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2007/08/28

「忘れたいこと」を話してくれてありがとう

「忘れたいこと」を、60年間、不特定多数の、必ずしも聴こうともせず、いや、居眠りさえする子どもたちに、あなたは語り続けることが、出来ますか?

柴田昌平「ひめゆり」についての追記 終章 

大丈夫だ。これで終わりにする。

二人の違った場所の別な証言者。そこで共通する、言葉。

追い詰められた南部の海岸で、自決のために複数の少女たちが集まり、手榴弾を掲げてピンを弾き飛ばそうとした――

もう一度 お母さんに逢って 死にたい!――

これが彼らを救ったことに、僕らは単純な真理を感じるべきだ。

僕らを救うのは「父」ではない――

「母」である――

父権的男性は所詮勝つか殺すか負けるか殺されるかのゲームに没頭する愚劣な輩である。何としても性染色体の奇形によって生まれた鬼っ子だから。

母性が人類を確かに救うのだ――

「女」のみが人類を救うのだ――

如何にも、たかが陳腐な、しかし、されどまことの言葉では、ないか――

「如何にも不審なことが、逆説的な本当であ」ることの証しである。

2007/08/27

柴田昌平「ひめゆり」についての追記3 

集団自決命令がなかったなどということをまことしやかに語る輩は、この作品を見るべきである。

お前たちはひめゆりを「臨時動員=徴用」だから、軍令に基づく準戦闘員などとはさすがに認定して、区別するなんてことはしないよな? 彼女たちが解散命令を受けて、壕を追い出され後、地獄の南部の海岸しか逃げる場所がなかったことは、命令した軍属のよく分かっていたことだ。彼らが地に落ちた糞のような武士道で勝手に死ぬのは、哀れむ必要もない(彼らはそれを名誉と呼んだではないか!)。しかし、軍国教育によってがんじがらめにされ、放り出され、股裂きにされて殺されると教育された彼女たちにとって、糞武士の解散命令は、自決以外の何ものでもない。そうして自決していった少女たちに、平然と「沖縄戦で自決命令はなかった」等と言い放てる、教科書を書き直させて慢心する元「軍人」

(元がつくほどにおまえは今も軍人でありたいのだろう。だからあの時に戻るがいい。そうして確かにもう一度、民を虫けらのようにその冷徹な笑顔で殺すがいい。それが戦争だろ。俺は命じたがあれは戦争だったからだと叫んだ方が、まだ俺は共感できる。それこそ命じない奴がいたらどうしようと思いは、しなかったか? いや、バレそうになったら、そんな「誠実な軍人」として俺は戦後は証言しようとそもそもと思ったんじゃないのか? だって「軍人」なら自決命令を出すのが当然じゃあ、なかったのか? 地獄であの頃に戻って聞いてみるがいい)

そうしてそれこそ、興行率を上げるための有象無象の「ひめゆりの塔」の女優のようなどこかの美形(さすがにもうあんたは僕と変わらぬ醜い老人だよ)の、自分のブログに桜の花びらを散らせている「元」ジャーナリストに、この作品を見てもらいたい。鬼の首ととったように、ある「集団自決」がなかったことを歴史的な隠された「集団自決の幻」のシンボルであるかのように語る、お前に。

柴田昌平「ひめゆり」についての追記2

映像の中で僕がいささか不審に思ったことがある。

生き残った「ひめゆり」の人々が、そのかつての惨劇の最期の場に赴くのに、如何にもちゃんとした服装をしていることだった。

それは映画だから? 違うことは確かだった……

珊瑚礁のナイフのような岩礁を(僕は完全装備で二年前に真鶴の岩場で右腕を粉砕した)、雑草が生い茂げるハブの出そうな壕の入り口を、地下水と泥と闇の鍾乳洞のぬかるんだガマを、彼女たちは如何にも歩きにくい少しヒールの高い靴で……それをカメラは少し見るものに退屈なほどに、撮る……

