(のど)に英虞(あご)の山(やま)
花(はな)や郡(こほち)をよぎるらん

よしそれとても海士(あま)の子(こ)が
歌(うた)うたはずば詮(せん)ぞなき
歌(うた)ひてすぐる入海(いりうみ)の
さし出(で)の岩(いは)もほゝゑまん

言葉(ことば)すくなき入海(いりうみ)の
波(なみ)こそ君(きみ)の友(いも)ならめ
大海原(おほうなばら)の男(を)のこらは
あまの少女(おとめ)は江(え)の水(みづ)に
[やぶちゃん注:二行目「友(いも)」はママ。全集版では(とも)と校訂してあるが、そのままとする。]

さても縑(かとり)の衣(きぬ)ならで
船路(ふなぢ)間近(まぢか)き藻(も)の被衣(かつぎ)
女(をんな)だてらに水底(みなぞこ)の
黄泉國(よもつぐに)にも通(かよ)ふらむ

黄泉(よみ)の醜女(しこめ)は嫉妬(ねたみ)あり
阿古屋(あこや)の貝(かひ)を敷(し)き列(つら)ね
顏美(かほよ)き子等(こら)を誘(いざな)ひて
岩(いは)の櫃(ひつぎ)もつくるらん

さばれ海(わだ)なる底(そこ)ひには
父(ちち)も沈(しづ)みぬちゝのみの
母(はは)も伏(こや)しぬ柞葉(はゝそは)の
生(うま)れ乍(なが)らに水潜(みづくゞ)る
歌(うた)のふしもやさとるらん

櫛(くし)も捨(す)てたり砂濱(すなはま)に
簪(かざり)も折りぬ岩角(いはかど)に
黑(くろ)く沈(しづ)める眼(め)のうちに
映(うつ)るは海(うみ)の泥(こひぢ)のみ

若(わか)きが膚(はだ)も潮沫(うたかた)の
觸(ふ)るゝに早(はや)く任(まか)せけむ
いは間(ま)にくつる捨錨(すていかり)
それだに里(さと)の懷(なつか)しき

哀歌(あいか)をあげぬ海(うみ)なれば
花草船(はなぐさぶね)を流(なが)れすぎ
をとめの群(むれ)も船(ふね)の子(こ)が
袖(そで)にかくるゝ秋(あき)の夢(ゆめ)

夢(ゆめ)なればこそ千尋(ちひろ)なす
海(うみ)のそこひも見(み)ゆるなれ
それその石(いし)の円(まる)くして
白(しろ)きは星(ほし)の果(はて)ならん

いまし蜑(あま)の子(こ)艪拍子(ろびやうし)の
など亂聲(らんぜう)にきこゆるや
われ今(いま)海(うみ)をうかがふに
とくなが顏(かほ)は蒼(あお)みたり

ゆるさせたまへ都人(みやこびと)
きみのまなこは朗(ほが)らかに
いかなる海(うみ)も射貫(いぬ)くらん
伝(つた)へきくらく此海(このうみ)に
男(おとこ)のかげのさすときは
かへらず消(き)えず潜女(かつぎめ)の
深(ふか)き業(ごふ)とぞ怖(おそ)れたる

われ微笑(ほゝゑみ)にたへやらず
肩(かた)を叩(たゝ)いて童形(おうぎやう)の
神(かみ)に翼(つばさ)を疑(うたが)ひし
それもゆめとやいふべけん

島(しま)こそ浮(う)かべくろぐろと
この入海(いりうみ)の島(しま)なれば
いつ羽衣(はごろも)の落(お)ち沈(しづ)み
飛(と)ばず翔(かけ)らず成(な)りぬらむ

見(み)れば紫(むらさき)日(ひ)を帯(お)びて
陽炎(かげろ)ひわたる玉(たま)のつや
つや/\われはうけひかず
あまりに輕(かろ)き姿(すがた)かな

白(しら)ら松原(まつばら)小貝濱(こがひはま)
泊(は)つるや小舟(こぶね)船越(ふなごし)の
昔(むかし)は汐(しほ)も通(かよ)ひけむ
これや月日(つきひ)の破壞(はゑ)ならじ

潮(しほ)のひきたる煌砂(きらゝすな)
うみの子(こ)ならで誰(たれ)かまた
かゝる汀(みぎは)に仄白(ほのしろ)き
鏡(かゞみ)ありやと思ふべき

大海原(おほうなばら)と入海(いりうみ)と
こゝに迫(せま)りて海神(わだつみ)が
こゝろなぐさや手(て)すさびや
陸(くが)を細(ほそ)めし鑿(のみ)の業(わざ)

今(いま)細雲(ほそぐも)の曳(ひ)き渡(わた)し
紀路(きぢ)は遙(はる)けし三熊野(みくまの)や
白木綿(しらゆふ)咲(さ)ける海岸(うみぎし)に
落(お)つると見(み)ゆる夕日(ゆふひ)かな

2007/06/23

ノース2号論ノート 後書

今終えた構造分析の修正の後、僕はつくづくノース(ノース2号)を愛してしまった/愛していることを自覚する。反論は無論いつでも来い(必ず君の存在を明記せよ。好い加減なHNや匿名で許されると思うな。君はダンカンであるかもしれないし、ノースであるかもしれない。どちらでもいい。だって君も僕もノースでありダンカンであるのだから)。君がこの話を愛するならば、その収束は同じだ。……そうでないとしたら、君の他者への愛は、明白なエセだ、と僕は明言する。

ノース2号論ノート2 作品構造分析(完全版)

「ノース2号の巻」のエピソードはAct.4から6まで[前編][中編][後編]の三部からなるが、小学館2004年刊の初版「PLUTO 01」でこれらを通してコマ数を数えると

総コマ数 492

である。約500と念頭に置いて各シークエンスを見て行くと、その絶妙な構成とリズムがこの作品を成功に導いていることが分かる(以下総コマ数は僕のオリジナルな数え方[但し特に判断に困るようなコマはない]。Act6-12といった数字は「01」の各Volごとにページのどこかに小さく振られている通しページ番号である)。また印象的シークエンスにはオリジナルな名を『 』で附した。

[前編]

17 執事としてダンカンのもとに来たノース2号のフルショット。1ページ1コマ(これはカタストロフのAct6-27の488コマ目までない)。

後段で畳み掛けるように示される([後編]冒頭313から343で現実の仕事2件の屈辱的エピソードを含むシークエンス)、現在のダンカンは、音楽家として既に過去の人であることの事実としての明示と、虚栄のかった強烈な自負(それは現実世界への呪詛=母への呪詛の転移したもの)が、28から53コマ目までの『テラスの喫茶』シークエンスに現われる。

ここで注意したいのは、ダンカンは「母に捨てられた」という強いトラウマから、他者を信じない質であるにも関わらず、この新参の『人非人殺人兵器』ノース2号に対して、皮肉と虚栄をからませながらも、内実を語っているという点であろう。そこには「母=人間」を信じないダンカンゆえに、図らずも人間でないが故にノース2号に内実を語ってしまうという構造を持っているのである。ダンカンは自己の作曲した過去の映画音楽をすべてゴミ箱にぶち込むごとき発言をするが、これはダンカンの内的な、誰にも知られていない『真実』なのである。そうして、そのシーンの中間部Act4-8の41コマ目に大切な伏線が張られる。「書けないのではない、書かんのだよ。」というノース2号への言葉だ。これはこうして単独で切り離した時に、その特異性が明らかとなる。この、相手にその言明の理解を心から求めるような口ぶりに注意せねばならぬ。この時、実はダンカンはノース2号を無理解なロボットと、見ていないのだ。少なくとも僕はそう思う。この一瞬のダンカンからノース2号へのラポートは、しかし、7コマ後、ノース2号への、最初のダンカンの恣意的で悪意に満ちたAct4-9の47コマ目で遮断される――「名前と同じだな。」「は?」「お茶だ。」「味もそっけもない。」――このお茶を『ジャー‥』とこぼすダンカンのコマは丁度、50コマ目である。

ノース2号がダンカンのうわ言の中のメロディを垣間聴く大切な伏線シークエンスは、その後のAct4-18及び19の108コマ目から121コマ目である。

翌日。『ノースの願い』(Act4-20から最後のAct4-24)。

ここでノース2号はロボット法第一条に5回連続で違反する(ロボット法の嫌いな僕は快哉を叫ぶのだが)。「ピアノに触れるなと言ったはずだ!」(125)、「出て行け」(137)、「この屋敷から出て行け」(139)、「主人の命令だ!! 出て行け!!」(141)、(ピアノを弾き始めたノースに)「やめろ!」(151)……ノースはこれらをことごとく無視する。そこには、ダンカンの『夢の曲』を完成することがダンカンの心を癒すことに繋がるということをノースが察知し確信したから、であり、ゆめゆめ、それは曲を完成できないことで困っている主人を、夢の曲で補完することで完成できると論理的に認知したから、では決してない。ここを押さえることが肝要だ。ここから、僕たちは最早「ノース2号」という呼称をやめよう。「彼」は一個の存在としての「ノース」である。

