増田晃詩集「白鳥」末尾 覺書
遂に増田晃詩集「白鳥」の全文テクスト化ブログ公開を完了した。
この「覺書」は、彼の最期の魂の詩として、心して読まねばならぬ。
* 覺書 増田晃
一、蜜蜂が古い桶に年々新な花の蜜を集めるやうに、私もいろいろの花心から絶えず蜜を運んだ。ためられた蜜がいつか桶の縁を越すやうに、いつか私の歌誦も文筐を溢れてしまつてから久しい。最近移居を折に昔の歌を誦みかへしながら、なほ自ら捨てがたい數々があるのを知りひそかに上梓を志した。
二、この詩集中最も稚い「春の雲」を書いてゐたころ既に、日本にけふの夜明けが來てゐたのを知る。私は未だ少年であつたが既に日本の古代の藝術に身を涵しうる樣な幸な時代に惠まれた。飛鳥奈良の佛教に私らは讃仰といはんより、寧ろ懸想し迷うたのである。
三、私は聖德太子の在せるが故に、飛鳥を世界で一とう美しく尊い時代だと思つてゐる。太子の犠牲の大精神があつてはじめて、夢殿觀音も、玉虫厨子も、百濟觀音も生れた。この作者らは太子の御精神を服するだけで、かゝる佛像や佛画をつくり、又己がつくつた尊像のまへに自ら額づく歡喜もあつたのである。藝術なぞという名がつくられ、作者の署名があらはれる末世を思ふまい。私らはすでに返るよしもない昔を思ひ、幾分なりとその御精神に身を涵したいと希ふのである。
四、宗教のない時代は、藝術するものには最も悲慘な時代である。しかしこの悲慘な現代に生れたればこそ古い尊い時代を知り、藝術家の本質を知り、又私ら青年の目標も自ら明になる幸が存する。現代に果して宗教がないか、私らが死にゆく以上有る筈である。しかしその生死にむかふ私らの悲願と克服と蘇生のみが、また私らの宗教を自らつくるであらう。かつて聖德太子御一人のあらはし玉ふた御精神は、また陛下の萬歳を絶叫して仆れてゆく名なき兵士の精神に通ふのである。
五、詩を書きはじめてから今日に至る年月のあひだに、私は徐々と自分のゐる時代に目をひらいた。そしてかうした混亂せる時代、眞と僞が紙一重で見分けがたい時代に生き乍ら、私らのものする新詩の分野に於ていつも鷗外、柳村、晶子、荷風のながれを、菲才ながらうけて末席に加りたいと念じて來た。取るに足らぬ私の詩に何らかの野心があればこの操のみであり、私の鷄肋に何らか煮るに足る肉がついてゐたとすればこの志だけである。
六、詩は神的なものである。私は昔からさういふ信仰をもつてゐた。その意味で私は祈禱と禮讃と感謝の詩形を採るを常とし、この歌唱法のみが私の思ふところを最も自然にあらはしてくれたのである。詩はつねに生命の驚愕であり、さういふ原始の體驗である。そして又それは日本民族が本來もつてゐた詩歌であり、將來の日本民族はかかる詩歌の韻律のうちにのみ、自らを發見するであらう。この信條に於て私は自ら所謂現代の詩人でないことを言明せねばならぬ。ひととき私はそれを寂しく思つたが、今日むしろそれを喜悦とし光榮とする。
七、私はこの一集を自ら閲し乍ら、哀しみに堪へきれない折々にこの詩章の多くが記された事を思出づる。あるときは開かれた傷口から呻いて流れでることもあつたし、又もう癒えたと思つた傷がかすかに疼くこともあつた。そのたびに私はこれらの詩を自ら歌つてきかせて感情の危機を救つた。時にはひとり言でそのまゝ忘れられることもあつた。しかし偶々記されたもののうち、何度も自分に云つてきかせたいものがいくらかある。しかも悲しいことに、私らの綴るものが韻文といへるであらうか。けふさういふ羞恥と自棄の下心から、この一卷を編まうとするのである。
八、卷初には序詩として、やうやく詩が書けはじめた頃の作「白鳥」(一九三二)と、集中最近の詠草に屬する「桃の樹のうたへる」(一九三九)を竝べた。その間には八年の徑庭があり、暖い多くの師友の御指南に惠れた幸福な日々が思出さる。入營をあすに控へた今日、この些々たる一卷を以て御恩報じの幾分かでも爲し得たであらうかとひとり思佗びるのである。装丁は木彫の西田明史氏に御願ひした。數々の我儘を快く容れて下さつた事に深く感謝する。
昭和十六年一月豪德寺小房にて晃誌す
[やぶちゃん注:これは遺書として読まねばならぬ。
一
・「文筐」は「ふみばこ」と訓じたい。
二
・「涵し」は「涵(ひた)し」。
五
・「柳村」は上田柳村。詩人、上田敏の号である。
・「菲才」は「ひさい」で、劣った才能という自身の才能を言う際の謙称。]