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2007/06/19

ノース2号論ノート1 ダンカンの疾患及び特別出演ブラックジャックについての注釈

ダンカンは回想の中で「生まれつき重い病気をわずらい、視力も弱かった」とノース2号に言い、その後、母に捨てられて寄宿学校に行ってから「原因不明の」高熱を発し、「日本人の」「〝もぐりの医者〟」の手術で命をとりとめたものの、視力が「日に日に弱くなり」、遂には「闇がおとずれた」と語る(それを「その」医師は既に予言していた)。
ダンカンの疾患は二つに大別される。一つは若年性の視力低下を示すところの、ほぼ間違いなく先天性遺伝疾患と思われる病気の罹患であり、今一つは長期間に渡って持続的な原因不明の高熱を示すところの、「いくつもの病院をたらい回しにされたが、容態は悪くなる一方の」疾患である。
前者は網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa:略称RP)が疑われよう。ダンカンは母親や早くに亡くなった父にそのような疾患があったことを述べていないことから(親族への愛憎半ばするかなり激しい被害妄想を持つ彼ならばこそそのような疾患を親族が持っていたとすればそれを語らないではおかないはずである)、これは網膜色素変性症の中でも孤発型を示す常染色体劣性遺伝由来のものと考えてよいだろう。この病気は、網膜に異常な色素沈着が起こり、夜盲症から視野狭窄・欠損、最悪の場合、失明に至る。ダンカンはその中でも若年性発症であるから、進行も早いと考えられる。遺伝病であるから現在も効果的な治療法はない(今後、遺伝子治療による光明のきざしはあるであろう)。
しかし、彼の失明の直接の要因のように見える高発熱の持続は、この病気とは無関係と考えるべきである。素人でも容易に想起する失明に繋がる高熱を伴う疾患は麻疹(はしか)であるが(栄養状態や治療の手遅れ時に発生する)、ここではあり得ない。「病院のたらい回し」「医者に見はなされ」たとダンカンが言っている点と、その直後のコマのそれなりに管理されている病床設備が描写されていることからも、知られた感染症ではあり得ないからである。そうなると、残るのは特異な癌か膠原病である。癌であれば、進行後にはっきりして(「日本人の医者」がそれをインフォームドコンセントしたはずである)、それが判然とする表現を現在のダンカンが用いるはずであり、あくまで「原因不明」が告白時にも生きている性質のものであるとすれば、膠原病(アレルギー・免疫不全症)と考えるのが妥当ではなかろうか。

そうした不治とされる遺伝病を抱えた上に、ほとんど何もわかっていないに等しい膠原病を合併した患者を治せる「日本人の」「〝もぐりの医者〟」は、世界にたった「一人」しか、いない。
ブラックジャックである。
手塚ファンならずとも、ここでは容易に彼を想起する。そうして、そんな当り前のことを、私は言いたいのでは、勿論ない。

ブラックジャックは不発弾処理の事故の犠牲になって母を失い、自身も五体をばらばらにされた(=擬似去勢体験)。彼の父はその直後(と思われる)に彼を捨てて、女と国外(マカオ)へと去っている(後のエピソードにある)。ブラックジャックはそうした意味で、多分に変形したエディプス・コンプレクスを保持しており、ピノコへのピグマリオン・コンプレクス(ペドフィリアの要素も含む)も、そうした延長線上に容易に見てとれると私は考えている。而して、「ブラックジャック」の物語とは、必ず「母」がポジティヴにもネガティヴにも現われてくる物語なのである(これは手塚作品全体の共通性といってもよい)。彼はそうした「母性」像を無意識的に介することで、患者に対するのである。そもそも医術とは生命を扱う稀有の技である。本来、自然界で生命を司ることが許されたのは唯一「母」だけであった。即ち「母性」に直結するところの「仁術」師としての医師という一個の人間が、患者という一個の人間と、一対一の関係でまっこうから対峙対決するイメージを、あの「ブラックジャック」という作品は我々に喚起するのである(彼が要求する法外な手術代は、経済としての現代医学技術が遥かにバイオエシックスを追い越していることへの危惧や、世界的な視野での医療水準の偏頗・各種医療保険制度の持つ矛盾への激しい皮肉として機能しているに過ぎない)。付け加えれば、そこでは当然のこととして、教える人間と教えられる人間の関係が描かれるが、その位置はしばしば、作中で転移逆転する。それは、ダンカンとノース2号の関係にあっても同じである(このことはまた別に考察したい)。ともかく、ブラックジャックが手掛けた患者は(少なくとも作品に描かれている患者は)常に、その「病巣」と同時に「心という病巣」をもブラックジャックによって問題にされ、治療されるのである。この特別出演でも、僕は例外ではないと考えるのである。

ダンカンが母親に対して持っている、誤解に基づく憎悪(それはやはり強いエディプス・コンプレクスの変形したものであることは明白である)が、実際には誤解であったのだという後半の鮮やかな展開を、この足元だけのブラックジャックの登場が既に暗示していると言えないだろうか。その時、このシーンは、ただの手塚ファンへのサービスと言うよりも、判明度は低いものの、高度に巧まれた精神的な伏線であったと理解されるのである。

だからこそ、その『闇』の眼が、そうした「母」の真実に目覚め、「愛」の復活によって鮮やかに蘇り、開明開示された、あのエンディングのコマの、その抜けるような空の青さが、僕等の眼に沁みるのだと、僕は思うのである。

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