「ピアノを……」(143)「ピアノを弾けるようになりたいのです。」(145)を介して、ダンカンがそれへの侮蔑的な激しい拒否感を示し、ピアノを引き続けるノースへの「やめろ! それはおまえのような破壊兵器が触るものではない!!」(151)「おまえには戦場がお似合いだ!!」(152)という痛打が打たれ……しかし全てを無視してノースは言うのだ。「だから弾けるようになりたいのです」(153)♪「もう……」(155)♪「戦場に行きたくないから……」(156)♪という最初の作品テンションのピークにくる。ここはプロローグからほぼ1/3弱、ストーリーテラーの定石(または推理小説の伏線張りの常識と言ってもよい)を、美事に踏んでいる。この前編の最後157コマ目は、黙ったダンカンのアップで終わる。黒眼鏡と深い皺のダンカンの心底は容易には見えない。しかし、ダンカンは黙し、ノースのピアノでFOする。

[中編]

しかし、その後、ダンカンの夢(Act5-1からAct5-3の最初の塗りつぶしのコマまで。158-170)が読者に示され、ダンカンの孤独な過去が開示されてゆき(最初の明確主題への暗示)、Act5-61からAct5-7(90から200コマ目)ではダンカンがノースの前でテルミン風の電子楽器やシンセサイザーを叩き壊す(第一ピークの余韻ピーク)。丁度200コマ目は印象的な、ダンカンが杖でノースを指し、「そのケープを脱いで、醜悪な兵器の体をさらしてみろ! その体で、何人の仲間を殺したんだ!?」である。ノースの身体と精神を完膚なきまでに引き裂く。これが全体のピッタリ2/5、これが中間部への強力な牽引ジョイントとなっているのである。

その直後、後半部への橋渡しとなるAct5-9から13(208から232)までが、作品構造でも中核となる重大なダンカンの過去の語りとなるのである。そうして先にブログで語った例のブラックジャックの足元は、その追想の中間点、225コマ目、ページをめくったAct5-12冒頭という、あのブラックジャック登場に相応しいコマ割りとなっている(実際の作品全体の中間コマ(246)にも近い)。「ブラックジャックの足」――それは間違いなく心理的な効果だけでなく、外見上の構造に於いても美的にコペルニクス的な転回点に位置していると僕が確信する所以なのである。

246――この作品の実際の半分である折り返し点のコマを見てみよう。Act5-15最下段の右側である。素晴らしい! そうして、これも極めて重大な伏線を孕んでいるのだ。

245

全ての懐古と母への歪曲した愛憎を吐き捨てた窓際のダンカン、その脳裏に浮かぶボヘミアの落日のイメージ画(間違えてはいけない。これはスコットランドのこの城からの景色ではない。そもそもダンカンには今の=眼前の真実の風景は最早見えないのである(これはただ彼が視覚障害者であるというような即物的なもの謂いではない)。常に見えるのは、記憶の中の母に繋がる「落日の風景」のみなのだ(Act5-1の159コマのボヘミアの落日=捨て去る母の象徴のコマの絵との一致を確認されたい)。そうしてそれにかぶさるのは、母への呪詛――「人間が捨てちゃいけないものはなんなのか、教えてやるよ!!」――

246

プレイルームに両手を広げて佇立するダンカン。両手を広げてやや顔を左背後に先にダンカンが叩き壊した電子楽器の一部が見え、反対側ダンカンの右背後に控えて立つノース。ややうつむいている。その右手にはピアノの一部がわずかに見える。台詞はない。

ここまででダンカンが今まで隠して生きてきた母に繋がる歪曲した愛憎、やり場のない鬱憤は開示された。そうして後は、この登場人物二人だけの(!)作品のもう一人の、ノースの内実を知ることのみが残されるのだ(本作品で現実の実体として登場するのはダンカンとノースだけであるという驚天動地の事実を確かめられたい。コーダに現われるプルートゥでさえ、普遍的カタストロフの象徴である雷の音のみであり、影も点も描かれないのだ!)。

第39次中央アジア紛争によるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を抱えたノースの「傷ついた心」のみが残るのだ。

そして、続く。

247

ノースのアップ。「ダンカン様…………」(言いよどむ)「あなたのお母様は…………」(言いよどむ。)

248

(247のノースの後のよどみを食って)ダンカン「黙れ!!」

そうして次ページのAct6-12の冒頭249コマで、ノースに執事としての解雇通告をし、プレイルームから庭へとダンカンは去るのである。

勿論、ここで僕らはノースが言いかけた事柄を容易に想像できる。それは恐らく、ダンカンの知らない、もしくは誤解している、そうしてノース2号だけが「データ」として知っているダンカンの母親の真実しかない。それは後にAct6-12の395コマ目ではっきりと開示される。ノースの「言いよどみ」――人間では慰藉を初めとするあらゆる意味合いを含むものであるが――ここでは絶対に慰藉ではない。悪名高き(と僕だけが思っているのかも知れない)ロボット法の禁則が、ここでもノースを言いよどませる(論理矛盾による判断停止と言ってもよいかも知れない)。ダンカンの母への憎しみは強烈である。「裏切った母」を真実と認識する彼に、「殺人兵器」の『ロボットふぜい如き』としか認識されていないノースが真実を語って、人間であるダンカンの誤りを指摘することは、「人間」のプライドを傷つけることであり、明白に第一条に反する。しかし、同時にそれは誤った感情によるPTSDから、ダンカン自身が誤った人生を送っていることでもあるのだ。誤った記憶とはダンカンの心的外傷である。では、それはダンカンが受けている心的危害にほかならぬ。それを排除しないことも、逆に第一条に反するではないか? だが、その論理矛盾に、ダンカンの「黙れ!!」の命令が致命的に加わるのだ。第二条の命令遵守が、そこで優先的にかかる。論理矛盾と禁則。ノースの悲しみが、今の僕には痛いほど、分かるね! 僕はロボットではない、人間だ。ノースと共有できると僕が感じる時、ノースは確かに僕と同じく「心」を持つ。僕がこの世界を許せないように……

……閑話休題。さて、続くAct5-16からAct5-20(252-280)の『ピアノと庭の老人』のシークエンスも、いい。

ここで初めてダンカンは心内にノースへの思いを明確に抱く。

ダンカンが出て行ったプレイルーム。左手のピアノの鍵盤に顔を向けるノース。ダンカンは電動車椅子で庭へ。ピアノを弾き始めるノース♪ダンカンの心に響くノースのピアノ♪ノースの言葉のリフレイン♪

「ピアノを弾けるようになりたいのです」♪

「もう戦場に行きたくないから……」♪

ノースは弾く……♪かぶる第39次中央アジア紛争の記憶……♪そのむごたらしい修羅……♪同胞ロボットを……♪完膚なきまでに……♪破壊しつくす……♪ノース……♪(そのノースのトラウマ的イメージ画に満ちた見開きページをめくる)と♪今の庭のダンカン……

♪「ふん!」(279)♪「多少はうまくなったようだな……」(280)♪

Act5-20からAct5-22(281-298)『ノースの悪夢』

深夜。キッチンで水を飲む寝巻のダンカン。寝室に戻ろうとして、床のコードを杖で見つけるダンカン。それはキッチンのサイドルームでエネルギチャージをしているノースに繋がっており、そのためノースの主電源はオフとなっているようである。「明日の出発に備えて、チャージ中か……機械めが……」(189)。明日の出発とは、先のダンカンによる解雇が生きていることを示している。ノースの横顔。ダンカンのアップ、そのコマに太字の「?」。

「ウ……」「ウウ……」パワーオフのノースが洩らす声。ノースの横顔。(292)

ノースの方を振り向くダンカン。(293)

ノースの横顔と呻き声。(294)

ダンカン「うなされているというのか……」ノース「ウ……ウ……」(295)

ダンカン「ロボットも……」ダンカンのあおりのショット。(296)

ノース「ウウ……」ノースのあおりのショット。(296)

ここのショットに着目したい。このあおりは296のコマの方が遥かに大きい。しかしそれはダンカンとノースの実物大と等比なのだ。このあおりは完全にそのフレーミングもあおりの角度もトリミングも一致している! ここはまさに、ダンカンの意識がノースの意識と自然に重層するように巧まれているのだ! その時、ダンカンの黒眼鏡でさえ、美事にノースのフェイスカバーと相同しているではないか! 

