新垣勉 千の風になって
町に出るのが厭で、つい聴きたくてしょうがないのに、今日仕事の帰りにやっと新垣の「千の風になって」を買った。ブレイクした秋川雅史の「この曲」の歌唱は正直、僕には生理的に、顔も、声も、シンコペーションも、その些細な演出も、ひいては彼が歌う際のスタジオも大道具も小道具も司会者も何もかもが、鼻が曲がるほどに場違いなのだ。彼は「あの歌」を歌うべきではない、としみじみ思う。それに比して、僕は、昨年、タクシーのラジオから流れる秋川の歌で最初に聴きながら、これを詠っていいのは「新垣勉」しかいないと思ったのだ。今日、2バージョンを聴いて、それは確信となった。何だろう、こんなことって、この人の詠うのを聴いて確かに僕は「母の歌」を聴く。この曲を「詠える」人物は限られている。テクニックでも曲想でもない。いみじくも新垣のCDの題名である「魂」の共感覚なしに、この曲は詠えない。
追伸:言うもおぞましいが、どうしても言っておかねば気が済まぬ。先の「中日新聞」は、このCDの驚異的な売り上げを報じた。その記事の最後に識者の意見として「泣くことを制限されると感じる人もいる」等と糞下劣なことを言っておる。この曲が泣きたいのにそれを禁ずる曲だと解する人もいる等というおぞましい謂いで、評したと思っている、おまえ! おまえだ! おまえには、音楽が、歌が何たるか、分かって、ない! いつも泣くことを禁ずるのは、そうした知ったかぶりの知性に支配された似非大衆の仮面を被ったお前らのような「論理」だったではないか! 音楽は国境を越えてゆく。如何なる有刺鉄線も、それを阻むことも、傷つけることも出来はしないのだ。