……しかし、それは監督の挨拶の言葉で分かったのだ……

……それはあの時亡くなった化粧も着飾ることもなかった同級生の少女たちへの、彼女たちの、せめてもの、「化粧」だったのだ……

柴田昌平「ひめゆり」についての追記1 

上映後、柴田昌平氏の挨拶あった。その中で僕の感じたことを語りたい。

彼が元務めていたNHKにこの映画の製作を持ちかけた。

ソノヨウナモノヲ作ル予定ハ今ノトコロアリマセン

きっと多くの人は思うだろう。このような証言ドキュメンタリーなんて、とっくにいくらでも、あるだろうと。

しかし、彼が創らねばならないと思ったのは

それが ない という意外な事実

なのだ。彼が実に十数年をかけて(彼はまさに30代のすべてをこの撮影にかけた)この映像を撮らなかったら、と僕は考える。

彼はひめゆりの「死んだそして今も生き残されている少女たち」と「今しかないこの瞬間」に確かな交感をした稀有な映像作家なのだ

ということに僕らは驚懼せねばならない。何もせずに何もかも忘れて「最早戦後ではない」という言葉に自身を麻痺させてきた僕らは。

2007/08/26

柴田昌平 ひめゆり

柴田昌平のドキュメンタリー「ひめゆり」を見る。

S400himeyuriposter001

僕は過去の多くのドラマとしての沖縄戦の映画を、残念ながら、映画として高く評価出来ないでいる。それは「三丁目の夕日」が僕に催涙効果を確かに与えながらあの頃の真の饐えた「匂い」を感じさせないことで、「作り物」の、ある意味、美化された違和感を感じさせるのと似ていた(但し僕は「三丁目の夕日」が好きである。それは自ずと製作コンセプトの相違による)。美形の女優の布陣、生暖かい血も肉も飛び散らない映像は、僕にはまさに「劇」としての中途半端な「悲劇」にしか見えなかったのだ。

しかし、この作品は、違う。確実に年老い、そう遠くない将来に消えてゆくであろう生き残ったひめゆりの人々が、実際に「あの時の」場にあって、証言する。その中には、戦後60年を経て、初めて、この映像のために、文字通り意を決して「あの時」の場に立った方もいる。その言葉は、記念館や講演で語られるものとは、自ずと異なっている。

作品の初めと後半に証言される宮城喜久子さんのお話を、僕は修学旅行の沖縄で二度聴いた。一昨年の二度目の折(それは僕の右腕骨折からの復活の沖縄でもあったのだか)、先生は残り少なくなってゆく語り部としての自分達を、映像証言として収めることが今進められており、それが「生き残ってきた私」の一つの区切りとなるとおっしゃったのを思い出す。それは、この映画のことであったのだ。

映画の中で宮良ルリさんは言う。

「ここから生き残ったのではなくて、生き残された」

すべてのあの時失われた永遠に少女である当り前に幸せに抜けるような青空のもとで「生きたかった」同胞たちの思いを語るための時間が、文字通り同胞の四肢がちぎれ膨れ上がり蛆の湧いた遺体を乗り越えて「生き残された」者としての自分自身の時間であると。

沖縄をともにした教え子の諸君、是非、この作品を見てもらいたい。2時間10分は短くはない。しかし、宮城喜久子先生の講演をあれほど静粛に聴き、多くの思いを文集に寄せたあのあなた方には、どうしても見てもらいたい。

[最終字幕]

沖縄戦で亡くなった

ひめゆりの生徒は211人

遺影の見つからない生徒は10人

生きた証を探しつづけている

一方 心の傷を

深くかかえたまま

資料館を訪れることのできない

生存者もいる

いまだ手記や証言などを

残していない人は20人である

2007/08/25

Do not stand at my grave and weep 原詩

Do not stand at my grave and weep,

I am not there; I do not sleep.

I am a thousand winds that blow,

I am the diamond glints on snow,

I am the sun on ripened grain,

I am the gentle autumn rain.

When you awaken in the morning's hush

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circling flight.

I am the soft starlight at night.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there; I did not die.

僕は献体をするので墓はない 僕は僕を知る そうして 小数の僕を思い出そうとする 残された人々が 哀しむことを繰返すために墓を作ることを無意味であると二年前に実感した 僕は僕が千の風になろうなどという思いを持ってはいない しかし 生き残らねばならない人々自身が 「残る」という絶対の孤独な現実を 確かに引き受けるためには 風に雪に星に鳥に「その人」を感じようとすることは 生きることの必要不可欠な共感なのである 僕は人間は孤独な存在であると自明している が 世界に生きる以上 その孤独を「たった一人でよいから」開示する以外に 生きることは できないのだと自覚している惨めな しかし確かに惨めでありながら確かに僕という存在なのである 最後に 僕は僕が懐古されるに足る人間である等と 微塵も 思っていないのだ 僕は過去の存在者は速やかに人々の記憶から消えてゆくことこそが 素晴らしいと思う人間なのだ 君のように僕は生きないのだ 君と僕は 違うのだ