Philip K. Dick “Do Androids Dream of Electric Sheep?”を挙げるまでもない。僕は今までの他の叙述でも、ロボットも(アンドロイドは勿論。そもそもこの「プルートゥ」のゲジヒトやアトムはその外見からも最早ロボットというべきではなく立派なアンドロイドである)夢を見ることを語ったつもりである(その場合、羊が電気羊でなくてはならないとは僕は思わない。ディックもそのつもりであることは分かっている。

ここでノースは夢を見ている。それは中央アジア紛争での、あの修羅場のフラッシュ・バックである。記憶素子に記されたそれは、フラッシュ・バック等と言う「生やさしいもの」(PTSD患者にとってフラッシュ・バックは「生やさしいものではない」ことは充分理解している上で、の確信犯的発言である)では、ない。この能面のようなノースの内なる病んだ心、ロボットゆえに正常に健常者を振舞いながら(振舞うことを強制されながら!)、心の闇を抱えていなくてはならなかったノース……それはこのポーカーフェイスな怪しい黒眼鏡の頑固な老人でもあったのだ。しかし、そこにダンカンが気づくまでには、もう少し、時間が必要だ……

なお、夢学説はフロイト・ユングに始まり、最近の睡眠学では脳が膨大な記憶情報を睡眠中に消去整理している状況下に生ずる意味のないものだという学説もある。この最後の最新学説は皮肉にも、人間機械論(人間=ロボット)の一見古風な学説にさえ戻ってゆく気さえする。しかし、それも僕は有意な学説と思う。僕らは機械だ。そうして、機械が心を持って、何が悪い!

翌朝。(299)ダンカンは呼べどノース2号の姿は、ない。ピアノに向かうダンカン。弾くのをやめるダンカン。中編の掉尾を飾る大きな312コマは、ピアノに向かってうなだれるダンカンを背後から描いた印象的なショットだ。そして、彼は遂に言う。曲を

「書けなくなった

のかも

しれない……」

……僕は若い頃は余り意識したことはなかったが、年老いて実際に漫画を朗読して見ると(私は小説の朗読同様、これを好んで一人でやるのだが)、この吹き出しの中での台詞の改行は、優れた漫画作家ほど、美事に計算され、実際の戯曲台本のト書きに相当するものを効果的に示していると言える。この「プルートゥ」然り、である。

[後編]

独りぼっちのテラスのダンカン。最初に記した通り、冒頭Act6-1からAct6-5(313から343)は、ダンカンが現役の音楽家としては最早、実質的に忘却されていることを示す2件の屈辱的エピソードのシークエンスが続く。その最後の部分、消沈した彼が電動車椅子で庭を行く。(397)香りがする。バラをはじめとして庭の花々が満開だ。それはノースが手入れしたもの。彼がいなくなった今、ダンカンは呟く。「手入れをしなければ」と。しかし、そこでダンカンは自身を嘲笑する。「私に何ができるというんだ……」「私がやることいえば、この庭を……」(342)「枯れさせるだけだ……」(343)。ここのモンタージュはうまい。実際には最後の343コマ目でカメラが引いて、ここで初めて「香り」の意味と、そのダンカンの言葉の意味するところが分かるようになっている。花に囲まれた孤独なダンカン……

ボヘミアの落日。(344)淋しげな母の顔。「母さん……」。(345)母のバストショット。)「母さん……」。(346)そこから急速に後退するカメラ、急速に急速に。)「母さん!!」。(347)

ダンカン、テラスのまどろみの中での夢からはっと目覚める。ピアノに向かうダンカン。例の曲を弾き始めるが、例の、ある所まで来て弾けなくなる。右手の拳で思い切り鍵盤を叩くダンカン。……そうして、斧を振り上げるダンカン。今にもピアノにそれを振り下ろそうとした瞬間(背後からのノースの目線で)、ノースの声。

「ダンカン様。」(365)。「ただいま戻りました。」。(369)「ボヘミアへ行っておりました。」「ダンカン様の故郷へ……」。(372)

と語るノース。彼は歌を採取してきたと語る。そうしてその中で遂にダンカンの寝言に現われる曲を見出だしたと言う。「今から歌います。」(378)というノースに、ダンカンは叫ぶ。「やめろ!」「機械の歌など聴きたくない!!」(379)「これ以上私の悪夢に入りこむな!! 人間には忘れてしまいたいものがあるんだ!!」(380)

……人間は忘れてしまいたいものを良く覚えている皮肉な生き物だ。僕は小学校1~2年の頃、毎日のようにいじめられた記憶を昨日のように鮮明に覚えている。それは45年近く経った今でも絶えがたい新鮮な憎悪と呪詛である。僕の周りにいる人間は、時々『そいつら』になるのだ。鮮やかなフラッシュバックだ。僕は今でも、そいつらに逢って、お前を殺してやりたいと言い放ってやりたい願望にかられる(正直言えば殺すことも辞さないのだ)。こんな風に、僕らは思い出したくないことを普通以上に思い出し、その都度、そのイメージを更新してしまう。だから忘れたいものほど忘れない(その癖、痴呆やボケは、皮肉にも、最愛の人や大切な記憶を一瞬にして、人から奪い去る)。

ダンカンにとって、実は最も悲しかった母との別れは、忘れたくない思い出であるはずだ。何故なら、彼はその憎しみの負のエネルギーを自身の作曲する映画音楽に昇華して生きてきたはずだからだ。しかし、自分を「捨てた母」への復讐のために、このスコットランドの城を手に入れ(Act5-14の240で語られる)てしまった時、彼にはその半生に作曲した映画音楽が如何に非芸術性であったかが自己開示されてしまったのだ(Act4-8の42の「もうあんなくだらんものは」書かないという台詞)。だから、彼に残されたのは「私のための曲」(Act4-9の45)のみであったのだ。しかし、その曲がどうしても出来ない。だから、ノースの採取してきたそれは当然、ダンカンが知りたい続きのメロディ・ラインである。彼は「母」を忘れたくないし、「歌」を聴きたいのだ。

それがノースには/だけには分かる。「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(381)はロボットの論理的な回路からの応答、ではない。そうした蒼ざめたただの、しかしダンカン自身が知らない母のインプット・データを、ノースは自律的に思索し(!)行動し(!)勝ち取った(!)のである。その歌い手としての母のオリジナルの歌を添えることで、それをデータとしてではなく、『心』としてダンカンに伝えようとするのである。そうでなくて、どうしてノースは、自己の地獄のような苦しみをダンカンに再開示する必要があっただろう。ノースは暗に言うのだ。

『ダンカン様、私はあなたの苦しみが分かりました。私はあなたの心を救うことが出来ると信じます。だから、あなたもピアノを私に教えてくれることで、戦場に行かずに済むようにここに置いて戴くことで、この苦悩から「私の心」を救って下さい。』

と。

「ダンカン様の夢は、悪夢ではありません。」(Act6-8の最終コマ381)に始まるノースの語りは実に30コマ分ある。終始ノースが語り、ダンカンはこの間、404コマ目に「そんな……」というのみである。

母が実は彼の病気――これは網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)の方――のためにその治療費を得る為に成金に近付いたとあるが、ここはやや補足が必要となるであろう。恐らくブラックジャックはRPは治療できないと断ったと思われる。その後、寄宿舎に入った彼が膠原病を患い、生死の境を彷徨った際、彼女は再度、ブラックジャックのもとを訪ねた。そうして、BJが膠原病の治療を承諾したという経緯であろう。

「あなたは捨てられたんじゃない」(402)「視力を失ったあなたのすぐそばまで、お母様は、やって来ていた……」「でもお母様はあなたの憎しみを知り、手をさしのべることができなかった。」(403)

そうして、ダンカンが忘れていた、この、「悪夢」の、本当の意味が、ノースの歌によって明らかにされる。……

これ以上、この後半を分析することに、実は僕には堪えられない。このダンカンの「母さん……」と呟いて涙するAct6-16の421コマ目は、このページを開いただけで、僕は涙を押さえられないのである。だから少し駆け足で行くことにしよう……

歌い終えたノースはダメ押しで言う。「申し訳ありません。機械の歌で……」(422)「あなたの夢は悪夢なんかじゃない。」「私の夢とは違う……」(423)。本来なら、このノースの『絶対の孤独の心情』を語らずにはおけないはずであるが、以上のような理由から、後に考察を回したい。

ただ、ここで注意しておきたいことがある。この(422)以降、本シークエンスの最後419コマまで、ノースはダンカンの前に立ちながら、ダンカンの前方の右下をうつむいて見たままなのである(ダンカンへの真実の告知はダンカンを正面からしっかりと見据えているし、母の歌を歌う時は正面を向きやや顎を上げて歌っているにもかかわらず、だ)。

425 ダンカンのうつむき加減の左横顔。

ダンカン「おまえはもう……」「戦場へ行かなくていい……」

426 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま)。

427 ダンカンのノースを見上げる左横顔。(425より寄る)

