ゴツホ 増田晃
ゴツホ 増田晃
神のみの持つ健康を知れる聖きゴツホよ
炎天下を急ぎ刈りゆく草刈人のごとく
一切を聖化し炎となして過去つた人よ。
御身はありとある健康のうち最高の健康をもち、
それ故に悲しみの終ることなき生涯を送つた。
そして自らの血をもつてつくつた眞實のため
クリストの末子となつて仆れていつた。………
神のみの持つ健康を知れる聖きゴツホよ。
青年の日既にクリストを説いて炭坑に赴(ゆ)く運命にあつた。
御身は常に慘めなもの歎けるものの見方だつた。
そして薄暗い坑夫町の餓えたる若い女の手に
その一日の糧はいつもそのまま手渡されてゆくのだつた。………
ゴツホよ 御身には初から逡巡や拘束はなかつた。
御身は激しいその内の炎のまま神に一切を委ねた。
坑夫宿で坑夫より貧しい生活をおくりながら
行商人のごとく聖書をかかへて放浪(さまよひ)つづけた。
しかし一日初めて繪筆に身をもやす心を決めたとき、
内なる炎はかよわい人工の獸の毛を燃(も)しつくした。
御身は蘆を折り造物主のごとく創造せねばならなかつた。………
眞紅の雲の帶の映える白い杏のかげで
制作は鬪ふごとく煌(かゞや)くごとく進んだ。
水を渡りくるイエスのごとく歩む御身は、
苦しめる人類を慰安せんとして描くのだと語る。………
その後激しい制作はやがて南フランスの
アルルの夏の炎天下を待つて絶頂に達した。………
神は炎天下の末子を狂はさぬため自らを發散する術を教えた。
御身は揮發油にも似て自らを放電し天に凱歌をあげる。………
たとへば金と黄の梅酒をふりはらつてをののく向日葵を見よ。
蒼白い炎の息をはいて或る一瞬が待つてゐる。
火神となつて緋と青の空を慕ふその花辨の一枚ごとに
たえざる放電のひびきが鳴つてゐる。………
また煮え返つて天に噴騰る黒き糸杉(サイプレス)を見よ。
どうどうと地鳴りする大地の橙と黄の叫びが草となる。
桃色と青の渦巻き上る雲の下に山嶽が蒸上る。
その一切を包む白金の眩きのなかに放電する糸杉(サイプレス)を聞け。
そこに御身に宿つた神がきこえる。………
自然がすべて脈動であるごとく御身も脈動した。
自然がすべて人知に動かぬごとく御身も人知に動かない。
自然がすべて不秩序の秩序であるごとく御身も然り、
自然がすべて愛にみてるごとく御身も愛にかゞやいた。
その愛は次第に御身を悲劇に誘つていつた。
何人もの女が御身を拒んだ上に友人たちも御身を捨てた。
しかし御身は彼等を憎んだか? 否、大いに否!
御身は愛さずに措けぬ樣に運命づけられてゐたのだ。
しかし人々よ 二百十日の疾風(はやち)の残り風に
扇の尾をしぼつて翔る小鳥らを見送る時、
哀しき人よ、神はいかなる憤怒より
大空に覆面をなげうつて狼煙(のろし)を擧げたのか。
櫛のごと雲を梳く塔のもと異教の薫香が焚かれたる故か。
また槍ぶすま眞紅の旌旗を蝟集させて天を射る反逆の王の故か。
また憎惡に黄獨せる大河より魔王が勝利の叫びを擧げたる故か。
まだ擲彈と惨殺のうちにひしめき寄る好戰の民の故か。
否! 否! 神は地上の確信と傲岸を窺ひ見たる時、
抑へ難き孤獨の羨望と絶望に諸手をわななかし、
狂へるごとく雷神をひきおこし雲を稻妻の矢で裂落したのだ。
ああ冬近く月桂樹の花さく青い夜氣のもとで、
ゴツホよ、御身は鋭い剃刀をかざしてポオルに迫る。
しかし御身は急に踵をかへして數重なる悲しみを爆發させて狂ふ。
その剃刀で自らの耳を切つてたふれる。………
しかし神のみのもつ健康が ゴツホよ 御身のうちにあつた。
再び狂ほしく制作にむかひながら
友情ほど深いまことがあるかと言つて強くうなづく。
動哭しつゝ御身は詫びる、そしてやはりポオルを愛してゐる。
それに又癲狂院の患者たちの深い友情に立ちまぢつて
こゝにもまた神のひかりが見えると喜ぶのだ。
しかしくはへたパイプからはいつも火の煙が蒼白にあがり續ける。
それは測りしれぬ火山のごとく 又硫黄をかくした花の深淵の樣だ。
自ら削ぎとつた耳に纒帶して落込んだ眼光をよせてゐる。
おおゴツホよ その先の御身は私の想像を許さない!
絶作「三本の樹」の枝葉は魔女の指のごと天をよろめかし、
迫りくるハデスの世界の壁面なして絶えずゆらめき、
悲惨と狂苦に神となるひとつの靈を高く捧げて
白百合の天使の腕を待ちうけるのではないか。………
ああその後直に御身はわが身に彈丸(たま)を打ちこんだ。
刻々近づく死に向つて御身は何を語つたのであるか。
御身の語つたごとく悲しみは生きてる間は續いてゐたのだ。
ゴツホよ 悲しみは生きてる間は續いてゐた。
御身には愛される妻もなく又守るべき家庭もなかつた。
しかし御身は絶間なく愛する、それが大きな傷みだつた。
神のみのもつ健康を知れる聖きゴツホよ。
すべてのものを白金の後光をもつて燃やしたゴツホよ。
ありとあらゆる麺麭のうち唯一の麺麭を知れるゴツホよ。
御身は自らの血をそゝいでひとつの眞實をつくつた。
その眞實のためけふ黒檞の十字架を負ふ。
おお それこそ地の鹽とならむとして燃上りつゝ
御身のうちにかがやく休みなき愛のしるしだつた。
そしてその愛故に御身は滯まる時を知らず
クリストの末子となつて仆れていつたのだ。………
[やぶちゃん注:炎の人Vincent van Goghへの紀伝的叙事形式の悲憤慷慨激烈なオードである。
・「過去つた」は「過去(い)つた」で、逝ったの意。
・「噴騰る」は「噴騰(ふきあが)る」。
・「糸杉」ゴッホの描いたのは地中海沿岸に植生するマツ綱マツ目ヒノキ科イトスギ属ホソイトスギ(イタリアイトスギ) であろう。
・「旌旗」は「せいき」。軍隊のはたさしもの。
・「黄獨」は「黄濁」の誤植ではあるまいか(ちなみに、「黄獨」は漢方薬に用いられるヤマノイモ属ニガカシュウの漢名としてはある)。
・「ポオル」は、ゴッホの盟友にして画家のEugène Henri Paul Gauguin。
・「纒帶」は「てんたい」=包帯。
・『「三本の樹」』★探索中!
・「ハデス」はギリシャ神話の冥界の王。またはその冥界そのもの。
・「麺麭」は「パン」。
「黒檞」はブナ科コナラ属シラカシ。不思議なことに樹皮が黒いことからクロカシとも呼ばれるのである。]