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2007/10/06

哀歌 増田晃

     哀歌   増田晃

肌さむの秋ゆふぐれの日のほてり
星うつる水ほどの蕭やぎに
身をよせて大いなるピアノによれば
その頃なりし はや葡萄(えび)の實も
紅(くれなゐ)ふかき頃にしてわがひとの
いまだ世に健やけきその頃なりし
薔薇いろおぼろの秋のゆふぐれ
くろき鏡のピアノにゆびふれ
シヨパンがワルツ三番を彈きたまへる
きみがうしろに寄りそひしまま
胡蝶の肩に手をうちかけて
泣かましと誘(さそ)ひしはその頃なりし
されどそれより幾年(いくとせ)經けむ
冷ききみの指(および)を撫でつつ
通夜する身ぞと思はざりし
かの噴水(ふきあげ)のかげ 白き露臺
きみが情けに泣きし日はあれど
その日はや鋭(と)き爪の死の病ひは
おそろしき青藥瓶の匂ひとともに
きみが肉身を蝕みゐしにあらずや
われらが戀はかのうるし葉の秋の光に
うすく散り果つ柳葉(やなぎ)に如かず
復讐とがらんどうの死の病ひは
われを遠ざけし小さき胸に
鋭きあきらめとあざけりを浴せ
また寢ねず夜に衰へたるわが體には
恐しき釘を當てしにあらずや
けふわれピアノにワルツを彈けば
わが背にかげのごと寄りて泣くもの
肌さむの秋ゆふぐれの入日ぐも
鷄頭にさえて冷えまさるなり

    か へ し

 われもし逝かば花ちる下の
 ゆきし人のやすらき眠りに
 添ひてねむらん
 かかる折なお優しき鳥よ
 わが嘆きをば歌はざる……

[やぶちゃん注:「哀歌拾遺」と「哀歌」の順はママである。同一の女性への「哀歌」と思われ、不審な順であるが、その時間的逆行を感覚の遡行として試したとも言えるかも知れない。「かへし」の本文はポイント落ち。
・「蕭やぎ」は「蕭(しづ)やぎ」と読ませるか。「蕭」(しょう)には、さびしい形容、ひっそりとしている形容の用法があり、「~やぎ」という送り仮名は「~やか」という形容詞の動詞化から名詞化させた語の語尾と似ている。そうして、静謐微動だにしない水面の如き形容とすれば、「静やか」→「静やぐ」→「静やぎ」→同義の漢字である「蕭」を当て読みさせる、というのは無理がない気がするが、何如?
・「葡萄」を「えび」と訓ずるのは、「えび」がブドウの古名であるからである。イサナキの呪的逃走(偶然であるが「桃の樹のうたへる」を参照)でもヨモツシコメに投げつけるものの中に「クロミカヅラ」(葡萄の蔓で出来た髪飾り)があり、それは地に落ちて「エビカヅラノミ」(葡萄)となったとある。葡萄を「エビ」と呼称したのは、本邦に自生し、実が食用となったまさに現在の和名エビヅル(ブドウ科)の若い茎葉が赤紫色であったことからそれを蝦(エビ)の色に喩えたからである。後に「エビ」は、ブドウ全体の通称となったのである(但し、エビヅルは現在の食用のブドウとは別種)。
・「シヨパンがワルツ三番」“Chopin-Waltz No.3 a-moll op.34-2”イ短調。沈鬱な一聴忘れ難い曲である。
・「青藥瓶」の読みに悩む。「あおくすりびん」が自然であろうが、いかにも朗誦停滞。「あおきやくびん」とするならば増田は必ずルビを振ったであろう。さればやや不自然ながら、死の不吉なトーンを感じさせる「せいやくびん」では何如であろうか? ご意見を問う。
・「肉身」は「にくみ」。
・「鷄頭にさえて」はナデシコ目ヒユ科ケイトウ属ケイトウの花穂の鮮やかな赤い色が夕日に更に鮮やかに映えて、と言う意味と共に、続く言葉と同じ、しんしんと冷え込んでゆく(それは魂の温度である)の意をも掛けていると、私には感じられる。]

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