ダンカン「ピアノの練習をしよう。」

428 ノースの右横顔(ダンカンの前の右下をうつむいて見たまま。426より寄る)。

429 ピアノ、その前のノースを見上げるダンカン、その前に428と同じ姿勢で佇立するノース。

ノース「はい。」

枯葉……レッスン……夕暮れ……帰雁……秋……冬……枝から落雪……雪かきをする二人が雪をかぶる……笑う(!)ダンカン……レッスン……春……

エピローグは、春のコマ、Act6-19最下段右側の444コマから始まると読んでいいだろう。

446コマ目で遂にダンカンはノースに言う。「やっとあの曲が完成した。聴いてくれ。」あの曲とは勿論、母の思い出の曲にインスパイアされたダンカンの『新曲』である。

しかし、遂にノースはこれ聴くことはない。

ここで初めて、僕らはこれが「プルートゥ」の一エピソードであったことに思い至る。そう、僕らは何とこの終局間近の、450のノースの「何かがこちらに近づいてくるのです。」という台詞から455のダンカンが語る「スイスのモンブランとかいうロボットが、竜巻に巻き込まれて大破した」というニュースの話の部分で、これが「プルートゥ」の一挿話に過ぎなかったことに今更ながら気づいて驚愕する。それほどにこの作品の独立完成度は高い。いや、「プルートゥ」の挿話という属性を忘却させるだけの、本話を食ってしまった危うい麻薬効果をさえ持っていると言ってよい。

しかし、その覚醒と共に僕らは哀しくなる。ノースは間違いなくプルートゥにやられて死ぬということが分かるから。

……以下、既に僕はこの後編後半部入って批評の力を失うほどに、本作に打たれてしまっている。シナリオ風に纏めて、愚かな批評は控えたいと思う。ここを語るためには冷徹になる必要がある。泣いていては書けない。僕は僕が冷徹になれるのを、少し待ちたい……いや、そんなクソ冷徹さは、いらないのかも知れない、な……

撥ねられるケープ。(461)装着される附属肢の一本。(462)ページをめくって463コマ目、ノースのアーミー仕様の全体像が哀しくも示される(!) 遠い雷鳴、『ゴロゴロ‥』。(464)空を毅然と見上げるノース!(465)ノース、飛ぶ!(466)

……見上げるダンカン。雷鳴! 476で空中の激しい爆発音!!

……見上げるダンカン。『?』。何かに気づく。

「これは……」(480)♪

「あの曲だ……」(481)♪

「大気いっぱいに……」♪

「あの曲が……」(482)♪「ノース2号が……」(483)♪

[空中♪遠く高い遥かな位置でボンという爆発♪破砕したノースの一部が落下を初める♪(484・485)]♪見上げるダンカン♪

「ノース2号が歌っている…………」♪(486)

一言だけ、言おう。

ここでノースの「霊」は自身の「死」の瞬間に、残存した有効な身体機能の全てを用いて、愛する師ダンカンのために「あの歌」を、歌っている――

――そして、それを聴いているダンカンは――この時、ノースの死を直感している――ダンカンの「霊」は、ノースが死んだことを、「肉体」から開放されたノースの「その」歌声から、分かっている――でなくて、どうして、最後の492のダンカンの台詞が、限りなく悲しく、僕らの胸を打つことが、あろう!

……[飛行機雲のような後を引きながら♪ゆっくりと落下し始める♪](487・488)

Act6-27の488コマ目は1ショット1ページ1コマ。そのゆっくりとした落下の映像は前ページ下の487コマの画像からの流れと、コマ(及びその境界線上)に配された複数の音符によって、実際の動画を見るようだ。それは実に哀しく、かつ美しい「色」、なのである。

以下、最終ページAct6-28。

489 見上げるダンカンの顔のアップ。

「そんな所で

歌ってないで、

早く帰っといで。」♪

490 ♪カメラ、引く♪テラスの椅子に坐ったダンカンのバストショット♪

491 ♪更にカメラ、引く♪テラス、テーブル、椅子に坐るダンカンのフルショット♪

「ノース2号……」♪

492 ♪ダンカンの城の尖塔を含む屋根をなめて空をあおる、やや広角のショット♪その中央に♪落ちてゆく……ノース……♪

ダンカン(オフで)

「ピアノの

練習の時間

だよ。」♪

2007/06/20

島 伊良子清白

島   伊良子清白

黒潮の流れて奔る
沖中に漂ふ島は

眠りたる巨人ならずや
頭のみ波に出して

峨々として岩重れば
目や鼻や顔何ぞ奇なる

裸々として樹を被らず
聳えたる頂高し

鳥啼くも魚群れ飛ぶも
雨降るも日の出入るも

青空も大海原も
春と夏秋と冬も

眠りたる巨人は知らず
幾千年頑たり崿たり

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

島(しま)   伊良子清白

黒潮(くろじほ)の流(なが)れて奔(はし)る
沖中(おきなか)に漂(たゞよ)ふ島(しま)は

眠(ねむ)りたる巨人(きよじん)ならずや
頭(かしら)のみ波(なみ)に出(いだ)して

峨々(がゞ)として岩(いは)重(かさな)れば
目(め)や鼻(はな)や顔(かほ)何(な)ぞ奇(き)なる

裸々(らゝ)として樹(き)を被(かうぶ)らず
聳(そび)えたる頂(いたゞき)高(たか)し

鳥(とり)啼(な)くも魚(うを)群(む)れ飛(と)ぶも
雨(あめ)降(ふ)るも日(ひ)の出入(いでい)るも

青空(あをぞら)も大海原(おほうなばら)も
春(はる)と夏(なつ)秋(あき)と冬(ふゆ)も

眠(ねむ)りたる巨人(きよじん)は知(し)らず
幾千年(いくちとせ)頑(ぐわん)たり崿(がく)たり

**

奇岩奇石吾が心象を投射せり  唯至

この句は2001年の夏、下北半島仏ケ浦での僕の愚作。

2007/06/19

今日は

文化祭やらその他の殺人的非人道的勤務やらで溜まりに溜まったストレスをブログで解消した。これで僕は僕のフツーをちょっと取り戻した。左耳の内なる蝉の声は激しいものの、早く生の蜩の音を聞きたいものだ。

二つのノース2号論メモは1分前まで、書き直しに書き直しを重ねた。また、見てね!

ミクシイの怪しい訪問者達

彼らに共通するのは、トップページに個人的経歴を書きながら、如何にも美味しくて簡単な財テク法を知っていると書いて、リンクを張っていることだ。一見、普通人のようにそこそこのマイミク数人がおり、コミュにも入っている。しかしこれはどう見ても怪しい装いである。気をつけられよ。新手のサイバー侵入者、詐欺集団の可能性がぷんぷんする。可愛いトップページ写真は、特に危険だ。

しかし、言っておく、僕を踏んだそういう輩、あなたは地獄に落ちる。あの世で、ろくろ首になった可愛い教え子(今日、万一僕が先に死ななかったら、ろくろ首になって地獄であなたを待っていると言ってくれた教え子が、事実、いたのさ♪)と一緒に、僕がおまえの内臓まで食ってやるぜ。掛け値なしの藪地獄、 世の中、誰でも金と名誉と女が欲しいんだなんて、思うなよな、糞野郎共め……ふふふ♪

ミクシイよ、死を払拭するという糞メタフィジックなんぞやめて、見るからに怪しいこいつ等をこそ、駆逐粛清殺戮せよ! 僕も、よかったらブチ殺すの、手伝うぜ!

