フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007/11/29

己さえ救えぬ者が他者を救おうなどとということはおこがましいことである

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念佛を囘向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ淨土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。(「歎異抄」第五条)

2007/11/28

母と僕とチャッピー

Tadashi 自宅庭にて。愛犬のチャッピーと。

無何有――しかし、この直後に僕は結核性カリエスに罹患する……

2007/11/24

エル

1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル

 

そのエルの肖像Eru_3と、その今はなき池の水門で漁どる少年の僕……基、それも今はなき少年の、である……

 

Watauti

三葉の写真

私は、そこで三葉の写真を撮った。

僕を、捉えたのは「影の黙示」。

それは、今に至るまで、僕の中の「鮮烈」で在り続けている。

Hitokage (1975年8月20日撮影)

Kage

Kuroiame

丘邊のさまよひ 生田春月

若き日の夢

  丘邊のさまよひ   生田春月

月おぼろにして我が影うすし、

我が生命(いのち)さへ覺束なきかな。

靜かなる心だにあらば

たのしさは來らむものを。

あはれ、日にして夜(よる)として

我が胸の靜なることはあらず。

ある時は、死の谷に迷ひ、

ある時は、嘆きの海に溺る。

こゝに一日(ひとひ)の惱みよりのがれ出でて

ひとり丘邊にさまよひ來(く)れば、

繁れる松の樹の影もうすし。

夕風のなかにそよげる草のごとくに

寂しくてたえだえなる我が生活は、

節ほそく哀れに鳴りて、

おぼろおぼろの歌とこそなれ、

影もろともに薄らぎつゝも。


第一詩集「霊魂の秋」の巻頭を飾る。「若き日の夢」という大題目があるが、そこに記されるのは、この詩のみである。今日までに春月の「末期の眼」のみに捕らわれていた。これは、十九歳の春月の、詩人の最初の呟きである。底本は昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」であるが、可能な部分を恣意的に正字に直した。

〔一生は他愛もなく過ぎるのだ。〕 生田春月

  ○

一生は他愛もなく過ぎるのだ。

人間は人間で終るのだ。

痴人は痴人で終るのだ。

もうおさらばだ。

美しい世よ、醜い世よ、

もつと美しくなれ、

もつと醜くなれ。

 

堂ビルホテルの八階から

おれは大阪の街(まち)を見てゐる。

街のきらめく火の海を見て、

人の營み、いよいよ寂しく。

これが人の世。

これが一生。

利(り)は寂しさを消すだらうか。

おれはもう切り上げる……

       昭和五年五月十八日(大阪)

注:遺稿詩集『長編「時代人の詩」』の掉尾「終篇 愚かな白鳥」の巻頭の無題詩。底本は昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」であるが、「営」を恣意的に「營」に直した。

底本では詩の末尾日付との間下に

「文学時代」二巻七号より

の記載があるが、省略した。これは恐らく編者の注であり、それは没後二箇月後に出た生田春月の追悼号「文学時代」7月号を指すと推定されるからである。また、末尾の日付の下には続いて

=死の前日の作

とあるが、これも同様の理由により省略した。

実際には、遺稿詩集『長編「時代人の詩」』の掉尾「終篇 愚かな白鳥」は、この詩を含めて3篇の詩で構成されている。この詩に続いて、「エリゼ・ルクリユを思ふ」、「カアペンタアを思ふ」であるが、前者は(一九三〇・一・三〇)の日付を、後者は(一九三〇・五・一一)の日付を持ち、少なくとも詩作そのものは、この作品と切り離すことが可能と考えて、本詩のみを、春月のもう一つの「末期の眼」として、テクスト化した。

なお、昨夜、ブログ・カテゴリに「生田春月」を作成した。

2007/11/23

あらかじめはたらきかけることをやめよ パウル・ツェラーン

あらかじめはたらきかけることをやめよ

     パウル・ツェラーン        飯吉光夫訳

あらかじめはたらきかけることをやめよ、
さきぶれをおくることをやめよ、
そのなかにただくるみこまれて
立っていよ――

無に根こそぎにされて、
すべての
祈りからもときはなたれて、
さきだって書かれていく定めの文字のままに
しなやかに、
追いこすこともかなわぬまま、

僕は君を抱きとめる、
すべての
安息のかわりに。

――僕は誰かに語らねばならないと思ったのだが僕はその時僕の母語を喪失していることに気づいた最早取り返しがつかない中でやっと気づいたのだった――

原民喜 碑銘

Hananomaborosi_2

   碑銘

       原 民喜

遠き日の石に刻み

   砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか

一輪の花の幻

1975年8月20日撮影。碑面に映るのはカメラを構えた18歳の、僕である。

芥川多加志 舞踏會と怖ろしい犬

   舞踏會と怖ろしい犬   芥川多加志

毒物の金文字の舞踏、大舞踏。
旋囘、旋囘する音符の鎖、
波打つチョコレート菓子の群、
赤い假面、
今や涯まで來てしまつた!

