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2007/07/10

ノース2号論ノート 教え子の疑問に答える

注:本篇は僕の教え子――それはあの素晴らしい「プルートゥ」を是非読んで見て下さいと言った彼、彼がその一言を言い貸してくれなければ僕は多分「プルートゥ」を読まなかった。そうしてそれは僕の人生にとって悲しいこととなったに違いない――その彼の「ノース2号の巻」へのミクシイでの日記(それは明白に僕への挑戦状であると認識した)に答えた全文である。それにしても、今日の夕刊……さても第1次中央アジア紛争は既に始まったな……

○紹介業者から新しい執事は軍隊出身だとわかっててなぜOKしたかということ

Act4-3でダンカンは「ふん、またどうせろくでもないのをよこしたんだろう。」と言う。彼は恐らく、紹介業者からの執事ロボット(その強い他者不信から人間の執事をダンカンは使わないと確信する)をことごとく解雇してきたことが伺える。所謂、通常の家事ロボット(失礼ながらロビーの奥方のようなタイプの)では最早無理と考えた紹介業者が、渡りに舟のノースをあてがったと考えてよいであろう。経歴から見ても、ノースの求職は極めて異例のものであろうから、紹介業者としてはどこにどうするかを却って困惑していたかもしれない。従って、往年の映画音楽作曲家のプライドを満足させられる、「輝かしい経歴」のロボットを示せば、ダンカンは興味を持つと思ったのであろう(事実、そのような経過を辿る)。他者を嫌悪するダンカンにとっては、執事専用ロボットではなく、軍隊で多くのロボットを殺してきたロボットとして、ある種の露悪的というか、サディスティックな関心が働いたとも言えるであろう。ダンカンの中には、「こゝろ」の先生のように、あらゆる人間への不信がある以上、そこには実は無意識的な殺戮願望があるとも言えるかもしれない。
振返って、まさにノースの執事ロボット志願自体が、作品冒頭の強力な伏線なのだ。彼は、もう戦いたくない。だからこそ、周囲が驚いたであろう、執事というノースの「人生」の選択がある。
なお、その「2号」の体制や機能から見て、想定されるノース「1号」はもともと純然たる戦闘専用ロボットとして開発され、そのバージョンアップが「2号」であると考えてよいであろう(原作で彼が従うのは開発研究者である博士)。

○ダンカンに破壊したロボットの数を聞かれるときダンカンは「数えきれないほどか?」と答えるが、ロボットがそんな曖昧な記憶しかないことはありえない。記憶を消去した可能性もなくはないが「何体のロボットを破壊した?」のセリフの前後でノース2号の顔が同じ表情で黙っていることから記憶(メモリー)を見て計算したに違いない。

その通りである。ノースの記憶素子から消去されている可能性は、ないと言ってよい。人工知能が成長することによって、人間に近づけば近づくほど、「記憶の消去」は不可能になる。僕ら自身を考えてみるがよい。僕らは忘れたい記憶ほど、忘れられないものである。
現実的に考えても、ノース自身に自己の過去の記憶を消去する権利は禁止されていると考えるべきであろう。そのようなものとしてロボットはある。主人(もしくは製作者)が命じるのではなく、恐らく原始的な手動によってのみ、記憶の消去は可能であるように思われる。まさにパソコンや「ターミネーター2」の頭部ハードディスクの初期化のような作業を必要とすると考えてよい。
しかし、ここでそれ以上に、気づかなくてはならないことがある。それはここで既にノースはロボット法第2条に違反しているという点である。ダンカンに聞かれた時、彼は君の言うように、その破壊したロボットの正確な数を答える「義務」があるのである。しかし、彼は黙っている。それは、極めて都合よく(ロボット法的に)考えるならば、第2条の付則部分、“that doesn't conflict with the First Law. ”に関わり、第1条“A robot may not injure a human, or allow a human to be injured. ”が優先するから、と考えるとすれば、実はその時、ノースは正しくダンカンの「心」をとらえているということになってしまう。しかし、そうではあるまい。逆に、第2条に違反するほどに、ノースは人間化している、いや、あの戦場での自身の大量殺戮のおぞましさに、「心」から「人」と同様に「苦悩」していることの暗示であると捉えるべきであろう。

○ダンカンが、この屋敷から出て行け、といったのにもかからわず出て行った(正確には歌の採取)あとに、ダンカンの「本当にでていったのか」のセリフ。人間の矛盾。人工知能の論理矛盾と規則。ノースはもちろん初めからボヘミアへ行くつもりだった。そのとき彼の人工知能は命令違反をしているわけである。
俺はここで人口知能の進化を考える。きっと命令違反したノースの人工知能を調べても正常だろう。
むしろ精工な人工知能ほど正常を保ちつつ、論理矛盾と規則の間から考えを導き出す。それはロボットの進化ではないか。もちろんこの進化は第39次中央アジア紛争後である。