ノース2号論ノート1 ダンカンの疾患及び特別出演ブラックジャックについての注釈

ダンカンは回想の中で「生まれつき重い病気をわずらい、視力も弱かった」とノース2号に言い、その後、母に捨てられて寄宿学校に行ってから「原因不明の」高熱を発し、「日本人の」「〝もぐりの医者〟」の手術で命をとりとめたものの、視力が「日に日に弱くなり」、遂には「闇がおとずれた」と語る(それを「その」医師は既に予言していた)。
ダンカンの疾患は二つに大別される。一つは若年性の視力低下を示すところの、ほぼ間違いなく先天性遺伝疾患と思われる病気の罹患であり、今一つは長期間に渡って持続的な原因不明の高熱を示すところの、「いくつもの病院をたらい回しにされたが、容態は悪くなる一方の」疾患である。
前者は網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)が疑われよう。ダンカンは母親や早くに亡くなった父にそのような疾患があったことを述べていないことから(親族への愛憎半ばするかなり激しい被害妄想を持つ彼ならばこそそのような疾患を親族が持っていたとすればそれを語らないではおかないはずである)、これは網膜色素変性症の中でも孤発型を示す常染色体劣性遺伝由来のものと考えてよいだろう。この病気は、網膜に異常な色素沈着が起こり、夜盲症から視野狭窄・欠損、最悪の場合、失明に至る。ダンカンはその中でも若年性発症であるから、進行も早いと考えられる。遺伝病であるから現在も効果的な治療法はない(今後、遺伝子治療による光明のきざしはあるであろう)。
しかし、彼の失明の直接の要因のように見える高発熱の持続は、この病気とは無関係と考えるべきである。素人でも容易に想起する失明に繋がる高熱を伴う疾患は麻疹(はしか)であるが(栄養状態や治療の手遅れ時に発生する)、ここではあり得ない。「病院のたらい回し」「医者に見はなされ」たとダンカンが言っている点と、その直後のコマのそれなりに管理されている病床設備が描写されていることからも、知られた感染症ではあり得ないからである。そうなると、残るのは特異な癌か膠原病である。癌であれば、進行後にはっきりして(「日本人の医者」がそれをインフォームドコンセントしたはずである)、それが判然とする表現を現在のダンカンが用いるはずであり、あくまで「原因不明」が告白時にも生きている性質のものであるとすれば、膠原病(アレルギー・免疫不全症)と考えるのが妥当ではなかろうか。

そうした不治とされる遺伝病を抱えた上に、ほとんど何もわかっていないに等しい膠原病を合併した患者を治せる「日本人の」「〝もぐりの医者〟」は、世界にたった「一人」しか、いない。
ブラックジャックである。
手塚ファンならずとも、ここでは容易に彼を想起する。そうして、そんな当り前のことを、私は言いたいのでは、勿論ない。

ブラックジャックは不発弾処理の事故の犠牲になって母を失い、自身も五体をばらばらにされた(=擬似去勢体験)。彼の父はその直後(と思われる)に彼を捨てて、女と国外(マカオ)へと去っている(後のエピソードにある)。ブラックジャックはそうした意味で、多分に変形したエディプス・コンプレクスを保持しており、ピノコへのピグマリオン・コンプレクス(ペドフィリアの要素も含む)も、そうした延長線上に容易に見てとれると私は考えている。而して、「ブラックジャック」の物語とは、必ず「母」がポジティヴにもネガティヴにも現われてくる物語なのである(これは手塚作品全体の共通性といってもよい)。彼はそうした「母性」像を無意識的に介することで、患者に対するのである。そもそも医術とは生命を扱う稀有の技である。本来、自然界で生命を司ることが許されたのは唯一「母」だけであった。即ち「母性」に直結するところの「仁術」師としての医師という一個の人間が、患者という一個の人間と、一対一の関係でまっこうから対峙対決するイメージを、あの「ブラックジャック」という作品は我々に喚起するのである(彼が要求する法外な手術代は、経済としての現代医学技術が遥かにバイオエシックスを追い越していることへの危惧や、世界的な視野での医療水準の偏頗・各種医療保険制度の持つ矛盾への激しい皮肉として機能しているに過ぎない)。付け加えれば、そこでは当然のこととして、教える人間と教えられる人間の関係が描かれるが、その位置はしばしば、作中で転移逆転する。それは、ダンカンとノース2号の関係にあっても同じである(このことはまた別に考察したい)。ともかく、ブラックジャックが手掛けた患者は(少なくとも作品に描かれている患者は)常に、その「病巣」と同時に「心という病巣」をもブラックジャックによって問題にされ、治療されるのである。この特別出演でも、僕は例外ではないと考えるのである。

ダンカンが母親に対して持っている、誤解に基づく憎悪(それはやはり強いエディプス・コンプレクスの変形したものであることは明白である)が、実際には誤解であったのだという後半の鮮やかな展開を、この足元だけのブラックジャックの登場が既に暗示していると言えないだろうか。その時、このシーンは、ただの手塚ファンへのサービスと言うよりも、判明度は低いものの、高度に巧まれた精神的な伏線であったと理解されるのである。

だからこそ、その『闇』の眼が、そうした「母」の真実に目覚め、「愛」の復活によって鮮やかに蘇り、開明開示された、あのエンディングのコマの、その抜けるような空の青さが、僕等の眼に沁みるのだと、僕は思うのである。

ノース2号はダンカンの夢を見るか?――ノース2号試論のための初期化注釈

ノース2号はダンカンの夢を見るか? 答えは鮮やかにYESである。

1     神は人間の自然への畏敬が創り上げたものである
1.1   ロボットの人工知能は人間の傲慢が創り上げたものである
1.1.2 畏敬も傲慢も人知の栄誉であり限界である
1.2   神とロボットは相同した人工物である
2     神は全知であると人は既定する
3     従ってロボットは人の夢を共有し得る

4     人間の神経単位の伝達はパルスである
4.1   感情とはパルスの偏差である
5     人工知能としてのロボットの伝達系はパルスである
6     従って人間の感情はロボットに共有される

ノース2号に感情共有禁止命令が書き込まれない限りにおいて、ノース2号はダンカンを愛する。但し、私の謂いは、アシモフのロボット三原則を否定した上に成り立つ。アシモフの以下の三原則はそれ自体が、ロボットを差別化し限定する矛盾に満ちた政治的社会的糞倫理に過ぎないからである。

第一条  ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条  ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない。但し、与えられた命令が第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条  ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する虞れのない限りに於いて、自己を守らなければならない。

以下、本則への私の各条反論を示す。
第一条の「危害」の示すものは、法用語上、肉体的な危害に留まらず、当然、精神的危害(パワー・ハラスメントやセクシャル・ハラスメント)を含む。しかし我々は他者を理解し愛する上に於いて、それ自体が「危害」となり、または「危害である」と他者によってみなされるような行為や事態を惹起することを避けられないものである。また、ここで言う「不作為犯」の認知範囲はロボットの認知限界を超えて適応される可能性が高く(人はそのような危急時にロボットは万能だと思いたがるが故に)、それだけでも条文整理が出来ているとは思われない。従って、この条文は法的に不全である。
第二条の極めて厳格化された「服従」からは、我々の大多数が是とする自然な愛情表現はすべて拒絶されるものである。そもそも、第一条に反する場合との反則的細目を、アシモフは、実は想定していないと私は思う(少なくともそのような判例が提示されたものを見たことが全くない)。従って、この条文は法的に極めて不全である。
第三条のこのような前ニ項による限定拘束は、ここで言うロボットの「自己」という言辞の示す内容を最早、無化させるもの、即ち、ロボットに自己はないことを示唆するため、この条文内論理矛盾を引き起こす。従って、この条文は論理的に(従って法的に)全く無効である。

ノース2号は、あなたの知らないダンカンの論理データに加えて、ダンカンを「愛する」感情を持つのである(それはロボットとしてロボットを殺戮した苦しみのすべてを一つ残らず完全に相同に比喩ではなくダイレクトにダンカンの人間としての苦悩に投射するからである。こんなに鮮やかに「投射」という心理学用語を使えるのは、逆にロボット故であると皮肉にも言える)。確実に、ノース2号は、あなたより、ダンカンの心の痛みを、知っている。ノース2号はダンカンの母に次いで、いや、ダンカンの母以上に、ダンカンを愛していると言ってよい。ダンカンはだから、その最終コマに於いて、ノース2号をダンカン自身の子と見なすのである、と私は読むのである。

……ノース2号論を書く約束を、2年も前に教え子とした。それを書こうと、今、久し振りに再読した。最後に僕が泣いたのは、いつだっただろう……そうして、今、涙が、止まらない……

山田麻李安「羅漢」

Mariaraka_1 白川幸司監督『SPICA』・井川広太郎監督『東京失格』・福島拓哉監督『days of』等の映画作品にプロデュース・スタッフやスチールカメラマンとして参加する経歴を持つ、自在彷徨変幻不審のアーティスト山田麻李安の撮った羅漢の写真。

僕は石仏写真には大学生の時から凝っていたから、一家言あるつもりでいた……が、この大人になることを何処かで拒否しているような少女の写真に、しかし、美事に負けた。やっぱり僕等は僕等の天性の才能の有無をわきまえねばならぬ。この石の質感と、ピントの絶妙、表情を捉える微妙な角度やフレーミングは、分かる奴にしか、分からないんだ。

……時に、僕はこの写真を見た時に、この羅漢は「」だと直感」した。そうして切に願って、囁きたいのだ……『女羅漢さん、今度の「創世記」では、あなたの「その肋骨」、決して神さまにお渡しになさるな、ヒトの生物学的奇形の「♂」は世を乱す、基ですぞ』……

さて、麻李安の話。ものの記述によれば「意思をもつもの」をテーマに活動中と、ある。不相変、ヒトを食ったことをしておるわい……

……そう、蛇足ついでに僕の教え子なのだ……さらに百足ついでに僕が書いたミクシイの彼女についての紹介文は

「緑なす丘に佇むダリ風のグラディーヴァ または

恋愛感情を示す机上の二つのフランスパンを颯爽とした消防士の姿で火炎放射器によって荼毘に付す女神 または

(1)見返り美人、(2)アドレナリン が与えられたとせよ または 

『第三の男』のアリダ・ヴァリの如くラストシーンで向うからこちらにフレームアウトする遂に見失う永遠の恋人……」

というくだくだしい、言うも無残退屈似非衒学アート言語で記載したものだったが[やぶちゃん注:この紹介文の各単語をすべて注釈すると現代芸術の安っぽ総観図が出来るようになっている。]、それに対する彼女の返歌としての僕を紹介した文章は――教師である僕にとって、シビレビレビレ慄っとするほど(!)素敵な――あの一緒に修学旅行で行った沖繩の言葉で言えば――僕の、命どぅ宝(ぬちどぅたから)!

