哀歌拾遺 増田晃
哀歌拾遺 増田晃
あべ海の星
さうびのみ母
御身!御身!今は亡きその名を呼べば胸やぶる。かたへに添ひて夜露にぬれし きみを思へばわが胸やぶる。慰めを、かりそめの慰めごとをわれにな告げそ。おつる泪を、その眞珠母を恥ぢよといふな。つねに晨夕(あさゆふ)ひそかに呼びし きみが名なくて何のうたぞも。まこと草雨にふふめる紅薔薇 君ぞと詠みしは昔なりき。百合をだまきとたたへしうたも、捧ぐるきみのありしが故ぞ。いまみまかれる御身のそばに、額支へてまどろみすれば、はるかかなた、あけぼのの水(み)ぎわに近く 田螺のほろほろながしゆく 哀訴のうたのみ絶えつづく………
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虹のふきあげは風になびき、末廣となつてひた落ちぬ。おもひくづるるわがこころ、その聲にまぢりいたく泣くなり。ここに優しきその瞳(め)をもとめ、くづるる肩えを支へしに、夕べ近きふきあげのみ、失意にないてくらく呼べり。薔薇や紫のわすれなぐさは 鈴(りん)を振りつつ亂れゆくに、かの四阿(あづまや)に待たれしひとは、そのひとは亡し。秋のうるし葉の夕日はあれど、はやきみは亡し。
か へ し
秋のうるし葉の夕日はあれど、はやきみは亡し。いかのぼり下(お)りゆく空に たちのぼる夕映蜻蛉(ゆふばへあきつ)。蒲の穗のうすきうれひに 雅(はな)やげる岡を越えつつ 歌ひゆく夕映蜻蛉。
か へ し
かなしきひとのやみてより、日月はしづかにきたり、
かなしきひとのゆきてより、日月はしづかにしづむ。
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まりあよ、堪へがたいこの哀しみに やすらぎの御(み)手をおかせたまへ。みまかりしこひびとに 夜ごとの枕は濡れ、たちがたき愛欲に夜ごとのうめきは洩る。すでにかなた、曙の水ぎわに近く 白い鷺草のわななきそよぐ 哀訴のうたのみ絶えつづく………
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まりあよ わがいたみをば醫(いや)したまへ。けふかなしさに露臺にたてば、ありし昔のかげはよろめく。泣かむといひて誘はれゆきし 白き露臺におもて掩へば、秋のうるし葉の夕日のごとく はかなごとむかしは消えぬ。いくたびか君ここに身をなげ、母のごと姉のごとやはらかく わが震ふ肩を撫でなだめしに、けふありあけの白むをみれば、遣る方なくて握りしその手の その稚さのあきらめがたく、名をば呼びつつとどまらざるなり。まこといつ日かかくも果敢(はかな)く契りそめしとひた泣きをれば。
か へ し
まこといつ日かかくも果敢く 契りそめしとひた泣きをれば、赤き拍子木の鳳仙花 胡弓の糸に弱く散るなり。すでに夏星は白く綴れて ありあけぞらに藍揚げすれば、散り果つものはかなしみなり。
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あべ海の星 さゆりの御(み)母、力なきわれをすくひたまへ。すでにけふわれは獨りにて歩むあたはず、獨りにて立つことあたはず。雪に凹めるのどより湧ける このあべをもて聞入れたまへ。すでにけふわれ獨りにて諦むることあたはず。
[やぶちゃん注:副題の「あべ海の星/さうびのみ母」の「あべ」は“Ave Maria”の“Ave”で、ラテン語で「こんにちは」「おめでとう」を言い、聖母マリアへの祈禱の語。「海の星」は船乗りにとって命を護る航行の導べとなる星のように、正しき人生への水先案内人たるマリアを意味する。「さうび」は「薔薇」で、「気高い天国の花」を意味する(その場合のバラには棘はない。4世紀の聖人アンブロシウスによれば「棘」は楽園の原罪を忘れさせぬために神が加えたものとする)キリスト教にあっては、赤いバラは殉教者の血を、白バラは聖母マリアの純潔の象徴となり、特にアリア信仰ではバラは重要なアイテムとなり、ノートルダム大聖堂等に見られるステンドグラスのバラ窓となって現れる。また、ロザリオは「バラの輪」の意味を持つともされる(以上のバラと聖母マリアとの関わりは「中國新聞」社のサイトの「ばらの来た道」を参照した)。受胎告知では後述するユリに次いで描かれることが多い。なお、「かへし」の本文はポイント落ちで、総て一字下げであるが、一部の詩については、明らかに連続した行となっているため、その連続性を優先し、2行目以下を一字下げにしなかった。
