手 増田晃
手 増田晃
そのころ私はあなたに捧げる
あかるい曙のささやきをもつてゐた。
金箔のやうにほの明るい
夕もやの小徑をあゆみ、
まだ開いたばかりの赤い罌粟をつみ、
その甘いめしべに
爽やかな匂ひをうつされた手で
あなたの白い手をとつた。
まだうすく煙りこむ雪の
ほそい炎の重なりあふなかを
夢みるやうに眠るやうにあるくとき、
かたくとりあつたあのやさしい手、
母らしいやさしいその手は今どこにあるのか。
そのころ私はあなたに捧げる
明るいゆらめく光のささやきをもつてゐた。
あなたのその手は
まどやかなきよい夢をゆすぶり、
ほそい愛憐の炎をみだし、
柔かいアンジェリュスの夕べを祈り、苦しみの扉をしづかに開く。
そしてつつましい祈りのときに
あなたのルビイの脣からこぼれでた
愛の證しさへいつか薄れようとするのに、
誰も氣にとめないあの小さな手ばかりが
私の消えいる思ひを呼戻さうとする。
[やぶちゃん注:「罌粟」は「けし」。「芥子」とも書く。ケシ科ケシ属ケシに属する一年草。これを現実の景とするならば、鴉片(アヘン)を含まない観賞用のボタンゲシとせねばならないが、その必要はあるまい。「アンジェリュス」は冒頭の詩「白鳥」の注を参照。「脣」は「くち」か「くちびる」であるが、ここは後者で読みたい。]