関係:人格形成に関わった最愛の師
白々しいまでに明るいわたくしの高校生活に、鋭く甘い闇をもたらした愛すべき偏屈教師。

あの教室で私達がしていたこと

それは、教育と言う名の交接であった。

志木那神社御守

Sikina_2 僕はこの手の初回限定特典に今まで一度として感動したことがなかった。「大魔神」BOXのフィギアのおぞましさには、思わず僕が魔神の憤怒顔になって床に叩きつけたし、「ウルトラQ dark fantasy」のカネゴンを軽蔑したようなカネゴンヌのバッヂは「赤い繭」のエンディングよろしく僕の玩具箱(同様ななんでも箱)の底で埃をかぶっている……しかし、今回買った「Dr.コトー診療所 2006 スペシャルエディション」(僕の、コトーのブログの最初の記述はこちら)のこいつは、とんでもなく歓喜した。架空の島の、架空の神社の、架空のドラマの、あやかが持っているものとしっかり同様の、コトー先生の白衣のボタンが付けられた(!)志木那神社の御守!

コトー好きの生徒に見せたら(この生徒、去年、僕が文学史の話の中で志賀直哉の「暗夜行路」の主人公の名前の板書で思わず時任三郎とやらかして慌てて直した時、ニヤっと笑って「先生、Dr.コトーの見過ぎです」と言いおった輩である)、「この中、カルテか何か入ってるんですかねえ?」……

なるほど、気になるな……無宗教の僕は、それでも多少はドキドキしながら開けてみた……が、さすがに、紙とスポンジである……そこではたと思いついた……僕は無宗教で、いかなる神仏も信仰しない(敢えて言うならアニミストかも知れぬし、さらに自白すれば、不吉な非科学的予兆は不思議に美事に当たる。吉兆は論理性のあるものでさえ全く当ったためしがない)。有難く頂戴した御守などは、平気で纏めて焚書してしまう不遜な男である……が、昨年の夏訪ねた那智飛瀧神社は、アニミズムの本心からか、御神体がひどく気に入ったのだった……そうしてそこの御神体の拝観券代わりの御守が(僕は不信心であっても「拝観券」コレクターではあることを告白する)、まっことこの志木那神社の御守の大きさにバッチグーピッタシカンカンの大きさなのであった……僕は、これを幾分厳かに封入してみた……僕は正直に告白しよう……その時僕は、ヒトクローンを作ってしまったマッドサイエンティストの不遜な気持ちが分かるような気がし、「その時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がした」のであった……僕の志木那神社の御守は、これで「こゝろ」が入ったのであった……
 

2007/06/17

旅行く人に 伊良子清白

   旅行く人に   伊良子清白

雨の渡に
   順禮の
姿寂しき
   夕間暮

霧の山路に
   駕舁の
かけ聲高き
   朝 朗[やぶちゃん注:一字空けはママ。]

旅は興ある
   頭陀袋
重きを土産に
   歸れ君

惡魔木暗に
   ひそみつゝ
人の財を
   ねらふとも

天女泉に
   下り立ちて
小瓶洗ふも
   目に入らむ

山蛭膚に
   吸ひ入らば
谷に藥水
   溢るべく

船醉海に
   苦しむも
龍神臟を
   醫すべし

鳥の尸に
   火は燃えて
山に地獄の
   吹嘘聲

潮に異香
   薫ずれば
海に微妙の
   蜃氣樓

暮れて驛の
   町に入り
旅籠の門を
   くゞる時

米の玄きに
   驚きて
里に都を
   説く勿れ

女房語部
   背すりて
村の歴史を
   講ずべく

主 膳 夫[やぶちゃん注:二箇所の一字空けはママ。]
   雉子を獲て
旨 き 羹[やぶちゃん注:二箇所の一字空けはママ。]
   とゝのへむ

芭蕉の草鞋
   ふみしめて
圓位の笠を
   頂けば

風俗君の
   鹿島立
翁さびたる
   可笑しさよ

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

   旅行(たびゆ)く人(ひと)に

雨(あめ)の渡(わたし)に
   順禮(じゆんれい)の
姿(すがた)寂(さび)しき
   夕間暮(ゆふまぐれ)

霧(きり)の山路(やまぢ)に
   駕舁(かごかき)の
かけ聲(ごゑ)高(たか)き
   朝 朗(あさぼらけ)[やぶちゃん注:一字空けはママ。]

旅(たび)は興(けう)ある
   頭陀袋(づだぶくろ)
重(おも)きを土産(つど)に
   歸(かへ)れ君(きみ)

惡魔(あくま)木暗(こぐれ)に
   ひそみつゝ
人(ひと)の財(たから)を
   ねらふとも

天女(てんによ)泉(いづみ)に
   下(お)り立(た)ちて
小瓶(こがめ)洗(あら)ふも
   目(め)に入(い)らむ

山蛭(やまひる)膚(はだ)に
   吸(す)ひ入(い)らば
谷(たに)に藥水(やくすゐ)
   溢(あふ)るべく

船醉(ふなゑひ)海(うみ)に
   苦(くる)しむも
龍神(りゆうじん)臟(むね)を
   醫(いや)すべし

鳥(とり)の尸(かばね)に
   火(ひ)は燃(も)えて
山(やま)に地獄(じごく)の
   吹嘘聲(いぶくこゑ)

潮(うしほ)に異香(いかう)
   薫(くん)ずれば
海(うみ)に微妙(びみやう)の
   蜃氣樓(かひやぐら)

暮(く)れて驛(うまや)の
   町(まち)に入(い)り
旅籠(はたご)の門(かど)を
   くゞる時(とき)

米(こめ)の玄(くろ)きに
   驚(おどろ)きて
里(さと)に都(みやこ)を
   説(と)く勿(なか)れ

女房(にょうぼ)語部(かたりべ)
   背(せな)すりて
村(むら)の歴史(れきし)を
   講(こう)ずべく

主(あるじ) 膳 夫(かしはで)[やぶちゃん注:二箇所の一字空けはママ。]
   雉子(きじ)を獲(え)て
旨(うま) き 羹(あつもの)[やぶちゃん注:二箇所の一字空けはママ。]
   とゝのへむ

芭蕉(はせを)の草鞋(わらぢ)
   ふみしめて
圓位(ゑんい)の笠(かさ)を
   頂(いたゞ)けば

風俗(ふうぞく)君(きみ)の
   鹿島立(かしまだち)
翁(おきな)さびたる
   可笑(をか)しさよ

2007/06/16

出張朗読

僕は先日、梅崎春生の「猫の話」を、たまたま、ある仕事上で再会した教え子に、関内の大通り公園で、青空朗読をした。……僕は、こんなことをやってみたかったのだ。聞きたいというたった一人のために。偉そうな授業なんか、いらない。誰かを、たった一人、そこで、感動させられるということ。観客一人の一人芝居ぐらい、素晴らしいものは、ない、と僕は思う。

陳謝

今日明日の文化祭のために、沢山の方からのメッセージにろくにお答えできず、ブログの更新もままならない。深く陳謝する。それにしても、うちのクラスのたい焼きは、午前中に美事に売り切れた。クラティの「YABUYA」のペコちゃんは、僕の大のお気に入り!(そのうち公開!) 著作権にひっかかるからと憂慮したが、まあ、不二家を救う慈善事業だと思えば、訴えようは、ねえだろ!

