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2007/11/23

生田春月絶筆 詩集「象徴の烏賊」斷章

斷  章   生田春月

南仙子默示録(The Revelation of Nonsense)
の名のもとに完成せんとしたものの斷章である。
一部分は東京で、大部分は大阪で。
      (一九三〇・五・一八 大阪にて)
―――――――――――――――

   天地の間

われ今日、天地に異象を見たり。
地になきものを天に見、
天になきものを地に見る
天と地になきもの、
天と地の間に見る。

   オーサカ

ロンドン、パリ、ニュウヨオク、
ベルリン、ヰイン、トオキョウ……
飢ゑた貧しい詩人が月を見てゐる、
月が詩人の髯を見てゐる。
おまへはあまりに知られすぎた月、
これはあまりに知られない詩人、
みんなに見られてゐる月と
誰も讀まない詩人とは、
この世で誰よりも親しいのだ。

詩人の運命はインタアナショナル、
すべて平凡、すべて無趣味、
煤煙と塵挨との中
商業主義の花は開き、
機械の中に神の呪阻を聞き、
貨幣の音に詩が生れる。
新しい詩は金である、
この電力の世に、まだ紙に詩をかく
詩人といふ種族が生き殘つてゐたのか。

オーサカで、詩人は滅びる……

   汚 水

大都會の下水の中を
ひとりで流れてゐた。
自ら自らの何であるかを知らない、
ただ果てしらず流れるのを知つてゐた。

ここはマンハッタンか、
ここは堂島、
一生はただ下水のどぶ、
わたしほただ流れる。

   無眼子

桃を見る人あり、
竹を撃つ人あり、
かれもさとり
これもさとる。

われは山を見て山を見ず、
海をみてまた海を見ず、
さとりもなく
一生は終る。

   變 形

或る時は生に充ちてゐる、
或る時は死に充ちてゐる。
蠶食されるもの、
氾濫するものとなる。

   破 滅

おれは墮ちたる天使である、
白皙の神通力を失つて
翼破れて、喜んでゐる。
もうおれは絶對自由である、
黑く波に身をのまれつつ。


注:底本は昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」であるが、可能な部分を恣意的に正字に直した。


遺稿詩集「象徴の烏賊」の掉尾を飾る詩群。5月17日から大阪の堂ビルホテルに一人投宿、翌18日にかけて客室に閉じこもったまま、これらの詩を書き上げたものと思われる。5月19日、9時発の別府行菫丸に一人乗船した。見送った幼馴染の田中幸太郎は「彼は心から嬉しさうであつた。おだやかに冴えた顏をしてゐた」と記す。船中にあってその田中への遺書及び「女性関係で死ぬのではない。謂はゞ文学者としての終りを完うせんがために死ぬやうなものだ」等と記した内縁の妻であった生田花世宛の遺書、そうして先に掲げた絶筆「海図」を書き上げて入水。

このやや歯ごたえの悪い遺書の意味を、上記書籍の年譜を参考に少し説明しておく。春月は大正3(1914)年22歳の時、雑誌「青鞜」の同人であった長曽我部菊子(本名・西崎花世)が寄せた感想文「恋愛及び生活難について」の内容に感激、彼女と共同生活を始めたが、大正五(1916)年には森田草平門下の山田田鶴子と、死の前年、37歳であった昭和三(1928)年には、自らが主宰していた雑誌「文藝通報」の投稿者であった内山恵美及び伴淡路との恋愛に陥っていた。春月は性格の不一致を示した花世との関係について、「空想的人道主義」であったと晩年、自嘲的に述べている。

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