追伸:この原詩とされるものは幾つかのバージョンがある。以下を参照。 

2007/08/24

くるり 家出娘

もう一枚。好きなると居ても立ってもそれを口ずさまずには居られないのが僕の病気である。もうずっと毎日、くるりの「家出娘」が脳みその中で鳴りっぱなしで、これはCDを買ってエンドレスで聴くしかないのだ。事実、さっき2時間以上、「家出娘」のリピートでラジカセは熱を発している。今日の夕暮、アリスの散歩でこれを口笛で吹きながら歩いていたら、すれ違った若い女性がにっこり笑って「あら、くるり!」と小声で言ったのが聞こえた。悪くないね♡

僕が僕に感謝するのは、気に入った曲はイッパツでメロディラインを暗誦できることなのである。がしかし、実は哀しいことがある。それは、その曲に歌詞がある場合、たとえそれが短い歌詞であっても、覚えられないということ、いや、実は、僕は、例えばこの「家出娘」の歌詞は、これほどリピートで聴いても、その数箇所が「分からない」のだ。僕には先天的に、音楽合わせて歌われた歌詞を判読する能力が欠落しているらしい。標準的アクセントを外されると僕には日本語は外国語らしいのだ。

例えば、こうさ。さっき、やっとライナーノーツを見て、

へえぇ、「秘密の道草」って歌ってるの!?

「……ままで」って「着た」だったのか!

「君は染めた」!ってダメ押ししてたんだ?

夢じゃないかって、の「て」じゃないんだ? 「手」なんだ!

「曇天模様の下」だったのか! 意味不明の「下」だった……

僕はそうして、こう納得しても、すぐに忘れてしまう……そうして最初の「何が何でも出て行こう君は家出娘」というフレーズだけでしかこの曲の歌詞を認知しないのだ。僕にとって好きな音楽の歌詞は実は全くと言っていいほど――好きなこととほとんど無縁なのだということに気づく。はっきり言うと、さっき書いた「千の風になって」も例外ではないのだ。僕はその詩句の一部分についてある限定を述べたが、それはこの「家出娘」の「何が何でも出て行こう君は家出娘」と同じ、このメロディに刷り込まれた「メロディを名指すためだけの」特異命題なのだと言っていいのだ。それは決してそれを「示さない」のである。

くるりという彼らがどれほどに若い連中に流行っているか、まるで知らない。知らないが、僕は、好きになれそうだ。そんな気がしているよ……

新垣勉 千の風になって

町に出るのが厭で、つい聴きたくてしょうがないのに、今日仕事の帰りにやっと新垣の「千の風になって」を買った。ブレイクした秋川雅史の「この曲」の歌唱は正直、僕には生理的に、顔も、声も、シンコペーションも、その些細な演出も、ひいては彼が歌う際のスタジオも大道具も小道具も司会者も何もかもが、鼻が曲がるほどに場違いなのだ。彼は「あの歌」を歌うべきではない、としみじみ思う。それに比して、僕は、昨年、タクシーのラジオから流れる秋川の歌で最初に聴きながら、これを詠っていいのは「新垣勉」しかいないと思ったのだ。今日、2バージョンを聴いて、それは確信となった。何だろう、こんなことって、この人の詠うのを聴いて確かに僕は「母の歌」を聴く。この曲を「詠える」人物は限られている。テクニックでも曲想でもない。いみじくも新垣のCDの題名である「魂」の共感覚なしに、この曲は詠えない。

追伸:言うもおぞましいが、どうしても言っておかねば気が済まぬ。先の「中日新聞」は、このCDの驚異的な売り上げを報じた。その記事の最後に識者の意見として「泣くことを制限されると感じる人もいる」等と糞下劣なことを言っておる。この曲が泣きたいのにそれを禁ずる曲だと解する人もいる等というおぞましい謂いで、評したと思っている、おまえ! おまえだ! おまえには、音楽が、歌が何たるか、分かって、ない! いつも泣くことを禁ずるのは、そうした知ったかぶりの知性に支配された似非大衆の仮面を被ったお前らのような「論理」だったではないか! 音楽は国境を越えてゆく。如何なる有刺鉄線も、それを阻むことも、傷つけることも出来はしないのだ。

