ALWAYS 続・三丁目の夕日 否 前後編 ALWAYS 三丁目の夕日
――僕は忙しさの中で何一つ新作の内容を知らず、昨日、妻が「最初の2分が掴みらしいよ」という言葉も上の空で、今日の上演前に買ったパンフを開いた。丁度、そのパンフの真ん中に折込のページがあり、鈴木オートが派手に髪を逆立てた映像と、「映画を観るまで、開けちゃダメだぞォォォ!!」という吹き出しに、普段なら臍曲りに開けてしまう僕が、何故かあの昭和30年代の少年期のように、開けずにいたのは――それは、大変な正解だった!!
知らなかったから、僕は、その「冒頭の2分」をあのころの少年のようなドキドキした笑顔で、心から楽しめたのだ。それは、何故か冒頭のフェイド・インからSEに肉体が先に直感していた。そうだった!――「あいつ」だ!
このシーンについては、僕のフリークな立場からすれば、多くを語るべき細部の不満や注文はある――だがしかし、それは、まだ観ぬ人々の感興を明らかに殺ぐのであってみれば、作品が多くの人に見られてほとぼりが冷めた頃に、語るべきことである。この冒頭を見るためだけに、僕は今回の作品をお薦めする。そうして、何が出てくるかを決して、あなたは――知ってはいけない!――
主演の吉岡秀隆が述べている通り、この作品は、前作を前編とし(前作の僕の感想はこちら)、これを後編として、連続した一本の映画作品として見るのが絶対的に正しい。……
それは、当り前のような謂いに聞こえよう、がしかし、観るものは決してそのように見ないという点で(それは無意識的な今日の私のいやらしい批評眼の一部がそうであったことに論拠をおくのであるが)、極めて微妙な問題を孕んでいるように思われる……
三丁目は前作より美事にウェット。個々の場面にあって、実に微妙な汚しがリアリズムを引き出している(しかし欲を言えばもっと饐えた臭いが欲しいなあ。でもそれじゃ、みんな帰っちゃう、か)……
日本橋も、東京駅も、羽田空港も、その向うの京浜工業地帯の煙突も、あのおぞましい学校給食も、そうして私の幼少の頃の憧れであった「こだま」の車両も――すべてのVFXは前作を遥かに確かに上回っている……
何より、映画の苦手な妻でさえ、見終わった後に入ったレストランで、私がパンフに見入っているのを覗いた、見知らぬ映画好きのウェイターの、「前作は面白かったですが、どうでした?」という問い掛けに、僕が答えるのを待たず、「前よりずっといいですよ!」と笑って答えていたのだ……
妻の謂いも妥当である。登場人物の設定を説明するために、作品の前半部を使い尽くし、そこに細切れの原作のエピソードをはめ込んだプロットである前作は、何より人物の描写の浅さを免れていなかった。いや、それ故にこそ、満を持した本作があってしかるべきであった……
僕は今回の作品をやはり涙なくして見れなかったし(僕の悲泣の回数は恐らくあなたに負けない。何と言っても、真面目な話、僕は既にあの最初の「奇跡の2分」で泣いているのだ。あそこで泣ける人間はそう多くない)、笑うべき部分では、大いに笑えた。それでまさに充分である……はずだった……
それでも、僕は何か一抹の淋しさを拭いきれないのである。僕は、今、それを明確に記述し得る自信がない。そもそも「いい映画」であると感じている作品に、更なる注文をつけること、というよりそれはもはや修正不能であるが故に禁じられてあるようにも思えるからなのだが……
(最初に断っておくが、僕は自分の嫌いな映画について、いや、あらゆる批評対象を「抱く覚悟」なしに論評する輩を、不倶戴天の敵としている。おまえは「嫌いな映画」を何故観る? 何故、椅子を蹴って出ない?――但し、静かに蹴るべし――そうしておぞましくも何故、「不快を語る」のだ? 愛さない対象に批判は無効だと知るがよい。ルドンは言っている。「批評することは、愛することではない」と。そうだ。これは僕自身の永遠の自戒でもあるさ。そんなことは、おまえに言われなくても百も承知だ)
しかし、敢えて述べてみよう。
僕には「続」を創ることによって生まれてしまった創り手の過剰な「実現可能な欲」の暴露が少し寂しいのだろうと思う。それは観る我々の側の安易な願望充足と時代美化への無批判な迎合と繋がる危険を孕んでいるからである。僕は前作の際の朝日新聞での「時代美化」批判には賛同できなかったのだが、ここまでこの作品が人々の心を捉える時、あの時代のネガティヴな部分へのアプローチは考えておくべき性質のものであるとは思うということだ。しかし、それはこの映画への物謂いというよりも、我々観客の側の主たる問題であるということだ。
僕には「続」を創ることによって失われてしまった創り手の内面の「総合芸術のドゥエンデ」が少し惜しいのだろうと思う。それは試行錯誤が生み出すところのすべての映画製作に関わった「職人」達総体の鮮やかな閃きと、それに感応する観客総てのコール・アンド・レスポンスの微妙な歪率を生み出す惧れを孕んでいるからである。確かにキャストもスタッフも、みんな素晴らしくうまくなった。しかし、それは「演技のための演技」であり、「VFXのためのVFX」になっていは、しまいか。
……しかし、それは作品の評価や興行率にあっては、僕の杞憂であろう。僕はまた、僕の批評的な視点の、一回性への芸術志向という前時代的愚劣さをも何処かで反省している(しかし、繰り返し見られることと一回性は、必ずしも矛盾しない。それは芸術にあっては実はオーディエンス側の「人生的な一回性」の問題であると僕は思っているからである。愛するグレン・グールドに背くようだが)。
「茶川先生」が最初に述べた通り、この作品を「前後編」として、通して観る人々は、幸いである。そこではきっと僕でさえ、危惧や違和感を感じないはずである。而して、この作品の三作目は、決してあってはならない、というより、創ることは最早不可能であろうことも、明白であるから。そうして何より、劇場で売られている「鈴木オート」と「茶川商店」の手拭いを御覧の通り、へらへら買って画像として出すほどに、この作品が大好きであるから。
僕の思いは最終的には明白なのである。この作品は、前作とセットで上映されるべきである――そうして確かに、この「前後編 ALWAYS 三丁目の夕日」は日本映画史に残る確かな名作である。僕はもう今から、この「前後編」をDVDで間髪いれず続けて見るのを、楽しみにしている。
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