火の鳥 増田晃
火の鳥 増田晃
曙ちかく
まどろむ葉かげに
金箔かさねて
虹がむれたつ、
そのかげで
色硝子浴びながら
麗しい雨こぼす火の鳥!
やさしい娘のやうに
口紅さす娘のやうに
ひとり金の胸濡らす鳥!
曙の火搖れに
身を投げた牝鹿が
歌ひのこした戀のうたを
緑玉の露の梢に
彼女がうたふ!
歌ひゆくその聲聞けば
さしのぼる火の葦に
月のかけらはこぼれ
怖しいそのほてりは
くれなゐの胸毛に亂る!
亂れ胸毛の一枚ごとは
いつか語る筈でしかも
折をなくしてしまつた
低い愛のさゝやきであるのか、
その歎きがいつか
珊瑚の紋をひろげて
暗い額に香をゆするのか、
そしてこの歎きが
蝶々はためく蘭を灼き
火に煽りたて眼に火を滿たせ
この娘(こ)の肩をぐらぐらさせて
天頂の日の炎を指(さ)すのだ!
――やがて狂へるフエートンのせて
緑の車は轍をはづれ
低く豹のごと下り來れば
天上の蝎(さそり)惡寒にめざめ
獅子たちは鬛みだし
雷獸は火を蹴ちらして
海の緑も白く泡立つ!
見よ そのとき
その火のかたへいま
火の鳥は鋭く鳴きたち
磁石にむかふ鐵片なして
ひとへに鳴立ち昇りゆく!
火に戀狂ひ 火に憑かれ
天頂さして飛びゆくものを
やがて凋むためいきのごと
西夕ぞらへ月は缺け
花火散つて聲はかすれ
宙を縫つてほどもなく
かなしき鳥は下りきたる!
緑草に溺れ 胸毛うすれ
金の棗はこまかく崩れ
そして火! 火!
鋭くさけぶその舌は
ほそく赤くちらちらし
それも日と共に傾きゆく、
とほくで
巴旦杏の熟れる匂がする
たそがれが來たのだ、
むらがる靄のひとむれは
庇髪をくらくかざす、
そして傷(いた)めるこの娘(こ)は
木魂や蜘蛛にとりまかれ
そこにゐるのは夜ばかりだ、
けれどいつか木の間には
金明りするけはひが動く、
紫の葉つたふ夜露は
そこだけ水晶の籠になる、
かくて希みはねむるこの娘(こ)の
この火の鳥のふしぎなさだめ
賴りないその行く方に
白いあはい手をおくのだ、
ああ といつて眼に
接吻をふりそそぐ、
――けれど而し 夜更けてふと
彼女はかつと眼を見開くことがある、
どこか彼女を呼ぶ聲がする、
誰だ! 亡者どもか!
いつも晝ひなか
彼女を狂はす天上の
火の彼方に叫び呼ぶ姉妹か戀人か?
火!
火!
彼女はかつと眼を見開き
銀の翼を打ちあはせ
汗ちらしながら
鋭く叫ぶ!
そして彼女が人間だつた頃
姫だつた頃
深く戀しあつた王子が
神の怒に觸れ地獄に落され
火の淵にあへぎ
その戀人だつた姫が
いまは鳥とされて
ふしぎな耳もつ火の鳥とされて
いまだ息ある王子の
やかれる叫びだけを
あのもえさかる天の炎の
ゆくへもわかぬ深いところに
たゞ聞いてゐる、
そしてその聲を聞くたびにいまも
昔のやうにいまも彼女は
賴りない女の聲で泣沈むのだ………
[やぶちゃん注:フェニックスの神話は世界各地に存在するが、増田が基底とした神話がその中の何であるか、不学にして私は知らない。後半の姫や王子のモチーフには具体的な「火の鳥」伝承が背景にあろうかとも思われる。当初はロシアの「火の鳥」伝説を用いた著名なストラビンスキーのバレエ「火の鳥」かとも思ったがストーリーが全く異なる。識者のご教授を願う。
・「火搖れ」は「火搖(ほゆ)れ」であろう。
・「火の葦」とは火の鳥によって発火した葦が燃えながら天空へと火の粉となって舞い上がり立ち登ってゆくイメージか。
・「香をゆするのか」は、「くゆらせるのか」の意味で、嘆きがその額あたりに嘆きの香りを揺らめかすのか、という表現か。
・「フエートン」はギリシャ神話の太陽神ヘリオスの子、パエトーン。ウィキペデイアによれば『パエトーンは、友人達からヘリオスの子ではないと言われたため、自分が太陽神の息子であることを証明しようと太陽の戦車を操縦した。しかし、御すのが難しい太陽の戦車はたちまち軌道をはずれ、大地を焼いたためゼウスによって雷を打たれ最後を迎えた』とする。
・「鬛」は「たてがみ」。
・「金の棗」の「棗」は「なつめ」で、バラ亜綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科のナツメを言うが、ここは「金棗」で金柑、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科のキンカンの実を意味しているように思われる。所謂、金色の実ということであれば、断然、後者がぴったり来るからである。
・「巴旦杏」は「はたんけう」で、バラ目バラ科サクラ属ヘントウ、アーモンドである。]
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今日、遂に詩集「白鳥」の翻刻を終えた。しかし、この詩集、後半に行くほど、魂の重量が無限に広がってゆく。つい昨日まで、僕は後一週間もすれば、ブログでのアップは終わって、今月末には悠々と増田晃詩集「白鳥」をページ化出来ると、安易にも思っていた。いや、これは恐ろしくも素敵な壁だ……貧しい僕の魂の自覚を正直に表明しながら……惨めな僕は……しかし……確かに僕は僕の誰も訪れることのない玄室に素敵な増田晃の絵を一人占めにする……