淺草 増田晃
淺草 増田晃
――中學三年のころの私だつた
金平糖のやうな星がたくさんきらきらする空、鋼いろの空、そこに大きな輪を描く光の風車、果物のやうにひやひやする風車!
私は鞄をかかへたまま夜の町を歩いてゐた、たくさんのひとに責められた私にはこの群集がしたはしい、私に罵言も皮肉もいはないで默つてすぎてゆくこの人人、そして時にはやさしい言葉もかけてくれる彼等、
そこには澤山の不幸な娘がゐた、あの娘たちのうへに神樣はやさしい腕を擴げたまふだらう、てうど雨に打たれて鈴懸の嫩枝がしなふやうに!
私はこの娘たちをしめつたマツチとおもつた、このマツチは! このマツチは! 私はしひたげられたものの味方にならう、大地に身をうちつけて土くれをつかんで號泣するものの! そうではない! 泣くことさへできないものの!
私はよくビスケツトをもつてゐた、犬にあふと口をつぼめてみせる、首をちぢめてよつてくる犬、私はそいつを抱上げるのだ、このおとなしい眼、この細い鬚、こんなものをどこからおまへは貰つてきたの?
シネマの窓に私はよりかかつてゐた、薄荷水のやうな灯(あかり)だ、そこにメリーゴーラゥンドのジヤズが 針金と秋雨のやうに聞えてくる、私はあの灯のうちにひとつの生活を想像するのだつた、
アパートの窓なんだ、僕はワンピースの少女と同棲しよう、そしてその子の小麥いろのうではぽちや/\して抓つてみたいほどなんだ、そしてその子の弱い肩、私はそれを抱いておどおどした黑い眼に見入つてみよう、そのなかにはきつと僕がゐる、それはぢきに僕は不思議に思ふんだ、なぜあなたは眼でものを見てるんだらう、視るといふことはどんなことかしら!
[やぶちゃん注:題名の添え書「――中學三年のころの私だつた」はポイント落ち。私はこの詩が如何にも好きである。芥川龍之介の「淺草公園――或シナリオ――」が長歌とすれば、これはその短歌である。私はこれを読むに容易に本詩の作中の「私」になれる。見上げたアパートの裸電球、私に凭れかかるワンピースの小麦色の肌をした少女、その最終連は、萩原朔太郎の「さびしい人格」のように、『ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。』!
・「罵言」はこのままなら「ばげん」であるが、詩語としてはしっくりこない。「ののしり」と当て読みしたい。
・「鈴懸」は マンサク目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ。プラタナス。
・「嫩枝」は「わかえだ」。
・「マツチ」は前の「雪國のクリスマス」の詩の「マッチ売りの少女」の面影である。
・「薄荷水」は「はつかすゐ」で、ニホンハッカ等から生成された薄荷油を水で薄めた、テキヤの定番商品。
・「針金と秋雨のやうに聞えてくる」というイメージは私には大正14(1925)年1月発表の梶井基次郎「檸檬」の一節、『さう周圍が眞暗なため、店頭に點けられた幾つもの電燈が驟雨のやうに浴びせかける絢爛は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆(ほしいまま)にも美しい眺めが照らし出されてゐるのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往來に立つて、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子*[やぶちゃん注:*は「窗」の異体字で(窗+心)]をすかして眺めた此の果物店の眺め程、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。』の描写を思わせる。]