1964年8月15日の僕の絵日記 または 忘れ得ぬ人々16 白雲庵の老妻
前の花火は、余りに母の姿がひどい。僕の母は、あのようではない……かつて母が大船に買い物に行き、笠智衆とすれ違った。映画好きの母は、じっと見るのも気が引け、時々、ちょと彼の方に目を向けたそうだ。笠さんはあの、映画そのままに、何故か母の顔を、さも吃驚したように凝っと(ずっと凝っと、である)眺めながら、すれ違ったそうだ。そうして母が振り返ってみると、笠さんも立ち止まって母の方を見、母がお辞儀をすると、笠さんも深々とお辞儀をしたという……何故、笠さんは、吃驚した表情で見ていたか、見ず知らずの母に深々とお辞儀をしたか……僕には分かる。子馬鹿と言われてもよいが、若い時の母は、確かに原節子に似ていた……
*
8月15日 てんき はれ
おはかまいり
ぼくはおじいちゃんの、おはかまいえ〔衍字〕りにいきました。そのときは、まえ、おかしをくれたおてらのおばあちゃんがしんだので、おそうしきをやっているところでした。ぼくとおかあさんは、おはかをあらって、おりがみのかめやうさぎを、そなえ、おはなや、おせんこうもそなえました。
*
私の父方の墓は円覚寺の塔頭(たっちゅう)白雲庵にある。この時は、まだ祖父だけが墓に入っていた(祖父は父が幼少の時に結核で知多半島の河和で亡くなっている。火力発電所のタービンを設計した花形の技師であった)。
……文中に現われる「おばあちゃん」は当時の住職の奥さんである。この子のない住職の老夫婦は、よく僕を可愛がってくれた。この前の年の冬か、早春であったと思うが、やはり墓参りに訪れた際、母が住職と話をしているうちに、その老妻が僕に飛び切り大きなどら焼きを持ってきてくれたのだった。どこのものかは流石に覚えていないが、暗い部屋の閉めた障子に風に揺れる竹の影を見ながら(だから前年の夏ではないと思う)、それを頬ばった至福の時が蘇るのだ――それ以来、和菓子の苦手な僕は、唯一、どら焼きにだけは目がないのである――
……僕は、あのハレーションを起こすような暑い夏の白雲庵の葬儀の様子も、不思議に忘れることが出来ない。それは僕の記憶の中にある、初めての見知った人の葬儀であったからでもあり、その糞暑い中に慄っとする真っ黒な服に身を包んだ見知らぬ人々の群れに恐怖したからでもあるかも知れない。ただ確かに言えることは、何より僕が、永遠にあの笑顔の素敵なおばあちゃんから、あの、大きなどら焼きを貰うことがないのだ、という当り前の事実を知って、打算的ながら奇妙な哀しみを覚えたからであったに違いないということである……
*
ちなみに当時(小学校2年生)の担任の東塚徹先生の最後のコメント「きっとおばあちゃんは、よろこんでいらっしゃるでしょう。」は、墓の主を取り違えていると思われる。しかし、考えてみれば、僕はその「おばあちゃん」に、その場で「打算的ながら奇妙な哀しみを覚え」ていたとすれば……無数の黒服の人々よりは、幾分か、亡きその「おばあちゃん」への供養となったのだとも思えるのである……