 Bow―Wow――a――nnn!

犬の遠吠、
死人まで起き上つて耳を澄ますといふ
この叫聲。
だがそんなものさへ吹き消される
叫喚、沸き起る叫喚、
樂長の指、
流れる床、
靴の踵、それの踏みにじる赤青の光線、
大叫喚!

 damuna,umuna,damuna,umuna……

流れろ、流れろ、行つちまへ、
唐辛(とうがらし)野郎!
あの鍵穴から覗く眼、
あの黒い犬が
もうここまでやつて來た。
しかし
黒檀のテーブル、
金剛石の器、
その中でとんぼ返へる無數の花々、
それから多くの顏
言葉、時々「愛するひとよ」などといふ……
默れ、靜かに!
あゝ、あの眼!
 Bow―wow――a――nnn!
爆彈は
百萬の人間の立つてゐる床下で爆發した、
旋囘、旋囘する波、光、音、
氣狂ひ舞踏、
 Ho! Ho!
劍は宙を飛び
はるか彼方にぐさと刺さつた!
 Ja-Ja-Ja-jaaannn!
私は七人の娘を持つてゐる、
 Clara,
 Hélène,
 Sarah,
 Madelaine……
死ぬときは
默つてゐらつしやい、
扉を閉めて、
カーテンを引いて、
燈火(あかり)を消して。
倒れた柱の間に、
未だ呟く原子共、
 damuna,umuna,damuna,umuna……

         十六年十二月

この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年4月20日発行の第2号に発表したものである。底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分(一部はママとした。底本口絵により「黒」は「黑」でないことを確認している)は正字とした。

本詩の黙示録的内容は驚愕に値する。天満女史もその点を上記著作の中で、すこぶる共感できる言辞で語っている(なお、このリンク先の新潮社の引用サイトにもこの詩は底本より掲載されているが、詩中の女性名“Hélène”の綴りの二つの“e”の、それぞれ“accent aigu” アクサン・テギュ( ´)と“accent grave ”アクサン・グラーヴ( `)とが欠落している)。僕は、天満女史のこの著作を是非、多くの方々に読んでもらいたい。従って、多くを語るのはやめよう。

彼女の情熱なしに、芥川多加志のこれらの詩や小説は、この世に日の目を見なかったであろう。一部のブック・レビューには女史の評伝作家としての無能をなじるものがあるが(そこには心情的に同感できる評もないことはない)、ではしかし、君がやればよかったのだと私は言おう。そうして自身に出来たかと問うがいい。それでも忸怩たるものが微塵もないとなれば、あなたは芥川多加志の伝導者ではない、というだけのことではないか――

多くを語るのはやめる――しかし、お分かり頂けるであろう。その終曲は、彼が知るすべのなかった、まさにチェレンコフの業火を描いて余りあるではないか!――

奇しくも、僕は先の記事の生田春月の碑を撮った生涯初めての一人旅で(それは前立腺癌に冒され余命幾許もない鹿児島の祖父に最後の別れをするための旅の帰りであったのだが)、日本人としてのアイデンティティとして、広島の旅を自らに課した。広島はその時も、そうして今も、僕には永遠に刻まれる存在である――Doumu2_3

Doumu1_2

1975年8月20日撮影

生田春月絶筆 詩集「象徴の烏賊」斷章

斷  章   生田春月

南仙子默示録(The Revelation of Nonsense)
の名のもとに完成せんとしたものの斷章である。
一部分は東京で、大部分は大阪で。
      (一九三〇・五・一八 大阪にて)
―――――――――――――――

   天地の間

われ今日、天地に異象を見たり。
地になきものを天に見、
天になきものを地に見る
天と地になきもの、
天と地の間に見る。

   オーサカ

ロンドン、パリ、ニュウヨオク、
ベルリン、ヰイン、トオキョウ……
飢ゑた貧しい詩人が月を見てゐる、
月が詩人の髯を見てゐる。
おまへはあまりに知られすぎた月、
これはあまりに知られない詩人、
みんなに見られてゐる月と
誰も讀まない詩人とは、
この世で誰よりも親しいのだ。

詩人の運命はインタアナショナル、
すべて平凡、すべて無趣味、
煤煙と塵挨との中
商業主義の花は開き、
機械の中に神の呪阻を聞き、
貨幣の音に詩が生れる。
新しい詩は金である、
この電力の世に、まだ紙に詩をかく
詩人といふ種族が生き殘つてゐたのか。