2007/08/23

つげ風の僕の旅

秋田の八幡平で湯治してきた。

後生掛(ごしょがけ)温泉→新玉川温泉→乳頭温泉鶴の湯→乳頭温泉蟹場(がにば)の湯

後生掛はつげ義春が「オンドル小屋」で描いたのと同じ(あれはここより少し先の蒸(ふけ)の湯が舞台である)オンドルがあった。僕は旅館部に泊まったのでオンドルの建物には入っていないが、隣りの建物からちらと眺めた印象では、それぞれの場所は紐にタオルケットがぶらさげられただけで仕切られ、あの作品のような(但し、極めて明るく清潔な)素朴な湯治場の雰囲気を残している。湯も優しく、よい。翌朝の旅立ちの前に歩いた、背後に広がる地獄谷、その間近で吹き上げる泥地獄は圧巻である。丁度、地獄の中央辺り、盛り上がった部分に白い大きな十字架が立っている。ザビエル来日を記念して個人のご老人が立てたものなのだが、如何にも異様である。それは如何にもゴルゴダの丘のようであり、ここは如何にも「いんへるの」であり、それは如何にも東北の隠れキリシタンを想起させ、そうして如何にも――諸星大二郎の「生命の木」のロケ地のように思えてならないのであった。そういえば……僕にはこの後生掛の由来が如何にも不自然なのが気になったのだ(それには何か全く別の隠されたテーマがあるように思えてならない)。そのことは、また折を見て語ってみたいと思っている。

翌日、雨風を突いて八幡平の頂上までハイキングし、新玉川温泉へと下る。残念ながら、この「奇跡の湯」と呼ばれる強酸性の湯は皮膚の弱い私は5秒も入っていることが出来なかった。僕に「奇跡」は似合わないということが文字通り骨身に沁みて分かった。妻が入っている間、僕は地酒の「秀よし」を飲みながら「和漢三才図会」の章魚と烏賊の部分の書き下しを終え(次は大好きな海鼠ではないか)、窓の外のブナの森を渡ってゆく風を耳で感じる。つげなら、きっと、この「音」を絵に出来そうな気が、する。

三日めは乳頭温泉の有名所(雪崩で死人が出たという点でも)「鶴の湯」に立ち寄る。昨日の名誉挽回(?)、誠に涼しい湯である。僕が男湯の「白湯」「黒湯」(入り口は一箇所で中の脱衣所の左右で分かれる)から上がって下着をつけた直後、小学4年生程の真っ白なノースリーブを着た少女が、隣りの女風呂と間違えて、ガラリと入ってきた。おかっぱのその少女はパンツいっちょの僕と目を合わすと、小さくアッと叫んで、再び、扉を閉じた。その黒い瞳と白い歯が瞼に鮮やかに残った。――それは確かに「もっきり屋の少女」のコバヤシチヨジであった。

露天に内湯、打たせ湯と総なめにして、湯を上がり、タオル片手に前を流れる小さな橋を渡ろうとすると、左手のたもとに、あの少女がしゃがんでいた。僕と目を合わせると、覚えているのか、恥ずかしそうに眼をそらすのだった。そうして彼女は手の上の、川辺に咲いていたガクアジサイに似た白い花を幾つも載せたそれを、流れにぱっと放ったのだった。それは「紅い花」ならぬ「白い花」――この少女は、キクチサヨコでもあったのだ。

蟹場温泉の露天風呂は旅館から50m程離れたブナの森の中にぽつんとある。付いてすぐに入りに行った。暫くすると立ち寄りで、見るからにヤクザのチンピラがスケを連れて(ここは混浴である)やって来た。露天の中で煙草は吸うわ、ビールは飲むわのやりたい放題。果ては雨が降ってきたので、狭い屋根の張り出しの下に居た僕に向かって煙草の箱を投げつけて追い出しにかかった。箱は当たらず、僕は十分浸かってもいた(僕は元来平常時でも心拍数70を越え、それほど長い間湯に入っていられない性なのである)ので、悠々と上がったが、直前に来てろくに浸かってもいない温泉ライダー風の青年は、如何にも情けなさそうに、僕の後に続いて上がってきたのだった――おや? さても、この話、まさにつげの「オンドル小屋」に似てはいないか?

