柴田昌平 ひめゆり
僕は過去の多くのドラマとしての沖縄戦の映画を、残念ながら、映画として高く評価出来ないでいる。それは「三丁目の夕日」が僕に催涙効果を確かに与えながらあの頃の真の饐えた「匂い」を感じさせないことで、「作り物」の、ある意味、美化された違和感を感じさせるのと似ていた(但し僕は「三丁目の夕日」が好きである。それは自ずと製作コンセプトの相違による)。美形の女優の布陣、生暖かい血も肉も飛び散らない映像は、僕にはまさに「劇」としての中途半端な「悲劇」にしか見えなかったのだ。
しかし、この作品は、違う。確実に年老い、そう遠くない将来に消えてゆくであろう生き残ったひめゆりの人々が、実際に「あの時の」場にあって、証言する。その中には、戦後60年を経て、初めて、この映像のために、文字通り意を決して「あの時」の場に立った方もいる。その言葉は、記念館や講演で語られるものとは、自ずと異なっている。
作品の初めと後半に証言される宮城喜久子さんのお話を、僕は修学旅行の沖縄で二度聴いた。一昨年の二度目の折(それは僕の右腕骨折からの復活の沖縄でもあったのだか)、先生は残り少なくなってゆく語り部としての自分達を、映像証言として収めることが今進められており、それが「生き残ってきた私」の一つの区切りとなるとおっしゃったのを思い出す。それは、この映画のことであったのだ。
映画の中で宮良ルリさんは言う。
「ここから生き残ったのではなくて、生き残された」
すべてのあの時失われた永遠に少女である当り前に幸せに抜けるような青空のもとで「生きたかった」同胞たちの思いを語るための時間が、文字通り同胞の四肢がちぎれ膨れ上がり蛆の湧いた遺体を乗り越えて「生き残された」者としての自分自身の時間であると。
沖縄をともにした教え子の諸君、是非、この作品を見てもらいたい。2時間10分は短くはない。しかし、宮城喜久子先生の講演をあれほど静粛に聴き、多くの思いを文集に寄せたあのあなた方には、どうしても見てもらいたい。
[最終字幕]
沖縄戦で亡くなった
ひめゆりの生徒は211人
遺影の見つからない生徒は10人
生きた証を探しつづけている
一方 心の傷を
深くかかえたまま
資料館を訪れることのできない
生存者もいる
いまだ手記や証言などを
残していない人は20人である
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