激しくすべてに同意する。あの解雇を命じた時、すでにダンカンのノースへの「愛」が生じている。僕は素直に「愛」であると思うのだ。それは互いが、自己の内的な秘密の苦悩(ダンカンは過去の母へのトラウマ、ノースは第39次中央アジア紛争のトラウマ)の相互開示によって、その「心の孤独者」であることの共有感情である。――万一、それに抵抗があるのであれば、「師弟愛」の萌芽と言ってもよい――その証拠に、ここで初めて純粋にダンカンのノースへ開かれた心が言葉として開示される。Act5-20の「多少はうまくなったようだな」である。そして、その瞬間、ダンカンは無意識的に、ノースがロボットであることを忘れているのである。でなくて、どうして、ダンカンは「本当にでていったのか」と呟くだろう。それは、僕ら「人間」の男女が、愛憎の中でつい本気でない罵倒や拒絶(それは愛の裏返しであることがしばしばある)をし合うのとなんら変わりはないシチュエーションなのである。
そうして、ロボット法はここで、もはやノースを拘束しない。あれは命令違反では、最早、ない。「愛」の対象者となった、それを恐らく未来的に予測した「ノースを愛するであろうダンカンを愛するノース」(それは最後に確かに哀しく実現する)は――最早、ロボットでは、ない、から。
一般論を述べよう。戦争の技術が人類の文明を進化させてきたのとパラレルに、実は戦争のトラウマが人間の倫理を高めてきたのではないか? 倫理とは「心」である。ヤーヴェが自身に似せてアダムを創ったように、人形(ひとがた)に似せたロボットの人工知能が人の心と相同となるのは(それを進化と称してよいかどうかは微妙に留保したいのだが)、歴史的必然なのである。

○ノースの夢:紛争のフラッシュバックについて。なぜメモリーを消去しないのか? 人間の記憶は忘れたいほど残る。夢を見るように何度も見るなら消去という選択肢もあったろう。ただしここで消去していた場合、上で上げた進化は考えられない。

既に答えた。現実的に消去できない。消去する権利を持たない。そうして、君の言う通り、というか、消去していたら、この話は「ない」、のだ。ロボットのノースが人間と同じくトラウマを持ち、悪夢を見る。それがダンカンの孤独な悪夢と共鳴して、壮大な二人の心の交感の交響曲(シンフォニー)となってゆくという「曲想」が、この作品の単一的、シンフォニックな「主題」なのである。

○ノースは言葉を発するとき口を開かない。が、ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせるときにのみ口が開いている。人間のまねごと? しかしダンカンには見えない。そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。

これは、まさに君の意見を読む直前に、僕も気づいたことである。この作品中、ノースの唇は能面のように一文字に閉じたままである。ところが、君の言う通り、「ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせる」時、Act6-14及び15の412と414コマ目の2コマだけ、ノースの少年のような唇が開き、ボヘミアの歌を詠うのだ。それは、しかし断じて「人間のまねごと」、ではない。それはノースが真に人間になった瞬間、に他ならない。歌(=音楽)は恐らく、人類の最初の芸術である。そうして、それはタルコフスキイが「ノスタルジア」で音楽史家ゴルチャコフに語らせるように、人類の持ち物の中で、唯一、鮮やかに「国境」(=自己と他者の境界)を越えてゆけるものなのである。「そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。」……いい表現だ。気に入った。

○ノースだけ他の6人と違って世界最高水準という設定がでてこない。ダンカンは知っていたのか? 世界最高水準としての機能もでてこない。逆にわからないところが2人を対等な関係としてみれるのかもしれないな。

過去に僕が述べたように、これは「プルートゥ」の挿話ではない。少なくとも、それを感じさせない。やってくる「脅威」は「プルートゥ」でなくてもよいのだ。従って、世界最高水準である必然性もない。
*但し、第39次中央アジア紛争時にブリテン軍総司令官アンドリュー・ダグラス将軍の執事をしていたという設定や、彼のフラッシュバックに現れる戦闘シーンからは充分、世界最高水準のロボットという印象は与えられていると見てよいであろうし、ダンカンもその経歴からただものではないことを目が不自由であるがゆえに逆に敏感に感じ取っていたであろう。ダンカンがサディスティックにノースの過去を問い詰めるシーンもそのような認識があればこそであろう。

さらに言えば、プルートゥそのものがこの作品では、僕には、我々人類のあらゆる「脅威なるもの」に還元されてみえる。事実、この作品ではそのような脅威=自然の雷鳴の音としてのみプルートゥの襲来が表現されている(プルートゥ自体は全く点としてさえ描かれないことに着目せよ)。ここで、「プルートゥ」という額縁ははずされているのである。あるのは、ダンカンとノースを描いた、未完の、愛すべき哀しいキャンバス画なのである。

○最後のノースの「すぐ戻ります」のセリフ。死期に気づいていた。だからこそ最後に戦いながら音楽としてダンカンのもとへ、記憶のなかへ戻ってきたのだろう。そしてそれに、気づいているダンカンもまた、その音をボヘミアの風景のように本物の歌として記憶する。

素晴らしい! 付け加えるべき言葉を僕は持たない。ここにきて、君の文章は、僕のノース2号論を遥かに超えて、美しく確かに完結している。

*新たな疑問
第39次中央アジア紛争とはどのような戦争として浦沢は設定しているのであろう。Act2-1「ゲジヒトの巻」の冒頭に現れるモンブランについての叙述で「混迷を続けたペルシア王国の治安を回復させた」であるとか「潜伏していたテロリスト」という表現や、ノースの語る履歴の「ブリテン軍」からは何やらアメリカのイラク侵攻やそれを一番に援助したイギリスを思わせる。それにしても第39次は、半端ではないぞ。中東戦争だって25年間で第4次だ。イスラムのファンダメンタリスト(原理主義者)がらみであろうことは想像できるが、その中身が知りたいものだ。

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