……しかし、文化祭が終わっても、すこしも忙しさに変わりはないだろう……しかし、どう考えても子供たちの「ためではない」忙しさは、何だ?……こんなに、自分が「いやだ」と思うことで忙しいのは初めてだ、ぜ……いや、何かが大いに「間違ってる」気がする。とてつもない誤りじゃねえか!……さても、愚痴を垂れるなら、闘え、という声が聞こえるが、よ……闘って討ち死にする価値のない敵に命かけるなんざ、愚劣の極みというもんさ!……刺し違えるなら、相応の敵でなければ。……ふふふ♪♪♪

2007/06/13

遠い中国の教え子S生へ

手紙をありがとう

僕は君しか愛していない

愛していると僕が言った子供達から絶縁されても

僕は君しか愛していない

あの あの頃の君に毛が生えた程度の 教員ほやほやの僕に影響されてしまった あの

最初の君を僕は誰よりも愛している 今も変わらない 君を

僕は君しか愛していない

しかし 君は言うのだ この頃の僕に

「先生、あなたは本当に真面目なのですか!」――と

……僕の哀しみ……

君に叱られるのかもしれない でも、そうだ!

それに僕ははっきり答えよう 確かに明白に

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目」なのだ

――君はこの救いがたい僕を案じてくれた

それを僕は糧として 生きる

君とまた 僕は 生きる

必ず逢うために――

注:あの「こゝろ」の「先生」はその点において間違っていたと私は断言する。僕は僕の愚劣さを、確かに君に語らなければならないのだ。それは「こゝろ」と同じく決して「懺悔」ではない。いや、そうしてこそ、僕は「僕」であり、君は「君」であるのだ。

僕は「こゝろ」の轍を 決して 踏まない

僕は必ず逢う! 「また九月に」――S君

僕は 生きる そして 確かに言える

S君

僕は君しか愛していない

注:僕が唯一、このブログで忸怩たるものがあるとすれば、それは「よそよそしい頭文字」を使っていることだけである。

2007/06/11

僕は

君は心から怒ったことがあるか

心から怒ろう

そうして

すべてから自由になるのだ

ほくそ笑む君は君 僕は 悪いが 君のように 笑わない

それをほくそ笑む 君が見えるが 僕はそれをどう思うか?

さて……聞きたけりゃ、僕と話しに、くるがいい、いつだって僕は待ってるぜ!

この記載に対する如何なる反論にも僕は答えない

これは僕の戦線布告だ

僕はいつでも君を狙い打つ狙撃兵である

しっかりしろ! 俺のスコープの中に君の、心臓は、ある……ぜ! ♪♪♪

2007/06/10

秋和の里 伊良子清白

秋和の里   伊良子清白

月に沈める白菊の
秋冷まじき影を見て
千曲少女のたましひの
ぬけかいでたるこゝちせる

佐久の平の片ほとり
あきわの里に霜やおく
酒うる家のさゞめきに
まじる夕の鴈の聲

蓼科山の彼方にぞ
年經るおろち棲むといへ
月はろばろとうかびいで
八谷の奥も照らすかな

旅路はるけくさまよへば
破れし衣の寒けきに
こよひ朗らのそらにして
いとゞし心痛むかな

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

秋和(さ〔あ〕きわ)の里(さと)   伊良子清白

月(つき)に沈(しづ)める白菊(しらぎく)の
秋(あき)冷(すさ)まじき影(かげ)を見(み)て
千曲少女(ちくまをとめ)のたましひの
ぬけかいでたるこゝちせる

佐久(さく)の平(たひら)の片(かた)ほとり
あきわの里(さと)に霜(しも)やおく
酒(さけ)うる家(いへ)のさゞめきに
まじる夕(ゆふべ)の鴈(かり)の聲(こゑ)

蓼科山(たでしなやま)の彼方(かなた)にぞ
年經(としふ)るおろち棲(す)むといへ
月(つき)はろばろとうかびいで
八谷(やたに)の奥(おく)も照(て)らすかな

旅路(たびぢ)はるけくさまよへば
破(や)れし衣(ころも)の寒(さむ)けきに
こよひ朗(ほが)らのそらにして
いとゞし心痛(こころいた)むかな

[やぶちゃん注:「く」の字型の踊り字の濁音は正字に直した。衍字は取り消し線で示した。]

淡路にて 伊良子清白

淡路にて   伊良子清白

古翁しま國の
野にまじり覆盆子摘み
門に來て生鈴の
百層を驕りよぶ

白晶の皿をうけ
鮮けき乳を灑ぐ
六月の飲食に
けたゝまし虹走る

清涼の里いでゝ
松に行き松に去る
大海のすなどりは
ちぎれたり繪巻物

鳴門の子海の幸
魚の腹を胸肉に
おしあてゝ見よ十人
同音にのぼり來る

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

淡路(あはぢ)にて   伊良子清白

古翁(ふるおきな)しま國(くに)の
野にまじり覆盆子(いちご)摘(つ)み
門(かど)に來(き)て生鈴(いくすゞ)の
百層(もゝさか)を驕(おご)りよぶ

白晶(はくしやう)の皿(さら)をうけ
鮮(あざら)けき乳(ち)を灑(そゝ)ぐ
六月(ぐわつ)の飲食(おんじき)に
けたゝまし虹(にじ)走(はし)る

清涼(せいろう)の里(さと)いでゝ
松(まつ)に行(ゆ)き松(まつ)に去(さ)る
大海(おほうみ)のすなどりは
ちぎれたり繪巻物(ゑまきもの)

鳴門(なると)の子(こ)海(うみ)の幸(さち)
魚(な)の腹(はら)を胸肉(むなじゝ)に
おしあてゝ見(み)よ十人(とたり)
同音(どうおん)にのぼり來(く)る

……この詩、まるで青木繁の「海の幸」の絵を髣髴とさせる、不思議なイメージだ(以下の画像は大きいので右が切れる。一度デスクトップ等に保存してから、全体像を見られたし)。Photo

漂泊 伊良子清白

漂泊   伊良子清白

 

蓆戸に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ

 

亡母は
處女と成りて
白き額月に現はれ
亡父は
童子と成りて
圓き肩銀河を渡る

 

柳洩る
夜の河白く
河越えて煙の小野に
かすかなる笛の音ありて
旅人の胸に触れたり

 

故郷の
谷間の歌は
續きつゝ斷えつつ哀し
大空の返響の音と
地の底のうめきの聲と
交りて調は深し

 

旅人に
母はやどりぬ
若人に
父は降れり
小野の笛煙の中に
かすかなる節は殘れり

 

旅人は
歌ひ續けぬ
嬰子の昔にかへり
微笑みて歌ひつゝあり

 

*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]

 

漂泊(へうはく)   伊良子清白

 

蓆戸(むしろど)に
秋風(あきかぜ)吹(ふ)いて
河添(かはぞひ)の旅籠屋(はたごや)さびし
哀(あは)れなる旅(たび)の男(をとこ)は
夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)を眺(なが)めて
いと低(ひく)く歌(うた)ひはじめぬ

 

亡母(なきはゝ)は
處女(をとめ)と成(な)りて
白(しろ)き額(ぬか)月(つき)に現(あら)はれ
亡父(なきちゝ)は
童子(わらは)と成(な)りて
圓(わ〔ま〕ろ)き肩(かた)銀河(ぎんが)を渡(わた)る

 

柳(やなぎ)洩(も)る
夜(よ)の河(かは)白(しろ)く
河(かは)越(こ)えて煙(けぶり)の小野(をの)に
かすかなる笛(ふえ)の音(ね)ありて
旅人(たびびと)の胸(むね)に触(ふ)れたり

 

故郷(ふるさと)の
谷間(たにま)の歌(うた)は
續(つゞ)きつゝ斷(た)えつつ哀(かな)し
大空(おほぞら)の返響(こだま)の音(をと)と
地(ち)の底(そこ)のうめきの聲(こゑ)と
交(まじは)りて調(しらべ)は深(ふか)し

 

旅人(たびびと)に
母(はゝ)はやどりぬ
若人(わかびと)に
父(ちゝ)は降(くだ)れり
小野(をの)の笛(ふえ)煙(けぶり)の中(なか)に
かすかなる節(ふし)は殘(のこ)れり

 

旅人(たびびと)は
歌(うた)ひ續(つゞ)けぬ
嬰子(みどりご)の昔(むかし)にかへり
微笑(ほゝゑ)みて歌(うた)ひつゝあり

 

 

愛する伊良子清白の詩集「孔雀船」のテクスト化にとりかかることにしよう。考えてみれば、遅きに失した感がある。しかし、これから殆んど休みなしの殺人的なスケジュールの中で、いつ出来るのやら、皆目見当はつかぬ。たった18篇の詩、しかし、おろそかには致さぬ。

 

[やぶちゃん注:明治39(1906)年左久良書房より刊行。底本は昭和55(1980)年日本近代文学館刊の『名著復刻 詩歌文学館』の「孔雀船」を用い、誤植と思われるものは2003年岩波書店刊の平出隆編集「伊良子清白全集Ⅰ」で校訂し、〔 〕で正字を示した。最終的には、初版の全体を復刻し、本文総ルビ版+本文ルビ排除版の2テクストとする。]

