牧野のダビデ 増田晃
牧野のダビデ 増田晃
エホバのことばうけしサムエル、エサイにいひけるは、汝の男(を)の子(こ)は皆ここにをるや、エサイいひけるは、尚末の子のこれり、彼は羊を牧ひをるなりと
サムエル前書
五月の曠野の緑の息吹に
クリイム色の仄かな月はゆめもふるへ、
遙かをわたる風は飛越え乘あがり
遠く野の果(はて)におちて鳥を立たす。
立つ鳥の遠い野の果よりいま
見よ その背に白い山羊の仔をいだき
ひとりの神のごとき青年は歩みきたる。
その山羊の仔は幼い金の眼をかがやかし
その柔毛(にこげ)は日をうけてしろがねに溢れ
聖寵のごとく青年の額にかがやく。
見よ その額を その額は膏にきよく
流れすべる百合の露にかこまれ
エホバの擇べる薄紅(うすべに)の琴のごとく
神のみのもつ階調に晴れわたる!
見よ その眼を その眼は天の碧を
細くぬいてつくりたる蘆笛のごとく
飾りなく 曇りなく ただ未來のみを
その珊瑚鳴らすまたたきのうちに創る!
見よ その肩を その肩は隆く日に濡れ
雄叫び唸る牡牛のちからをうけて
山上の大岩の鹽ふいてゆらぐごとく
太陽の庶子の名あげて高まりゆれる!
見よ その足を その足は大樫さながら
天の炬火の力なして大地を斷定し
また 水あげて若やぎに露ふりこぼす
嫩枝のしなふ力で草を踏みゆく!
この草原の果をくぎる香りの森は
組みなづむ腕を縒(よ)らせて朱の息となり、
そのうへにかげろふ紫の山は
いただきに雪握(つか)んで日にくゆる。
見よ ふたたび この五月のうちを歩むものを!
エホバに擇ばれし青年は今歩みゆく。
見よ 三たび この神に擇ばれしものを!
神に擇ばれしこの人を、世にただひとつ
めぐる心臟を見よ、かがやく光源を見よ!
しばし今 野を歩みゆく人ダビデを指して、
萬物の耳は寄り その精はつどひ、
たとへば宇内の力凝つて人化(な)するごとく、
たとへば巖ふかくひそむ大いなるダイアモンドの
射通す光によつて星にまたゝきあるごとく、
山羊抱いて緑野をゆくダビデとともに
萬象宇宙の焦點は移りゆく………
[やぶちゃん注:聖書の注を附けるほど、私は不遜ではない(というより無学である)。詞書中の「牧ひ」は「牧(やしな)ひ」。
・「膏」は「あぶら」と読んでよいか。若さの象徴としての肌の脂ぎった感じを示すか。私のような多脂症の人間には不審不快のべたつく表現であるが。
・「擇べる」は「擇(えら)べる」。
・「碧」は「みどり」と訓ずるべきであろう。
・「大樫」はブナ目ブナ科コナラ属の常緑高木を総称する「カシ」の中でも、アカガシを特定する呼称。樹高は20mを超え、幹の直径も2m前後に達する巨木に生長する。材は強靭で赤味を帯びる。
・「炬火」は「きよくわ」又は「こくわ」でたいまつ、かがり火。
・「嫩枝」は「わかえだ」。
・「組みなづむ腕」の「なづむ」は恐らく、組むことが出来にくい、それほどに腕の力が満ち満ちていることを言っていると思われる(他に思い悩む、思いに打ち込むの義があるが前段からの流れの中で、その意をとらない)。
・「宇内」は「うだい」で、世界、天下。]