オーサカで、詩人は滅びる……

   汚 水

大都會の下水の中を
ひとりで流れてゐた。
自ら自らの何であるかを知らない、
ただ果てしらず流れるのを知つてゐた。

ここはマンハッタンか、
ここは堂島、
一生はただ下水のどぶ、
わたしほただ流れる。

   無眼子

桃を見る人あり、
竹を撃つ人あり、
かれもさとり
これもさとる。

われは山を見て山を見ず、
海をみてまた海を見ず、
さとりもなく
一生は終る。

   變 形

或る時は生に充ちてゐる、
或る時は死に充ちてゐる。
蠶食されるもの、
氾濫するものとなる。

   破 滅

おれは墮ちたる天使である、
白皙の神通力を失つて
翼破れて、喜んでゐる。
もうおれは絶對自由である、
黑く波に身をのまれつつ。


注:底本は昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」であるが、可能な部分を恣意的に正字に直した。


遺稿詩集「象徴の烏賊」の掉尾を飾る詩群。5月17日から大阪の堂ビルホテルに一人投宿、翌18日にかけて客室に閉じこもったまま、これらの詩を書き上げたものと思われる。5月19日、9時発の別府行菫丸に一人乗船した。見送った幼馴染の田中幸太郎は「彼は心から嬉しさうであつた。おだやかに冴えた顏をしてゐた」と記す。船中にあってその田中への遺書及び「女性関係で死ぬのではない。謂はゞ文学者としての終りを完うせんがために死ぬやうなものだ」等と記した内縁の妻であった生田花世宛の遺書、そうして先に掲げた絶筆「海図」を書き上げて入水。

このやや歯ごたえの悪い遺書の意味を、上記書籍の年譜を参考に少し説明しておく。春月は大正3(1914)年22歳の時、雑誌「青鞜」の同人であった長曽我部菊子(本名・西崎花世)が寄せた感想文「恋愛及び生活難について」の内容に感激、彼女と共同生活を始めたが、大正五(1916)年には森田草平門下の山田田鶴子と、死の前年、37歳であった昭和三(1928)年には、自らが主宰していた雑誌「文藝通報」の投稿者であった内山恵美及び伴淡路との恋愛に陥っていた。春月は性格の不一致を示した花世との関係について、「空想的人道主義」であったと晩年、自嘲的に述べている。

生田春月絶筆 海圖 及び 生田春月略年譜

Kaizu_2

  

 

   海圖   生田春月

甲板にかゝつてゐる海圖――それはこの内海の海圖だ――ぢつとそれを見てゐると、一つの新しい未知の世界が見えてくる。
 普通の地圖では、海は空白だが、これでは陸地の方が空白だ。たゞわづずかに高山の頂きが記されてゐる位なものであるが、これに反して、海の方は水深やその他の記号などで彩られてゐる。
 これが今の自分の心持をそつくり現してゐるやうな氣がする。今迄の世界が空白となつて、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。

注:本テキストは昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の口絵写真原稿から起した。当該口絵のキャプションは「投身直前、瀬戸内海航海中の菫丸船内にて認められた詩人・春月の絶筆<海図>原稿」。

1 標題の「海圖」及び作者名は原稿になく、一行20字の原稿用紙三行目から書き始めている。

2 「それはこの内海の海圖だ」の「この」は右に挿入書き入れ。

3 「位なものであるが、」の「あるが」は左に挿入書き入れ。 

4 「これに反して、」は右に挿入書き入れ。

5 「彩られるのだ。」の「彩られ」は「生きてくるのだ」と初稿を抹消して左に書き入れ。

生田春月
明治25(1892)年3月12日、鳥取県米子町生。生田家は酒造業ながら最早破産した家庭で、少年期は激しい貧困と労働の辛酸を舐めた。大正3(1914)年、ツルゲーネフ「はつ恋」の単行本翻訳を刊行、大正6(1917)年に第一詩集「霊魂の秋」が好評と伴に迎えられ、翌年、第二詩集「感傷の春」を刊行、新進詩人としての地位を確立。他に詩集では「春月小曲集」、「慰めの国」、「澄める青空」、「麻の葉」(小曲民謡)、「夢心地」、「自然の恵み」、「象徴の烏賊」(遺稿)等があり、7巻と終篇からなる二段組で86ページ(上記底本詩集で)という驚くべき長詩(但し、これは昭和3年から、書き溜められ、死の前日5月18日頃に完成させたものと考えられる)                                                           翻訳家としての業績もドストエフスキイの「罪と罰」(共訳)、「ツルゲーネフの「散文詩」、「ゲエテ詩集」、プラトンの「饗宴」等、多岐に渡る。特に大正8(1919)年新潮社刊の「ハイネ詩集」や「ハイネ全集」での翻訳(大正9年の越山堂版と大正14年以降のの春秋社版の二種の翻訳に関わる)は、日本での社会派・革命詩人としてのハイネ紹介の大きな功績として高く評価されている。数多くの詩作品を訳出した。他にも長編小説「相寄る魂」やエッセイ・評論集等多数。
 文学的には、その境遇から社会主義的情熱に始まり、キリスト教的・人道主義的傾向を持つに至る。その後、社会的不平等への激しい義憤、社会主義的解決への疑問等によって次第にニヒリスティックな傾向を深刻化していってしまう。「否定も肯定もない、善も悪もない、楽天も厭世もない一如不二の世界」で「絶望は終局ではなくして、かへつて出発点」とし、「詩を生かすものは、裏の生活である。即ち、生活の深い底である」と言い、「詩はその本質からして、アナキスティックであるべきものだ」とするに至る。時は将に軍靴の音の高まりを告げていた。昭和3(1928)年7月24日、同年であった芥川龍之介の自死の報に接した春月は、「やられた!」とこぼし、激しい衝撃を受けた。

 げに、

 絶望よりの

 その一飛びに

 われは生きん。

 死によつて、

 死の中に

 死の生を。

(長篇「時代人の詩」の「第一巻 死と恋の曲――わが半生の挽歌」巻頭のの詩の末尾。末尾に「昭和三年三月二十二―三十一日(蘆屋―東京)」の記載有り。)

 死もまた

 生きんとする意志だ。

 絶望を生きよ、

 死を生きよ。

(長篇「時代人の詩」の『第五巻 赤裸人の歌――「自由人の歌」続篇』の三番目の詩の末尾。クレジットはない。)

――昭和5(1930)年5月19日午後11時過ぎ、春月は「海圖」の詩を認(したた)めると、月明の瀬戸内海航路別府行菫丸の船上より播磨灘に身を投じた。享年38歳。


以上は、昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の年譜及び解説等を参考にして、僕が自在に構成したものである。

Kaizu

――昭和11(1936)年、門弟・詩友等によって組織された「春月会」の発起により、遺体が陸揚げされた(小豆島沖合いで一トロール船により遺体は6月11日に発見された)小豆島の坂手にある観音寺の海を見下ろす丘に、絶筆の「海図」の詩碑(直筆絶筆原稿そのもの)が石川三四郎や萩原朔太郎の参列のもと、建立された。左は、1975年8月23日、大学一年の夏に卒論準備を兼ねて尾崎放哉の墓参に小豆島に逗留した際、立ち寄って僕が撮ったものである(写真の版を大きいままにしたのは、はっきりは見えないがダウンロードして原稿の細部の雰囲気を少しでも味わえればと考えたからである)。

――同じ折、春月の遺体が運ばれた田ノ浦の海を写す。Tanoura

 

最後に。まさにその場所の本物の海図を見てみよう。

Bisanseto_2

 

 

――小豆島、そして彼が「途中下車」した、瀬戸内海航路である……

流水歌 生田春月を弔ふ 佐藤春夫

流水歌

   生田春月を弔ふ   佐藤春夫

君とわれとは過ぎし日の
歌と酒との友なりき
眉わかくしてもろともに
十年(ととせ)かはらぬ朝夕を
われらは何を語りしか
高ゆく風となる太息(といき)
虹まどかなるよき願ひ
幸ひ住めるをとめの瞳(め)
ひろき愛はた世の戰(いくさ)。

醉ひての後(のち)の歌ぐさを
さめて互(かた)みに示しつつ
ともにはげます身なりしが
人に驕れるわが性(さが)は
君が怒りを得にけらし
われ人づてに聞きけるは
君はわが身を憎めりと
君がこころをはかりかね
君よりわれは遠のきつ。

かくて十年(ととせ)はまた過ぎぬ
眠りなき夜のをりふしに
生き來(こ)し方(かた)を見かへれば
少年の友よき寶
またと有るべきものならじ
よき折あらば手をとりて
杯(さかづき)くまん日もがなと
思ふねがひはあだにして
君 今は世にあらざるか。

歌うづ高く世にのこし
むくろは水にゆだねつつ
騷愁(さうしう)の人いまは亡(な)し
ああ若き日の友は亡(な)し
愛も憎みもすて去りし
佛(ほとけ)の前に額(ぬか)づけば
七情(しちじやう)の巣のうつそ身の
わが眼や水は流れけり
君を葬(はふ)りしその水は。

友のメールより孫引き。

佐藤春夫と生田春月について、昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の年譜を参考にしながら少し述べておく。明治42(1909)年11月、再度、文学者を目指して上京、一時、同郷の評論家生田長江(春月は前年の11月に彼の書生となったが、作品が長江の評価を得られず、失意の内に6月に帰郷していた)の家に身を寄せたが、その際、そこに同宿していた佐藤春夫と相知ることなった。

この「流水歌」で、佐藤春夫は「君が怒りを得にけらし」と歌うが、実際には年譜上から見ると、大正10(1921)年に春月が新潮社から出版した自伝的長編小説「相寄る魂」の中で、佐藤春夫がモデルとなった西尾宏なる人物の描き方に春夫が憤慨し(僕は本作を読んでいないので、憤慨したのだろうという推測であるが)、絶交状を送ったというのが事実のようである。

死の年、昭和5(1930)年4月15日、舟木邦之助(未詳)なる人物が絶交状態にあった佐藤春夫との和解の労をとるべく来訪し、春月は承知の旨を答えたとする。しかし、一月後、春月の入水によって、和解の実現は水の泡と消えたのであった。

2007/11/20

忘却 生田春月

   忘却   生田春月

 

影の匂ひに

裸身を浸し、

流轉の髪に

心をまかす。

 

蘆にかくれて

風を見つけ、

鳥をはなちて

聲ををさむ。

 

おもく埀れた

手は遠く、

動くものみな

忘れ去る。

 

色は死に

相(すがた)しりぞき、

時の巣に

ひとり眠る。

遺稿詩集「象徴の烏賊」より。底本は昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」であるが、可能な部分を恣意的に正字に直した。

2007/11/17

或阿呆の一生 二十二 或畫家

   二十二 或 畫 家

 それは或雜誌の插(さ)し畫(ゑ)だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂鬱にするだけだつた。

「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

(芥川龍之介「或阿呆の一生」より)

この「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」という言葉が、ずっと僕の胸を圧する。それはまさに芥川龍之介という呪縛なのである。

蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜

 

   蒼白   芥川多加志

 

雨滴
今は眞夜中

(時計の音に混つて……)

握りしめたおまへの手を開いてごらん
その力なく慄へてゐる血塗れの哀れなものは何
もしそれがわたしの胸から奪ひとつたものでないとしたら……

今、おまへの手から逃れたわたしは
星々の間をあてどなく彷徨ふことができる
この暗闇を
わたしは旅する
わたしは立止り
また歩き出し
そして耳を傾ける、何ものかの歌に
意味のない歌
意味のない歌……

雨滴の音
夜半を過ぎて。

                             十七年二月

 

注:冒頭の「雨滴」には「あまだれ」のルビがつく。

 この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年4月20日発行の第2号に発表したものである。
 底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分は正字とした。

芥川多加志(1922-1945)
大正11(1922)年11月8日、芥川龍之介・文の次男として東京府北豊島郡瀧野川町字田端に出生。
命名は画家にして龍之介の盟友、小穴隆一の「隆」を訓読みしたものである。
龍之介は良く知られる彼自身の小穴による肖像「白衣」(二科展出品)を、この丁度二ヶ月前の9月8日の二科展招待日に小穴と一緒に鑑賞に赴いている。しかし、その小穴には不幸が訪れる。多加志誕生から19日後の11月27日、小穴の右足に脱疽の診断が下る。12月2日に右足第四指を切断するも手遅れで、翌大正12(1923)年1月4日に、右足首から下を切断した。この2度の手術に龍之介は立ち会っている。御存知のように、小穴は龍之介が遺書で遺児たちに、父と思えと、命じた人物である。しかし、文も遺児達も皆、龍之介の死後に彼からは縁遠くなってゆく。
著作関連では、多加志誕生の5日後の11月13日に未完の単独作品「邪宗門」が刊行され、翌年の1月1日の「文藝春秋」に「侏儒の言葉」の最初の発表がなされる。
昭和2(1927)年7月24日の龍之介自死の際は4歳、聖学院附属幼稚園入園の3箇月後であった。鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(河出書房新社1992年刊)の自死前日の下りから引く。7月23日の『昼食は夫人や三児と楽しく談笑しながらとり、多加志が食卓を蹴ったので龍之介は多加志にお灸をすえた。』――死を美事に決していた龍之介に灸をすえられた多加志――私にはそこに龍之介の多加志への愛を見る。
たとえばこれを、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)で頗る臨場感のある印章的暗示的な場面として描いている(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのであるが)。

   *

昼飯の卓袱台で、比呂志が父の龍之介に描いてもらった絵を多加志に見せびらかし、多加志が父に今直ぐに僕にも描いてと駄々を捏ね、卓袱台の足を蹴る。その罰として灸のシーンとなるのである。おびえる多加志に心の中で語りかける。

『よくないことをしたら心が熱くなる。その熱さと痛みをおまえが忘れないように、お父さんはおまえにお灸をすえるのだ』。

しかし、多加志に足の小指に灸をすえた直後、多加志が

「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」

と泣き叫ぶと、それを心配そうに見ていた伯母フキが

「似ているねえ。同じことを言っているよ」

と言う。

『ふと龍之介は自分が幼い多加志になったような錯覚を抱いた。』

そうして、

『灸の熱が多加志のあしの小指の皮膚につたわる寸前で、龍之介はもぐさを手でつまみあげた。手を焼く熱の痛みが胸に痛いほどに感じられて、龍之介は涙をこぼしそうになった。』

とあって、陽気な団欒の昼御飯となる。その後、龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして

『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた。』

訝る多加志に龍之介はこう言う。

『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』

『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』

『その花はね、魂なんだよ』

『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』

と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆくのである――

   *

ちなみに、この「スマトラの忘れな草」は龍之介の「沼」に登場する――

昭和4(1929)年、豊島師範学校附属小学校入学。
昭和10(1935)年、私立暁星中学校入学。
昭和15(1940)年、東京外国語高等学校(現在の東京外語大)仏語部文科入学するも、重度の肋膜炎で一年余、休学。
昭和18(1943)年11月28日、出征。陸軍朝鮮第二十二部隊入営。
昭和19(1944)年6月29日、ビルマ戦線起死回生の投入のための陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士として朝鮮を出発。
昭和20(1945)年4月13日、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死。僅か満23歳であった。

戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――

 以上は先に掲げた天満ふさこ及び文中の鷺只雄・小沢章友らの著作を参考にして、僕が自由に作成したものである。芥川多加志が参加し、天満女史が遂に探しえなかった幾つかの回覧雑誌「星座」が何処よりか見出されんことを祈る。芥川多加志の魂が、時を得て、また蝶となって飛びたつために……

2007/11/15

短調

短調の曲が何故僕らに哀しさを誘うのか? 誰か1000字以内で述べてみよ。

美事な答えなら、僕がおごるよ、二人っきりで。

2007/11/14

西丹沢の夢又は強制された天使の羽の重量

先週の土曜日、西丹沢のキャンプ地で見た夢。

僕はそのキャンプ地にいる。夜である。沢の奥からワインレッドのケープを羽織った「天使」がしずしずとやってくる。トラック移動しながら(即ち霊のように足を動かさず)私の方へやってくる彼女は、見知らぬ東欧の鼻の高い美人の、だが中年の、「天使」なのである。裸の地面に横たわっっている私の足元に立つと、「天使」はチェコスロバキア語で[やぶちゃん注:以下そうであると夢の中では認識していた。これは今考えると「プルートゥ」の「ノース2号」の「ダンカン」の母親であったような気がするのである。]、こう言う。

「新製品の天使の羽が出来ましたのよ! どうぞ!」

そうして、両手に持った、それを笑顔で差し出すのだ。

僕はシュラフにくるまって金縛りになっていながら、何故か、叫ぶ。

「天使の羽なんか、い、ら、な、い!」

すると「天使」はひどく寂しそうな顔をした後、急に毅然たる面持ちになって、

「いいえ! 天使の羽をいらないなんて、あなたに! 言わせないわ!」

と言い放つと、僕の胸の上に、その純白な、美しい、天使の羽を、トンと置くと振り返って去ってゆく……僕はそれと共に、全く息が出来なくなる……僕は杭を刺された吸血鬼の断末魔の如くに

「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」と……

……と、その叫んだ自分の声に眼が覚めた。――同僚の先生は気がつかなかった(翌日隣りのテントにいた生徒は確かに聞きましたと言ったのが、恥ずかしい)。

時計を見ると、午前2時、丁度だった……丑満、だあな……

2007/11/12

西丹沢の思い出

この土日、山岳部の子らと一泊で西丹沢に登った。

H高校のWV部の子らよ、28年前の晩冬を覚えていますか?

あそこに50の僕が計画をし、僕が子らを連れてゆくなんて笑止の極み、この文弱の僕も思ってもみなかった。

西丹沢自然教室の周囲は、すっかり変わったよ。あの頃の苗木だった紅葉が、すっかり空を覆う程になり、テントを張ったガレ場の河原は、オートキャンプ場になって、全く臭わない清潔な水洗トイレが8基も並び、証明完備の水場には給湯器があって、24時間お湯まで出るんだよ!

下棚と本棚の瀧だけが変わらない。あの時の君らも、すっかり父親母親になってしまったな。僕だけが取り残されて……

西沢からの急登はなかなかにきつかった。両足はすっかり棒だ。耳もまた、おかしくなった。しかし、瀧や紅葉、最後の中川温泉にも子らには満足してもらえたので何よりだ。

畦ケ丸からの下り、登ってくる同じような高校生の一行に逢った。その最後尾を歩いていたのは、あの頃、一緒に山に登っていた同僚の「善さん」だった。

……非力で、金魚の糞のように「善さん」にくっついて登っていたあの頃から、あれから30年近い将来に、彼と登った山に、僕が一人前面をして子らを率いて、彼と逢うなんて……不思議な気がした……「善さん」の握手が妙にくすぐったかった……

2007/11/09

回転木馬減速白馬鬣搖搖矣

スピード落としたメリーゴーランド 白馬のたてがみが揺れる

(『カブトムシ/aiko』より)

ある知人のブログで見つけた……そうか! アイコかぁ……イイネ コノ シークエンス 撮リタイナ!

