日輪の語れる 増田晃
日輪の語れる 増田晃
人々よ われは來るべき人間を信ず。わが夏の弓はその人の花の腕(かひな)に引きしぼられむ。人々よ われは日輪なり、すべて哀れなる處刑囚の解放者なり、教育者なり。
人々よ 野菜や魚を商へる市場に、煤煙いぶりたる工場に 土の見えざる石疊の廣場に、汝らは歩み佇み激昂すれども、絶えて己が囚人なるを 悲しみの徒弟なるを知らざるなり。
かつて人間は過ぎし日と來る日を知る時ありて鳥獸に打克ちぬ。されど見よ、汝らは今日復讐と危惧にもえつつかくも流浪す。汝ら嬉び悲しみ怒り怖れつつ歩めども、見よ その影は極めて薄し。そは汝ら既に命了へしものか或は流産せるものなるが故なり。
人々よ 嬰兒は長じて成人となれども、成人の長じて再び嬰兒となるは稀なり。かれらは中途にして事きるるか、或は老人となりて生存す。われまこと汝らに告ぐ、汝ら昨日を患ふなかれ 明日に惑ふなかれ。われと共に脈搏し 呼吸し 歩行せよ。
人々よ、今日汝が法馬(ふんどう)を※ち、汝が巻尺を捨てよ。己が血と肉もて箴言せよ、己が呼吸と聲帶もて作歌せよ。かくて産れ更るべき人間は再び嬰兒なり、かかる生命の肯定者なり、新しき精神なり 肉體なり。
われは常に驚愕せるものを愛す、そは生命はたえず瞎目するもののみに與へらるゝが故なり。驚愕せざるものは自ら萎えて死せり。
われは常に肯定せるものを愛す、そは自ら切捨てし爪をさへ蘇生しうべけばなり。否定せるものは自ら萎えて死せり。
われは常に報酬を求めざるものを愛す、そは自らよりも自らの純潔を愛する故なり。報酬を求むるものは自ら萎えて死せり。
われは常に恐怖を知らざるものを愛す、そはあらゆる奇術を一瞬に果てしうべけばなり。恐怖するものは自ら萎えて死せり。
われは常に掘下げざるものを愛す、掘下ぐるものはその穴の底に全身の自由を失ふ故なり。土を掘るものは自ら萎えて死せり。
われは常に規定せざるものを愛す、そは溢れ泡立つ春の土壤と共なればなり。規定するものは自ら萎えて死せり。
人々よ われは紅(くれなゐ)の罌粟と薊(あざみ)を愛す、戰闘と愛撫と沈默を愛す、ざわめく緑草に身をうづめる嬰兒を愛す、われは湖に張りたる氷を裂きて渡るごとき跫音を信ず。
人々よ 心ふかき夫にまもらるる妻のごとく、飾りなき微笑もちてわれと共に來れ、見よ われは日輪なり、われは雛の軸ほどく筈なり、産屋をきづぐ鳶師なり。見よ われは汝ら處刑囚の解放者なり、教育者なり。われは汝らを新しきかなてこに横ふ鍜冶工なり。
[やぶちゃん注:「※」={(てへん)+「放」}で、「抛」と同義で「(なげう)ち」と読ませるのであろうか。不明。
・「最終連の「われは汝ら處刑囚の解放者なり 教育者なり。」は底本では「われは汝ら處刑囚の解放者なり」で改行し、空欄なしに「教育者なり。」と続くが、以下の最終行から推測して私の判断で読点を打った。一字空けとしてもよいかもしれない。次の「をはり」は一頁中央。
・「釦」は、「ボタン」。
・「法馬」は、秤の分銅。地図上の銀行の印である繭型のものを言う。語源は不明であるが、全体が馬の顔のようにも鞍のようにも見えないことはない。法は標準・制度・規範の意である。
・「更る」は「更(かは)る」。
・「瞎目」は「かつもく」であるが、誤字ではなかろうか。「瞎目」では片目で見ることから、はっきり見えない、正確に見えない、全く見えないという意味で詩句として通じない。これは同音の「刮目」(かつもく)で、目をこすって対象をよく見ること、注意して見ること、ではなかろうか。ご意見を乞う。
・「うべけばなり」はこの後ももう一箇所現れるが、文法的に不審。「うべければなり」の誤りではなかろうか。ご意見を乞う。
・「罌粟」は「けし」。「芥子」とも書く。ケシ科ケシ属ケシに属する一年草。鴉片(アヘン)採取の出来るケシは殆んどが白花であるので、ここは観賞用の鮮烈な赤い花をつけるボタンゲシ等であろう。
・「薊」はキク科アザミ属。
・「雛の軸ほどく筈」の「雛の軸」雛祭りの人形を描いた軸絵(掛け軸)で、それを飾るために上部の紐に引っ掛けて持ち上げる道具を、弓矢の筈に引っ掛けて「矢筈」と称するのである。
・最終連の「われは汝ら處刑囚の解放者なり、教育者なり。」は底本では「われは汝ら處刑囚の解放者なり」で改行し、空欄なしに「教育者なり。」と続くが、冒頭一連から推測して私の判断で読点を打った。一字空けととれなくもない。