昨日早朝、立ち去るに際して、無人の露天に再び浸かる。ブナの森を渡る風をまた体感した。揺らぐブナの木々や枝を透かした向うにまた在るブナのその揺らぎは不思議だ……タルコフスキイが「鏡」で描いたようなスローモーションで渡る風が「直に」見られるような錯覚――いや、ここはロシアの大地なのかも知れない――そんな「静謐」が僕を包んだ……

こうして僕の短いつげ風の4日間の夏休みは、終わった。

僕は心の中で呟きながら――山を下りました――

――頑張れ チヨジ

――頑張れ チヨジ

2007/08/17

Max Roach追悼

彼を感じるために

Max Roach - Drums Unlimited  (Atlantic LP 1467)

そうして彼のスティックのドゥエンデのために

The Bud Powell Trio  (Roost RLP 2224)

僕の人生に素敵なドラミングを、ありがとう! マックス!

2007/08/16

くるり 家出娘

いいな……この曲……教え子の日記のリンクから……

僕は元来、マイナー・キーの下行メロディのリフレインが生理的に神経と一致する性だ……

この映画は、見ていない……でも、やっぱり留保する……つげの「リアリズムの宿」は、映画には出来ない。

芥川の「蜘蛛の糸」を、如何にも下手に朗読する少年……それを寒々とした部屋で独り聴く僕……それは、多分……それぞれの僕にしか……出来は、しない……

芥川龍之介「蜘蛛の糸」

2007/08/11

ここのところ、パソコンに向かい過ぎた。視力も低下し、肩も張った。テクストの注も、マニアックに附けようとすると、とめどもない連鎖地獄を呈する。この世界が心身の健康には、必ずしもよろしくないのは分かりきったことではある。休暇をとることにする。しばしお別れ、随分、ごきげんよう。

2007/08/10

原爆・特攻・沖繩……

昨日出来なかったことを今日やろう。

近代日本動画資料室・原爆

(ブログ「考察NIPPON」別館)

*教え子からついさっき紹介された。

2007/08/07

『千の風になって「日本の敗戦」』注

昨日、『千の風になって「日本の敗戦」』を私がリンクに張ったのは、僕の個人的な思いがあるからで、You Tube の映像著作権権侵害を肯定するものでは、全くない。

そもそも、この映像を貼り付けた君(誰だか勿論知らない)の『御遺体の映像がでるので心臓の弱い人は見ないでく ださい』という注意書きには、大いに失望した。僕は思う。であれば、この映像の中の君の言う「御遺体」の方にこそ「見せないで下さい」という権利があるのであって、それを、気持ちが悪くなるかも知れませんから「見ないで下さい」という権利(君は心遣いというのだろう)など、全くない。これは断定する。君がすべての点に於いて正しく確信犯なら、こんな注記は、附けるな!

……僕はともかく、あの音楽に載せて映されるあの映像の特攻のシーンを、片翼を失って旋回しながら海へと落下し行く、余りにも美しい線を描きながら水面に激突する飛行機に乗っていた飛行士の思いを考える……

このブログの遠い最初に「僕が教師を辞めたい理由」で書いた。僕の父は少年航空兵であった。あの堕ちてゆく戦闘機の中に、僕の父がいたのかもしれない。そうしてその時、僕は、いない、のだ。「たかが」それだけのことだ。僕にはしかし「されど」なのだ。僕は、性懲りもなく、今日も自分で張ったブログから、また、あの映像を見ている……そうして考える。「平和ボケ」という言葉はおぞましい言葉だ(僕は金輪際遣わない)。「平和ボケ」という命題は、『だから現実を認識して軍事力を強化せよ』という理屈に容易に我々を導く。そうではないはずなのに。僕は思う。戦後民主主義の中で、「犬死した人間」と評した戦争で死んでいった人々と、僕らは本当に、正面から胸を張って対話できるのか? そもそも「犬死」などあるのだろうか? いや、それどころか僕らは今、上質のドッグフードを与えられた「犬のように生きてはいないか」!?

