鬼の語 伊良子清白
鬼の語 伊良子清白
顏蒼白き若者に
秘める不思議きかばやと
村人數多來れども
彼はさびしく笑ふのみ
前の日村を立出でゝ
仙者が嶽に登りしが
恐怖を抱くものゝごと
山の景色を語らはず
傳へ聞くらく此河の
きはまる所瀧ありて
其れより奥に入るものは
必ず山の祟あり
蝦蟆氣を吹きて立曇る
篠竹原を分け行けば
冷えし掌あらはれて
頂〔項〕顏に觸るゝとぞ
陽炎高さ二萬尺
黄山赤山黑山の
劍を植ゑたる頂に
秘密の主は宿るなり
盆の一日は暮れはてゝ
淋しき雨と成りにけり
怪しく光りし若者の
眼の色は冴え行きぬ
劉邦未だ若うして
谷路の底に蛇を斬りつ
而うして彼漢王の
位をつひに贏ち獲たり
この子も非凡山の氣に
中たりて床に隠れども
禁を守りて愚鈍者に
鬼の語を語らはず
*[やぶちゃん注:以下、底本準拠総ルビ。]
鬼(おに)の語(ことば) 伊良子清白
顏(かほ)蒼白(あをじろ)き若者(わかもの)に
秘(ひ)める不思議(ふしぎ)きかばやと
村人(むらびと)數多(あまた)來(きた)れども
彼(かれ)はさびしく笑(わら)ふのみ
前(きそ)の日(ひ)村(むら)を立出(たちい)でゝ
仙者(せんじや)が嶽(たけ)に登(のぼ)りしが
恐怖(おそれ)を抱(いだ)くものゝごと
山(やま)の景色(けしき)を語(かた)らはず
傳(つた)へ聞(き)くらく此(この)河(かは)の
きはまる所(ところ)瀧(たき)ありて
其(そ)れより奥(おく)に入(い)るものは
必(かなら)ず山(やま)の祟(たゝり)あり
蝦蟆(がま)氣(き)を吹(ふ)きて立曇(たちくも)る
篠竹原(しのだけはら)を分(わ)け行(ゆ)けば
冷(ひ)えし掌(てのひら)あらはれて
頂〔項〕(うなじ)顏(かほ)に觸(ふ)るゝとぞ
陽炎(かげろふ)高(たか)さ二萬尺(まんじやく)
黄山(きやま)赤山(あかやま)黑山(くろやま)の
劍(けん)を植ゑたる頂(いただき)に
秘密(ひみつ)の主(ぬし)は宿(やど)るなり
盆(ぼん)の一日(ひとひ)は暮(く)れはてゝ
淋(さび)しき雨(あめ)と成(な)りにけり
怪(あや)しく光(ひか)りし若者(わかもの)の
眼(まなこ)の色(いろ)は冴(さ)え行(ゆ)きぬ
劉邦(りうほう)未(いま)だ若(わか)うして
谷路(たにぢ)の底(そこ)に蛇(じや)を斬(き)りつ
而(しか)うして彼(かれ)漢王(かんわう)の
位(くらゐ)をつひに贏(か)ち獲(え)たり
この子(こ)も非凡(ひぼん)山(やま)の氣(き)に
中(あ)たりて床(とこ)に隠(かく)れども
禁(きん)を守(まも)りて愚鈍者(ぐどんじや)に
鬼(おに)の語(ことば)を語(かた)らはず
*
当初、浮かべたのは平田篤胤の「仙境異聞」の寅吉だが、彼はべらべらと喋くる、変に鼻についた糞ガキに過ぎない。この少年は語らない。だから重い、だから少年、だから信じられる、だから哀しい……彼の鬼の語を聞かずとも、僕は彼の鬼の世界を感じられる……それが「鬼」なのだ――