・「眞珠母」は、一般に真珠母貝でアコヤガイ等の真珠を生成する貝類を指すが、ここはそれらの貝類の内面の真珠質の光沢から、純真なる発露たる涙を形容している語であろう。
・「草雨にふふめる紅薔薇」の「草雨」は恐らく「むらさめ」と読ませて、「叢雨」、驟雨・にわか雨のことを言う。「ふふむ」は「含む」で蕾(つぼみ)がまだ開かない状態にあることを言う古語。
・「おだまき」(ママ。歴史的仮名遣いでは「をだまき」)はキンポウゲ目キンポウゲ科オダマキ属の花の総称。 苧環(おだまき)とは、本来は機織の際に麻糸を内側を空にして巻いたもののことを指す。オダマキのその可憐な花の形からの命名である。
・「田螺のほろほろながしゆく」というのは、私には卵胎生のタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科)が稚貝を放出する様から、「田螺がはらはらと頑是ない子を産み流し苦しむように私は哀訴の歌を歌い続ける」という表現のように思えてならない。
・「わすれなぐさ」はシソ目ムラサキ科ワスレナグサ属。園芸用に他種が移入されたが、日本在来種はエゾムラサキ一種のみである(北海道根室付近と長野県松本盆地を自生地とした)。以下、中世ドイツの騎士の悲恋説話に纏わる名前の通称の「勿忘草」の由来を「ウィキペディア」より引用する。『昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、「Vergiss-mein-nicht!((僕を)忘れないで)」という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。』ちなみに、学名の属名“Myosotis”にはそのような意味はなく、ギリシャ語myos(ハツカネズミ)+ギリシャ語otis(耳)の語源である古代ギリシア名myosotisの合成。本種の葉の形態が「ネズミの耳」に似て、小さく柔らかく鼠色の毛が生えていることによると言われる。
・「いかのぼり」は「凧」。季節は秋であるが、これは俳句ではない。
・「夕映蜻蛉」を一語の「ゆうばへあきつ」という固有名詞としてとった。即ち、これは通称及び狭義の赤トンボであるトンボ目(蜻蛉目)トンボ亜目(不均翅亜目)トンボ科アカネ属アキアカネ若しくは同属の種ととる。
・「鷺草」はラン目ラン科ミズトンボ属サギソウ。七月から九月にかけて白い花を咲かせるが、その花の唇弁が幅広い上にその周辺部が細く糸状に裂ける。それを白鷺が翼を広げたさまに喩えて命名。
・「赤い拍子木の鳳仙花」の鳳仙花はフウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカで、夏、赤い花を付ける。「拍子木」というのはホウセンカの実が弾けることを指すか。
・「夏星は白く綴れて」の「綴れて」は「綴(つづら)れて」と読ませるか。やや語調が停滞するが、意味上はそう読んで、「有明の空が白んできて、薄明の白さにに夏の星々は滲み合わされて光を失ってゆく」と解釈すべきであろう。
・「藍揚げ」は曙の空が濃い藍色を天空へと後退させてゆくことを言うのであろうか。聞いたことのない語ではある。
・「さゆり」はユリ目ユリ科ユリ属のユリ、百合(「さ」は美称の接頭語)。キリスト教においては白ユリの花(マドンナリリー)が純潔の象徴とされ、やはり聖母マリアのシンボルとなる。受胎告知ではまずこのユリが描かれる。]
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キリスト教がらみになると、信者でない私は思わず注で引いてしまう。相応に乏しいキリスト教関連の蔵書を紐解いたり、関連宗教サイトを閲覧してどうにかこうにかやっつけた。信仰と関わる思わぬ解釈の誤解等がある場合は、早急にお知らせ頂きたい。

