流水歌 生田春月を弔ふ 佐藤春夫
流水歌
生田春月を弔ふ 佐藤春夫
君とわれとは過ぎし日の
歌と酒との友なりき
眉わかくしてもろともに
十年(ととせ)かはらぬ朝夕を
われらは何を語りしか
高ゆく風となる太息(といき)
虹まどかなるよき願ひ
幸ひ住めるをとめの瞳(め)
ひろき愛はた世の戰(いくさ)。
醉ひての後(のち)の歌ぐさを
さめて互(かた)みに示しつつ
ともにはげます身なりしが
人に驕れるわが性(さが)は
君が怒りを得にけらし
われ人づてに聞きけるは
君はわが身を憎めりと
君がこころをはかりかね
君よりわれは遠のきつ。
かくて十年(ととせ)はまた過ぎぬ
眠りなき夜のをりふしに
生き來(こ)し方(かた)を見かへれば
少年の友よき寶
またと有るべきものならじ
よき折あらば手をとりて
杯(さかづき)くまん日もがなと
思ふねがひはあだにして
君 今は世にあらざるか。
歌うづ高く世にのこし
むくろは水にゆだねつつ
騷愁(さうしう)の人いまは亡(な)し
ああ若き日の友は亡(な)し
愛も憎みもすて去りし
佛(ほとけ)の前に額(ぬか)づけば
七情(しちじやう)の巣のうつそ身の
わが眼や水は流れけり
君を葬(はふ)りしその水は。
*
友のメールより孫引き。
*
佐藤春夫と生田春月について、昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の年譜を参考にしながら少し述べておく。明治42(1909)年11月、再度、文学者を目指して上京、一時、同郷の評論家生田長江(春月は前年の11月に彼の書生となったが、作品が長江の評価を得られず、失意の内に6月に帰郷していた)の家に身を寄せたが、その際、そこに同宿していた佐藤春夫と相知ることなった。
この「流水歌」で、佐藤春夫は「君が怒りを得にけらし」と歌うが、実際には年譜上から見ると、大正10(1921)年に春月が新潮社から出版した自伝的長編小説「相寄る魂」の中で、佐藤春夫がモデルとなった西尾宏なる人物の描き方に春夫が憤慨し(僕は本作を読んでいないので、憤慨したのだろうという推測であるが)、絶交状を送ったというのが事実のようである。
死の年、昭和5(1930)年4月15日、舟木邦之助(未詳)なる人物が絶交状態にあった佐藤春夫との和解の労をとるべく来訪し、春月は承知の旨を答えたとする。しかし、一月後、春月の入水によって、和解の実現は水の泡と消えたのであった。