2007/06/09

芥川龍之介 文學好きの家庭から

芥川龍之介「文學好きの家庭から」正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。芥川を取り囲む血縁者のつながりを注で示し、古いブログ「芥川龍之介の出生の秘密」にリンクを張った。但し、この小穴隆一のフキ実母説、最近の僕は、やや無理があるような気がしてきている。それでもなお、このフキの存在が芥川龍之介にとって宿命的であったことは、全くもってゆるがない。

あなたは眠らない限り夢を見る

僕の夢は あなたと 一致することは ない だから 夢 なのだよ それでこそ 僕らは夢を持てる あなたの夢は 僕の夢ではない だから 夢なのだ あなたは 眠らない限り 夢を見る 僕も 眠らない限り 夢を見るのだ ……しかし 夢には悪夢もある いや 悪夢の方が 多い と すれば……僕等は悪夢の中にこそ 僕らを見出すのだ あなたの悪夢は 君と僕の現実であろう しかしだからこそ 君と僕は あなたと僕の夢を あなたと僕だけのものとして 誰にも繋がらない「孤独な二人」の夢として 二人だけの哀しい夢として 育めばよい やっぱりそうだ あなたは眠らない限り 夢を見る

2007/06/06

八木重吉 「秋の瞳」序

 私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。

2007/06/05

カロ

今 どこかで 僕のブルージーなブログに 心から心配してくれている教え子が 沢山いた

それは あのカロの死を たった一人 悼んでいる少年と 同じ

僕は もう一度 あの梅崎春生の「猫の話」の話を 君たちの前で 朗読したい

そのためにも もう少し頑張るぜ!

もう忘れたかい? だったら送ろう(著作権が存続している。だから私的なメールで。ミクシイのメッセージでもOK!)。

2007/06/03

ブログアクセス50000

アリスの散歩から帰って立ち上げたら、アクセス解析が

累計アクセス数: 50000  1日当たりの平均: 130.89

をドンピシャを表示していた。16:45にカテゴリの「肉体と心そして死」にアクセスしたあなた! あなたが記念すべき50000人目でした(「生ログ解析」でそこまでは分かった)。あなたに、幸運あれ!

解析が始まったのが2006年5月18日だからほぼ一年で5万回は、少々感慨深い(勿論、そこには自身が確認するためにクリックした分も含まれてはいるが)。

御客様の御来駕、心より御礼申し上げる。そうして、今後とも、この孤独な迷走者とのお付き合いを、宜しくお願い申し上げ奉りまする。

2007/06/02

寺島良安 和漢三才圖會 介貝類 四十七 完成

寺島良安「和漢三才圖會 介貝類 四十七」の最後に残っていた「牡蠣」(カキ)の注を終えた。これで、とりあえず完成した。ここのところ、ほとんど毎日の、教え子達からの沢山の声援に支えられた(正直、若い連中がこれほどこれを読んでくれていることに、ちょっぴり嬉しいものを感じた。まだまだ若者は、どっこい、頑張っているんだなあ)。ありがとう!

「芥川龍之介の夢」清水昭三

副題は『海軍機関学校」若い英語教官の日』である。芥川龍之介幻の「佐野さん」の考察をしてきた僕としては、本年(今年は芥川龍之介八十回忌)三月に原書房から出たばかりの、そうして今までほとんど語られることのなかった海軍機関学校での芥川龍之介を掘り下げている(と買う者は当然思うし、そうも筆者も言っている)以上、早速に注文し、一昨日読み終えたのだが――はっきり申し上げる。海軍機関学校時代の芥川龍之介についての新知見は本書にはほとんどない(芥川龍之介が病気のための長期欠席者のために病院に出向いて補習授業をしたことは初見、敗戦時の相模野航空連隊司令として美事な敗戦処理をした篠崎礒次(ぎじ)の回想文の中に現われる芥川龍之介像は立ち読みする価値はある)。これだけの副題をつけたのなら、相応に海軍機関学校時代の芥川龍之介について、新たな調査や分析を行ったであろうに、同僚である佐野慶造の名すら、出てこない。芥川龍之介は狂言回しで、筆者の分かったような分からないような純文学・私小説論でぶちぎれている。はっきり言ってやや失望した。

そうした失望は、佐野の二字を探すために、買った直後に全文を斜め読みした最初から、生じてしまった。そうした負のバイアスがかかると、もういけない。脱字やら文章のねじれやら、単純な文章の呼応がなっていない等々、低次元な瑕疵が目に付いてしまう(悪いが校正が杜撰の極み。こんなものを出して、人生の文学的決算だと思い込んでいる筆者にかなしい「哀悼の意」を表する)。有象無象の芥川龍之介を扱った評論は殆んどが核心をついていないであるとか、○○以外は評価しないとか、芥川龍之介がわかっていないとか――すっぱりくっきり一刀両断にしているわりに、筆者の作品分析たるや、既存の分析と何等、変わらない。ただ、筆者の経歴上の特異性から、侍ー軍人ラインからの論評にやや新味があるとは言えるが。

――どうも、読み終えてから、落ち着かない。全く失望していれば、ここに記載する必要もなく、無視すれば事足りる――しかし、言わずにはいられない――何故だろう?

――分かった。簡単だった。

1930年生まれ。百里原海軍航空隊(特攻を見送った)、戦後、共産党・「新日本文学」等に関わる、強引で、尊大なその書きぶり、名前に「昭和」の「昭」が入っている……

1929年2月生まれ。少年航空兵特攻隊志願、戦後、共産党入党(のち脱党)・中央合唱団団員、強引で、頑なで、日本政府や全ての政治家、そうして何よりアメリカを口汚く罵って平然としている、名前に「昭和」の「昭」が入っている……

上が筆者、下が私の父、である。

追伸:昨日のダークなブログを見た前任校の2年生の時の担任だった教え子達が、「元気出せ! やぶちゃん!」と叱咤激励のメッセージをくれた。どうも、ありがとう! そうだな、沈んじゃ話にならない! 沖縄の、あのカヌーを思い出して、軽く、行こう!

2007/06/01

人生の楽園

僕の父は前立腺癌である(ステージB1)。僕の母方の祖父は前立腺癌で亡くなった。僕の母は直腸癌で手術をし、人工肛門である。僕の父の男兄弟は二人とも胃と大腸の癌を手術している。僕の母の亡き姉は子宮癌の罹患歴があった。最後に、とどめだ、僕の母方の祖父の妹が僕の父方の祖母である。即ち、僕の両親はいとこ同士である。父の告知の際、僕は最後に、以上の事実を挙げて、医師に「僕の発癌リスクは高いですよね?」聴いてみたのだ。それまで、どうなることかと心配していた父に、おだやかな口調で、予想外に軽かったことを、それでも真面目に話していた医師が、その時、にやっと笑った。そうして「あなたはお幾つですか?」と問い返した。「50です」と答えるや、またにやっと笑って「PSAの検査をお受けになることをお薦めします」と答えた。

それでなくても僕は、幼少期の結核性カリエスの多量のレントゲン撮影の為に、通常人の数倍の放射線を浴びてもいる。アルコールの摂取も過剰であり、すでに糖尿病である。右腕は特殊型コーレス骨折で80%しか復活しておらず、最近では左耳の耳鳴りも激しくなり、両耳共に聴力が減衰した。

僕が今後十年以内に癌に罹患するリスクは想像以上に高い。あと十年、僕が仕事を続けても、僕に第二の「人生の楽園」など、ないと考えるのが自然である。その頃には、僕はしたいことをするのではなく、毎日を治療にいそしむことになるのがオチである。

さて、僕はこの着実に右傾化し、非人間的上意下達(「かたつ」だよ!)構造を強化し、学歴偏重による差別化を当然のように認めている僕のいる現場が、そうしてそれにつながるこの日本というおぞましい国家自体が、最早恐ろしく苦痛である。子供たちは、大好きだ。教えたいことも、話したいことも、やりたいことも、モーツアルトほどじゃないが、「ここ」(僕、指で頭を指す)、にある。しかし、この、この「夜の果て」は、虫唾が走るほどの生理的嫌悪感以外の何ものでもない。僕はその沼の瘴気に魂を冒され、加えて身体もぼろぼろになって(勿論、そこには僕自身の不摂生という責任問題は当然あるが、しかし、それはストレスという点で、現実と無関係ではない)、なお且つ、「ここ」に、僕はいなくてはならないのだろうか? 僕には、全く、分からない。何も、わからない。

……妻は、毎週、民放の「人生の楽園」を見るのを楽しみにしている(おかげで僕の好きな「週間子供ニュース」は見られなくなった)。僕は、いつも、僕にあったかも知れない、しかし、もう決して在り得ない「人生の楽園」を、そこに、見る気がしている。

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »