蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜
蒼白 芥川多加志
雨滴
今は眞夜中
(時計の音に混つて……)
握りしめたおまへの手を開いてごらん
その力なく慄へてゐる血塗れの哀れなものは何
もしそれがわたしの胸から奪ひとつたものでないとしたら……
今、おまへの手から逃れたわたしは
星々の間をあてどなく彷徨ふことができる
この暗闇を
わたしは旅する
わたしは立止り
また歩き出し
そして耳を傾ける、何ものかの歌に
意味のない歌
意味のない歌……
雨滴の音
夜半を過ぎて。
十七年二月
*
注:冒頭の「雨滴」には「あまだれ」のルビがつく。
この詩は、芥川多加志が、その同人であった暁星中学卒業生による回覧雑誌「星座」の昭和17(1942)年4月20日発行の第2号に発表したものである。
底本は2007年6月30日刊の天満ふさこ『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』を用いた。そうすることが正しいかどうかは不明ながら、正字に直し得る部分は正字とした。
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芥川多加志(1922-1945)
大正11(1922)年11月8日、芥川龍之介・文の次男として東京府北豊島郡瀧野川町字田端に出生。
命名は画家にして龍之介の盟友、小穴隆一の「隆」を訓読みしたものである。
龍之介は良く知られる彼自身の小穴による肖像「白衣」(二科展出品)を、この丁度二ヶ月前の9月8日の二科展招待日に小穴と一緒に鑑賞に赴いている。しかし、その小穴には不幸が訪れる。多加志誕生から19日後の11月27日、小穴の右足に脱疽の診断が下る。12月2日に右足第四指を切断するも手遅れで、翌大正12(1923)年1月4日に、右足首から下を切断した。この2度の手術に龍之介は立ち会っている。御存知のように、小穴は龍之介が遺書で遺児たちに、父と思えと、命じた人物である。しかし、文も遺児達も皆、龍之介の死後に彼からは縁遠くなってゆく。
著作関連では、多加志誕生の5日後の11月13日に未完の単独作品「邪宗門」が刊行され、翌年の1月1日の「文藝春秋」に「侏儒の言葉」の最初の発表がなされる。
昭和2(1927)年7月24日の龍之介自死の際は4歳、聖学院附属幼稚園入園の3箇月後であった。鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(河出書房新社1992年刊)の自死前日の下りから引く。7月23日の『昼食は夫人や三児と楽しく談笑しながらとり、多加志が食卓を蹴ったので龍之介は多加志にお灸をすえた。』――死を美事に決していた龍之介に灸をすえられた多加志――私にはそこに龍之介の多加志への愛を見る。
たとえばこれを、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)で頗る臨場感のある印章的暗示的な場面として描いている(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのであるが)。
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昼飯の卓袱台で、比呂志が父の龍之介に描いてもらった絵を多加志に見せびらかし、多加志が父に今直ぐに僕にも描いてと駄々を捏ね、卓袱台の足を蹴る。その罰として灸のシーンとなるのである。おびえる多加志に心の中で語りかける。
『よくないことをしたら心が熱くなる。その熱さと痛みをおまえが忘れないように、お父さんはおまえにお灸をすえるのだ』。
しかし、多加志に足の小指に灸をすえた直後、多加志が
「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」
と泣き叫ぶと、それを心配そうに見ていた伯母フキが
「似ているねえ。同じことを言っているよ」
と言う。
『ふと龍之介は自分が幼い多加志になったような錯覚を抱いた。』
そうして、
『灸の熱が多加志のあしの小指の皮膚につたわる寸前で、龍之介はもぐさを手でつまみあげた。手を焼く熱の痛みが胸に痛いほどに感じられて、龍之介は涙をこぼしそうになった。』
とあって、陽気な団欒の昼御飯となる。その後、龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた。』
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆくのである――
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ちなみに、この「スマトラの忘れな草」は龍之介の「沼」に登場する――
昭和4(1929)年、豊島師範学校附属小学校入学。
昭和10(1935)年、私立暁星中学校入学。
昭和15(1940)年、東京外国語高等学校(現在の東京外語大)仏語部文科入学するも、重度の肋膜炎で一年余、休学。
昭和18(1943)年11月28日、出征。陸軍朝鮮第二十二部隊入営。
昭和19(1944)年6月29日、ビルマ戦線起死回生の投入のための陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士として朝鮮を出発。
昭和20(1945)年4月13日、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死。僅か満23歳であった。
戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――
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以上は先に掲げた天満ふさこ及び文中の鷺只雄・小沢章友らの著作を参考にして、僕が自由に作成したものである。芥川多加志が参加し、天満女史が遂に探しえなかった幾つかの回覧雑誌「星座」が何処よりか見出されんことを祈る。芥川多加志の魂が、時を得て、また蝶となって飛びたつために……