母の需めにより光明皇后のおおどをなさんとして作りたる小さきおおど 増田晃
母の需めにより光明皇后のおおどをなさんとして作りたる小さきおおど
増田晃
かがやく安宿媛(あすかのひめ)
三千代夫人の御(み)子
いかにセント・アンヌの御(み)子にもまして
無垢に憐れみ深くいつの世までも
哀しみまどふわれらの歎きを
いつくしみ見守りたまふか?
かの赤光にもたぐふべき
優しさに御(み)手とりて涙ながし
誰か御后(みきさき)を戀はざるものありや?
われけふ蛙なく佐保の川ぢを
奈良坂を秋篠をい行きさまよひ
行きたどり 行き止まり 心天(あま)飛び
日(ひ)月も知らにいにしへ戀へども
あはれわが絃(いと)弱し もろし
わが器(うつは)病む しらべ副(そ)はず
おお 願はくは御后よ
かの法華尼寺の天才に
御像つくる悦び與へ玉ひしごとく
わが絃にも感ありたまへ。
戰ひに勇みゆく子らのため
またそを送る母らのため 妻らのため
たとへわが絃切るるとも 花ある頌を
讃への對句を大いなる詩章を
祈りのうたをなさしめたまへ。
たとへわが名かの彫師(ほりし)のごと
消えゆくとも 亡びゆくとも
誤られゆくとも、變りゆくとも
天下の御(おん)國母
藤三孃の御后
われに第一の頌をゆるしたまへ。
[やぶちゃん注:底本の傍点「丶」は下線に代えた。さて、光明皇后に注を附けるほど、私は半端に不遜ではない(というより興味が湧かない)。即ち私は十全に不遜である。それでも最低の注は、必要である。聖武天皇の皇后で安宿媛(あすかべひめ)、藤三娘(とうさんじょう)とも言う。父は藤原不比等で、母は本文に現れる県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ。別名、橘三千代。一階の命婦から後宮の実権者に成り上がった烈女である)。仏教に深く帰依、東大寺・国分寺の設立を夫に進言したとされ、貧者のための福祉施設に相当する悲田院や医療施設としての施薬院を設置、興福寺・法華寺・新薬師寺といった多くの寺院の建立や修復を行った人物として仏教史に刻まれる(聖武天皇の死後にはその遺品を東大寺に寄進、その宝物を収蔵するために正倉院が作られた)。
・題名中の「おおど」はオード“ode”。 崇高な主題を、不特定多数の対象に呼びかける形で歌う自由形式の叙情詩。頌歌(しょうか)。
・題名中の「需めは「需(もと)め」。
……さて、以上の叙述からお分かりの如く、ここに至って、どうもこの詩は、素直に読んですんなり好きにはなれぬのだ。読後の感触もなんだかごそごそして悪い。それはこの詩が「母の需めによ」るものでちゃんとしたオードを作るつもりが、ちっぽけなものしか出来なかったという題名の歯切れの悪さが第一にある。また、詩の最後までその絶世の美貌の面影は、増田や我々の前に遂に姿を示さぬではないか……増田よ、我は君の反語の「戀はざるもの」の一人なのだ……増田よ、しかし……君はあの時、君の「絃切るる」時、彼女の「花ある頌」故に戦場に向うことが潔く出来たと、言うのか!?
・「安宿媛」の「あすかのひめ」という増田のルビは誤りで、上に記した如く、「あすかべひめ」とすべき。一見、どうでもいいように見えるが、実は「あすかのひめ」は明日香皇女(あしかのひめみこ)を指す訓で、こちらは天智天皇の皇女にして、有間皇子の母方の従兄妹、高松塚古墳の被葬者に擬せられる忍壁皇子(おさかべのみこ)の妻と目される人物を指す(ちなみに彼女も抹香臭い事績が多い)。
・「セント・アンヌ」は聖アンナで、マリアの母(キリストの祖母)とされる人物。
・「赤光」は前掲「赤光」の注参照。
・「佐保の川ぢ」の「川ぢ」は「川路」(川の流れ)。佐保川は『若草山東麓を走る柳生街道の石切峠付近に発し、若草山北側を回り込むようにして奈良盆地へ出、奈良市街北部を潤す。奈良市新大宮付近から南流に転じ、奈良市と大和郡山市との境で秋篠川を併せる。大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川(初瀬川)に注ぐ。』(ウィキペディアより引用)。
・「奈良坂」はかつての京から南都に向かう古道京街道の途中にあり、東すれば伊勢,南に下れば奈良という古代からの交通の要衝であった。
・「秋篠」は奈良県奈良市秋篠町秋篠寺周辺、もしくは寺そのものを指している。秋篠寺は奈良時代の創建、伎芸天像と国宝の本堂で知られる(但し、平安末に焼失、鎌倉期に再建されたもの)。
・「知らに」の「に」は打消の助動詞「ず」の連用形の古い形。知らずに。
・「法華尼寺」は法華寺で、奈良県奈良市法華寺町にある。真言律宗、奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。本尊は十一面観音、開基が光明皇后である。
・「法華尼寺の天才」は以下に記すガンダーラ国の彫刻師文答師(もんどうし)。この名前、とても本名とは思われない。まさに増田の言うように本名は失われてしまって、ニックネームのようなこの名のみが残ったのであろう。
・「御像」は本尊の十一面観音を指す。この仏像については、北天竺の乾陀羅国(ケンダラコク=ガンダーラ)の王が、遥に日本国の光明皇后の美貌を伝へ聞き、彫刻家文答師を派遣、請いて光明皇后を写生して作らしめたる三体の肖像彫刻の内、一体は本国に持ち帰り、他の二体はこの国に留め、この法華寺と施眼寺とに安置したという記載が「興福寺流記」「興福寺濫觴記」等にあるとする(會津八一「南都新唱」注より)。
・「藤三孃」は「とうさんじやう」で光明皇后の別名。「藤三娘」と同じ。]