赤光 増田晃
赤光 増田晃
噴き井の水があふれるやうに
愛はひとのむねにもりあがる。
息をつめてふくらむむねから
珊瑚をならして愛はこぼれ、
この優しいエンゼルのうたは
雪崩百合のやうに胸よりおちる。
ああ 愛あるものにのみ
自然は若さをおくる。
ラトモスの頂にねむる童子は
やがて赤光の若さに目醒める!
この世にもしつみびとがあれば
それはこの白樺を折るものだ。
愛は無言のこころにもえだし、
無言のくちびるを結びあはせ、
山かけすのやうにかたいむねを
切なくよせて歎かすのだ。
ああ愛よ屈托あるな、
白菜のごとく卒直にあれ、
愛するものよ君らのうたには
アモールの白酒が滿ちんことを!
二人の眼がはじめて會つたとき
炭火のやうにはげしいおもひが
かれらを小鹿のやうにするなら
二人は思はないであらうか、
遠い昔神の御手にそだつた
二羽の銀鳩はこのわれらなのだと。
ああ この世の愛はすべて
いつかは天上に約された。
この世にあることはもう既に
その約束を移すばかりなのだ!
驢馬にくはれたちひさな木槿は
いつも微風とほゝゑみかはし、
やはい頰をしたましろの雪は
裸岩をやさしく抱いてゐた。
すべての調和には善も惡もない!
ただ嫩枝のやうにのびあがる愛情!
ああ 私はこの一粒の苺にも
妹にむかふやうに話しかける
友よ そしてどんなに澤山
愛するものを知らずに來たか!
[やぶちゃん注:「赤光」(しやくくわう)とは何か? この語は大正2年刊行の齋藤茂吉の歌集「赤光」によって人口に膾炙した造語と思われるが、これは「赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん」という彼の短歌に基づくもので、而してその赤い光とは茂吉が母の野辺の送りの夜空に見た光なのである。では、それをここに援用できるかというと、明らかに無理がある。そうして「ラトモスの頂にねむる童子は/やがて赤光の若さに目醒める!」という詩句は、これを自然に旭日の光若しくは開明する鮮烈な日光と結びつかせるように感ずるが、何如であろう。
・「雪崩百合」は不明。全くの直感ながら雪崩斜面に群生するクルマユリ(ユリ目ユリ科ユリ属クルマユリのことを指すか。それとも、雪崩の如く不思議なスローモーションのように永久落下する幻想の白いユリのイメージか。
・「ラトモス」は山の名。直後のその山の「頂にねむる童子」とは、ゼウスの子(若しくは孫)とされる美少年エンデュミオン。月の女神セレネとの悲恋で知られる。以下にウィキペディアの記載を引用する。『ある日、山の頂で寝ていたエンデュミオンを見たセレネは、恋に落ちた。自分とは違い、老いていくエンデュミオンに耐えきれなくなった彼女は、ゼウスに彼を不死にするように頼んだ。ゼウスはその願いを聞き入れ、彼を永遠の眠りにつかせた。一説によればセレネ自身が行ったともされる。以降、毎夜セレネは地上に降り、眠るエンデュミオンのそばに寄り添っているという。エンデュミオンが眠る場所は通常ペロポネソスとされるが、一説によればカリアのラトモス山とされる。そのため、エンデュミオンの墓はエリスとラトモスの両方にあった。カリアのヘラクレス山の人々は、彼のためにラトモス山に神殿を建てた。また、セレネとアルテミスが同一視されるようになってからは、恋の相手はアルテミスとされるようにもなった。』
・「山かけす」はスズメ目カラス科カケス属ミヤマカケスを指していよう。
・「銀鳩」はジュズカケバト。よくマジックに用いられる白いハトである。
・「遠い昔神の御手にそだつた/二羽の銀鳩」の因るところの神話は不学にして知らない。ご教授を乞う。
・「木槿」は「むくげ」で、アオイ科フヨウ属ムクゲ。落葉低木。花期は7~10月で、10㎝程の花が次々と咲くことから朝鮮語では「無窮花」と呼ばれ、ムクゲという和名もその音に基づくものと思われる。しかし、一個の花は朝方に開き、夕方には凋む一日花である。増田は「ゆめ」で孤独な存在としてこれを比喩に用いている。
・「微風」は「そよかぜ」と読みたい。
・「嫩枝」は「わかえだ」。]