漂泊 伊良子清白
漂泊 伊良子清白
蓆戸に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ
亡母は
處女と成りて
白き額月に現はれ
亡父は
童子と成りて
圓き肩銀河を渡る
柳洩る
夜の河白く
河越えて煙の小野に
かすかなる笛の音ありて
旅人の胸に触れたり
故郷の
谷間の歌は
續きつゝ斷えつつ哀し
大空の返響の音と
地の底のうめきの聲と
交りて調は深し
旅人に
母はやどりぬ
若人に
父は降れり
小野の笛煙の中に
かすかなる節は殘れり
旅人は
歌ひ續けぬ
嬰子の昔にかへり
微笑みて歌ひつゝあり
*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]
漂泊(へうはく) 伊良子清白
蓆戸(むしろど)に
秋風(あきかぜ)吹(ふ)いて
河添(かはぞひ)の旅籠屋(はたごや)さびし
哀(あは)れなる旅(たび)の男(をとこ)は
夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)を眺(なが)めて
いと低(ひく)く歌(うた)ひはじめぬ
亡母(なきはゝ)は
處女(をとめ)と成(な)りて
白(しろ)き額(ぬか)月(つき)に現(あら)はれ
亡父(なきちゝ)は
童子(わらは)と成(な)りて
圓(わ〔ま〕ろ)き肩(かた)銀河(ぎんが)を渡(わた)る
柳(やなぎ)洩(も)る
夜(よ)の河(かは)白(しろ)く
河(かは)越(こ)えて煙(けぶり)の小野(をの)に
かすかなる笛(ふえ)の音(ね)ありて
旅人(たびびと)の胸(むね)に触(ふ)れたり
故郷(ふるさと)の
谷間(たにま)の歌(うた)は
續(つゞ)きつゝ斷(た)えつつ哀(かな)し
大空(おほぞら)の返響(こだま)の音(をと)と
地(ち)の底(そこ)のうめきの聲(こゑ)と
交(まじは)りて調(しらべ)は深(ふか)し
旅人(たびびと)に
母(はゝ)はやどりぬ
若人(わかびと)に
父(ちゝ)は降(くだ)れり
小野(をの)の笛(ふえ)煙(けぶり)の中(なか)に
かすかなる節(ふし)は殘(のこ)れり
旅人(たびびと)は
歌(うた)ひ續(つゞ)けぬ
嬰子(みどりご)の昔(むかし)にかへり
微笑(ほゝゑ)みて歌(うた)ひつゝあり
*
愛する伊良子清白の詩集「孔雀船」のテクスト化にとりかかることにしよう。考えてみれば、遅きに失した感がある。しかし、これから殆んど休みなしの殺人的なスケジュールの中で、いつ出来るのやら、皆目見当はつかぬ。たった18篇の詩、しかし、おろそかには致さぬ。
[やぶちゃん注:明治39(1906)年左久良書房より刊行。底本は昭和55(1980)年日本近代文学館刊の『名著復刻 詩歌文学館』の「孔雀船」を用い、誤植と思われるものは2003年岩波書店刊の平出隆編集「伊良子清白全集Ⅰ」で校訂し、〔 〕で正字を示した。最終的には、初版の全体を復刻し、本文総ルビ版+本文ルビ排除版の2テクストとする。]