2007/11/08

いいや

いいや 世界なんて下劣なもんは 変っちまって いいのかも 知れんな

僕の愛する人

十代の無象なガキ共になめられて生きている五十代ほど愚劣に普通に痰を吐きたくなるほどに馬鹿馬鹿しいものはない

同じ世代の無能ながら偉そうな肩書きを持つ馬鹿共に使われて生きている五十代ほど虫唾が走るほどに最下劣に馬鹿馬鹿しいものはない――

――そうして――これを真面目に読んでいる君は最も救い難いほどに純粋無垢に馬鹿馬鹿しい――

――が――そういう君を、僕は、確かに、愛している……

2007/11/07

芥川多加志 墓地

   墓地   芥川多加志

月の光で冷えきつた石甃の上を歩いて

錆びついた鐵門を押しあけた。

二、三本の眞黑な椎の木

人の如く佇んで呟きつゞける

道に

施された錢を數へに時々やつて來る托鉢僧の

冷たく殘して行つた足跡

散り敷く青ざめた落葉の群をかきわけて。

苔むした墓石の上に

身動きもせぬ一羽の何か黑い鳥を見た。

この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年1月3日発行の創刊第1号に発表したものである。底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分は正字とした。

……これはフリードリヒの“FRIEDHOFSEINGANG”――「墓地の入り口」であるCemetery_at_dus_2

2007/11/04

昭和32年4月9日の僕の姿(父のデッサン)

32419_3  鉛筆のデッサン、原紙は50年の経年変化で激しく黄ばんでいるため、明るさだけは0に落として白色化したが、他の補正は行っていない。画用紙がはやや大きくスキャナーから上下がはみ出してしまった。下の方に見える日付は

1957-4-9

である。左の縱に切れているのは

「二月十五日誕生」として私の名、その左手に「豊」という父のサインである。

生後53日目の、母の乳房と、僕……

「前後編 ALWAYS 三丁目の夕日」上映を祝して、僕のあの三丁目へ……

2007/11/03

川路柳虹 秋

僕の非在の玄室の碑銘に。

 

秋   川路柳虹

海も嘆くか
秋くれば
潮騷遠く
荒だちて
すすり泣く音も
切なげに
夜ごと渚を
噛みくだく。

胸のさみしき
たそがれに
秋は小猫の
しのび足、
古き痛手を
さぐりあて
海のごとくも
狂はしむ。

 

ALWAYS 続・三丁目の夕日 否 前後編 ALWAYS 三丁目の夕日

――僕は忙しさの中で何一つ新作の内容を知らず、昨日、妻が「最初の2分が掴みらしいよ」という言葉も上の空で、今日の上演前に買ったパンフを開いた。丁度、そのパンフの真ん中に折込のページがあり、鈴木オートが派手に髪を逆立てた映像と、「映画を観るまで、開けちゃダメだぞォォォ!!」という吹き出しに、普段なら臍曲りに開けてしまう僕が、何故かあの昭和30年代の少年期のように、開けずにいたのは――それは、大変な正解だった!!

鈴木オートの言葉通り、それは知ってはいけない。Suzukiauto_3 

知らなかったから、僕は、その「冒頭の2分」をあのころの少年のようなドキドキした笑顔で、心から楽しめたのだ。それは、何故か冒頭のフェイド・インからSEに肉体が先に直感していた。そうだった!――「あいつ」だ!

このシーンについては、僕のフリークな立場からすれば、多くを語るべき細部の不満や注文はある――だがしかし、それは、まだ観ぬ人々の感興を明らかに殺ぐのであってみれば、作品が多くの人に見られてほとぼりが冷めた頃に、語るべきことである。この冒頭を見るためだけに、僕は今回の作品をお薦めする。そうして、何が出てくるかを決して、あなたは――知ってはいけない!――

主演の吉岡秀隆が述べている通り、この作品は、前作を前編とし(前作の僕の感想はこちら)、これを後編として、連続した一本の映画作品として見るのが絶対的に正しい。……

それは、当り前のような謂いに聞こえよう、がしかし、観るものは決してそのように見ないという点で(それは無意識的な今日の私のいやらしい批評眼の一部がそうであったことに論拠をおくのであるが)、極めて微妙な問題を孕んでいるように思われる……

三丁目は前作より美事にウェット。個々の場面にあって、実に微妙な汚しがリアリズムを引き出している(しかし欲を言えばもっと饐えた臭いが欲しいなあ。でもそれじゃ、みんな帰っちゃう、か)……

日本橋も、東京駅も、羽田空港も、その向うの京浜工業地帯の煙突も、あのおぞましい学校給食も、そうして私の幼少の頃の憧れであった「こだま」の車両も――すべてのVFXは前作を遥かに確かに上回っている……

何より、映画の苦手な妻でさえ、見終わった後に入ったレストランで、私がパンフに見入っているのを覗いた、見知らぬ映画好きのウェイターの、「前作は面白かったですが、どうでした?」という問い掛けに、僕が答えるのを待たず、「前よりずっといいですよ!」と笑って答えていたのだ……

妻の謂いも妥当である。登場人物の設定を説明するために、作品の前半部を使い尽くし、そこに細切れの原作のエピソードをはめ込んだプロットである前作は、何より人物の描写の浅さを免れていなかった。いや、それ故にこそ、満を持した本作があってしかるべきであった……