2007/08/06

千の風になって

『千の風になって 「日本の敗戦」ver.(Defeated Japan in 1945)』

今日の、ために……僕に出来ること、そうしてあなたに出来ること、それは何だろう――

僕は感じる

「眠ってなんか いません」

この部分の歌詞をどう歌うか――それがこの歌の「生死を分ける」

しかし……

「眠ってなんか いません」

僕には決して歌えない

歌えるのは死んでいった「あの」人々だけなのだ――

人生と肉体

人の生は肉体に左右されない。不治の病に冒されてもそれは現象としての結果でしかなく、人生を動かす主要因にはならない(それが契機になるのは罹病という偶然の産物ではないか。そもそも「疾患に罹る」という「現象」は、先天的後天的に「リスク」として存在する「だけ」である)。では人生を動かすのは何か? それは、他者である、あなた以外にはない。人生とは、相対的な世界でしか存在しない、架空の幻影である。さればこそ、それを真に動かしうるのは、その人物の幻想としての存在認識を揺るがす強烈な他者の「もの謂い」ではないのか! 「君」が「僕」を創る。それ以外には、「僕」は、ない。

芥川龍之介 松江連句 本文訂正及び注追加

「松江一中20期WEB同窓会・別館」を運営されている知人の重要な情報提供によって「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を追加した。この方(インド哲学を専門とされている)の情報や資料提供及びその考察は誠にスリリングで、頂くと、すぐにでもアップしたくなる魅力が一杯! 今回も、「灘門」について非常に詳しいお話を頂いたのだが、本件につては、もう少し現地情報を手に入れてからという兄(彼は私よりも年上である)の忠告も破って、載せてしまった。「松江連句」の存在は新全集以降の新しいもの。僕はこの兄との二人三脚の注(いや、2/3は兄のパワーで引っ張られていると言ってよい)、胸を張って『芥川龍之介「松江連句」注釈』と自負するものである。

本文校訂を行っていなかったため、急遽行ったところ、お恥ずかしいミスを発見した。既に修正済みであるが、以下に記して御寛恕を願いたい。

〔○〕 蕨など燒く直山の烽火かな      井

 ×煙→○烽

〔駄〕 唐革の鎧縅すや冬ごもり       阿

 ×草→○革 ×滅→○縅

〔駄〕 鷄小屋の蓆圍ひや枇杷の花     井

 ×薦→○蓆

2007/08/02

淵藪志異二篇追加 及び 沖繩の怪異

僕の擬古文怪奇談集「淵藪志異」に沖繩物二篇を追加し、その口語原話である「沖繩の怪異」を前二篇の下にリンクで公開。今回の二篇はどちらも実体験者からの僕自身の聴き取りという点で、信憑性が極めて高い。少なくとも、二人の話者は、決して作話している印象はなかった。どちらも僕の好きな話である。

元の修学旅行文集用の「沖繩の怪異」の方は、もうお分かりと思うが、実は怪奇談が主ではなく、最後のまさに現代の奇怪な現実の怪異を言いたかったし、そうして、何より、僕自身を復活させてくれた(しかも結果として僕は置き去りにしてしまった)当時の子らへの感謝の思いをどうしても書かずにはいられなかったのである。

芥川龍之介 松江連句 注追加

「松江一中20期WEB同窓会・別館」を運営されている知人の情報提供によって(八ヶ岳山行以前に戴いていて、宿題に残しておいた分)「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を追加した。

2007/08/01

八ヶ岳帰還

初日  美濃戸口→行者小屋(天泊)

2日め 地蔵尾根→赤岳→中岳→阿弥陀岳→行者小屋(天泊)

3日め 地蔵尾根→横岳→硫黄岳→赤岳鉱泉→行者小屋(天泊)

本日  行者小屋→美濃戸口(帰宅)

3日間のサ・シ・ゴ(3:00起床4:00朝食5:00出発)もしっかりみんな守れたな。僕は僕が自分がメインで引率したのも初めてなら、このコースも昨年は地蔵尾根を登って降りただけの撤退だった以上、全くの未知のコースだった。僕は、正直、こなせる自信など、全くなかったのだ。山行中は、頻りに罵声を飛ばしたが、今回の全ての山岳部の生徒、8人に、告げる、ありがとう、君らのお蔭で、本当に、素晴らしい君等と僕の思い出が、できた。ミネウスユキソウLeontopodium japonicumとコマクサDicentra peregrinaの大群落に、乾杯!

リンク:行程や写真・花(ミネウスユキソウ)も含めてこの方のページが今回の山行を味わって戴くには都合が良い(「ヤマノボラー・みながわのフォトギャラリー・山のページ」「八ヶ岳~赤岳と阿弥陀岳」 )。

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