僕は今回の作品をやはり涙なくして見れなかったし(僕の悲泣の回数は恐らくあなたに負けない。何と言っても、真面目な話、僕は既にあの最初の「奇跡の2分」で泣いているのだ。あそこで泣ける人間はそう多くない)、笑うべき部分では、大いに笑えた。それでまさに充分である……はずだった……

それでも、僕は何か一抹の淋しさを拭いきれないのである。僕は、今、それを明確に記述し得る自信がない。そもそも「いい映画」であると感じている作品に、更なる注文をつけること、というよりそれはもはや修正不能であるが故に禁じられてあるようにも思えるからなのだが……

(最初に断っておくが、僕は自分の嫌いな映画について、いや、あらゆる批評対象を「抱く覚悟」なしに論評する輩を、不倶戴天の敵としている。おまえは「嫌いな映画」を何故観る? 何故、椅子を蹴って出ない?――但し、静かに蹴るべし――そうしておぞましくも何故、「不快を語る」のだ? 愛さない対象に批判は無効だと知るがよい。ルドンは言っている。「批評することは、愛することではない」と。そうだ。これは僕自身の永遠の自戒でもあるさ。そんなことは、おまえに言われなくても百も承知だ)

しかし、敢えて述べてみよう。

僕には「続」を創ることによって生まれてしまった創り手の過剰な「実現可能な欲」の暴露が少し寂しいのだろうと思う。それは観る我々の側の安易な願望充足と時代美化への無批判な迎合と繋がる危険を孕んでいるからである。僕は前作の際の朝日新聞での「時代美化」批判には賛同できなかったのだが、ここまでこの作品が人々の心を捉える時、あの時代のネガティヴな部分へのアプローチは考えておくべき性質のものであるとは思うということだ。しかし、それはこの映画への物謂いというよりも、我々観客の側の主たる問題であるということだ。

僕には「続」を創ることによって失われてしまった創り手の内面の「総合芸術のドゥエンデ」が少し惜しいのだろうと思う。それは試行錯誤が生み出すところのすべての映画製作に関わった「職人」達総体の鮮やかな閃きと、それに感応する観客総てのコール・アンド・レスポンスの微妙な歪率を生み出す惧れを孕んでいるからである。確かにキャストもスタッフも、みんな素晴らしくうまくなった。しかし、それは「演技のための演技」であり、「VFXのためのVFX」になっていは、しまいか。

……しかし、それは作品の評価や興行率にあっては、僕の杞憂であろう。僕はまた、僕の批評的な視点の、一回性への芸術志向という前時代的愚劣さをも何処かで反省している(しかし、繰り返し見られることと一回性は、必ずしも矛盾しない。それは芸術にあっては実はオーディエンス側の「人生的な一回性」の問題であると僕は思っているからである。愛するグレン・グールドに背くようだが)。

閑話休題。Tyagawa_2

「茶川先生」が最初に述べた通り、この作品を「前後編」として、通して観る人々は、幸いである。そこではきっと僕でさえ、危惧や違和感を感じないはずである。而して、この作品の三作目は、決してあってはならない、というより、創ることは最早不可能であろうことも、明白であるから。そうして何より、劇場で売られている「鈴木オート」と「茶川商店」の手拭いを御覧の通り、へらへら買って画像として出すほどに、この作品が大好きであるから。

僕の思いは最終的には明白なのである。この作品は、前作とセットで上映されるべきである――そうして確かに、この「前後編 ALWAYS 三丁目の夕日」は日本映画史に残る確かな名作である。僕はもう今から、この「前後編」をDVDで間髪いれず続けて見るのを、楽しみにしている。

2007/11/02

「デュシャン」夢

1994年12月18日の夢

「越田貴花(こしだきか)てふ少女大正十年御國の爲稀有なる花束を以てして拠出せり」――という文章が磨り硝子に黒々書かれているのを私は手にしている。それ凝っと見ているうちに……その予言(?)の意味が解ってくる……そうだ! 僕はこの予言の意味を美事に解読し、それを世間に報知しなければならないのだ! と激しく思っている……その時ふと、磨り硝子から目を離す……そこは昔の小学生の僕が住んでいた懐かしい家の裏庭の景色である。小さな崖っぷちの庭に、黄ばんだきんかくしが土に埋まっている。犬小屋の上には、真新しいもう一つのきんかくしが鎮座している……[やぶちゃん注:越田貴花なる少女も、大正十年のエピソードも、それを「予言」と認識する理由も、全て不明であるが、最後のきんかくしの映像には、心当たりがある。その4年前、家を新築している最中、進捗具合を見に来た際、完膚なきまでに破砕された裏庭の瓦礫の上に、何故か壊されないままにあった旧宅のきんかくしが、妙な眩しさと寂しさを以て僕の心に残ったのである。この夢、全体にデュシャン的で好きだ。]

枯菊や日日に醒めゆく憤り 萩原朔太郎

枯菊や日日に醒めゆく憤り   萩原朔太郎

2007/11/01

LEFT ALOE

ピエロは 飽きた あばよ

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »