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芥川龍之介「機關車を見ながら」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
年度末最後に相応しいものということで、芥川龍之介の最晩年の作品をアップした。予め用意しておいて、幾つかの字注・語注も附しておいたのであるが、出来上がったものを見ると如何にも目障りであるので、すべてカットした。
幾つかの新しい写真を紹介するために左コンテンツのマイフォトに“SCULPTING IN TIME”を創った。まずは手元の本年3月に訪ねた京都の摘草料理美山荘の母屋(食事部屋として用いられている古民家)の写真を並べる。
実はタスマニアの帰りの航空便で、スーツケースがロストしたのだが、まさにこれを打ち込んでいる今、成田空港よりメルボルンにて発見到着輸送謝罪の段、東西、とーざい……
帰国が28日ではなく30日であったという大間違いも、旅立ったその日の飛行機の中で知ったという体たらく。その程度に「タスマニアあなたまかせの年の暮」という訳。ご心配頂いた方には、済まないことをした。而して不相変の左の耳鳴りがド派手になったのは致し方ない。
しかし、一言、タスマニアは、いい!
また、近いうちにお話致そう。
暫く、お暇する。明日早朝、タスマニアへ向う。(訂正:夕刻だとさっき知った。僕はその程度に、「何も知らない」と知るべし。面白いだろ? それが、俺の選んだ人生なんだから仕方がないさ……。行きたくていくんだろって? だったらこんなブログは書かないね。タスマニアン・デビルには逢いたいが、耳を悪くしてまでとは、流石に思わねえだけさ。:12月22日10時追記)
耳鳴りは不相変、激しい。主治医からは航空機の下降時には危ないかもしれないと言われているが(しかし何がどうなるかは予想できないというのだ。面白いねえ)、しかし、南の果てに行って、このまま生涯書痴の紙魚になり下がるにしても、相応に諦めもつこうというものだ。バタバタだった書斎も、今、片付け終わった(妻に珍しく「ひどい」と言われたから、やった。確かにいやだった。腕を折って以来のひどい荒れ方だ――言っておく。私は整理整頓では誰より――誰よりってのは君よりということだ――それほど僕は厳密でなくてはいやなのだよ――どれほどか? では、君は一枚の手紙が自分の書斎の何処に有るか、離れた所で誰かに言えるか? ボクハイエルンダ。アノ引出ノ上カラ何枚目カッテ。同様にどの本が何列目の左から何番目にあるかも言えるのだ。それは一種の図書館司書的神経症なのだ……信じられないかもしれない。けれど、そうでないと「いや」なんだよ。)――今夕、久し振りに整頓された書棚を眺めながら、アリスと散歩をし、「和漢三才図会」の「鱵」(サヨリ)ぐらいはアップして、出て行こう。では、随分、御機嫌よう。
僕らが求めることは生半可な議論による幻想の相互理解ではない
議論をしない輩に対する覚悟は、ある「差し違え」である
闘争の果てにあるのは不毛な「事実」であるというのは、単純な「自然な事実」である
しかしお目出度く互いを誤魔化して自慰行為の只中にいる「事実と称する現象(薔薇色の現実と見えるもの)」は
「事実」の語を冠するに及ばない下劣極まりない「偽」でしかない
それは確かに「偽」である
さすれば
それは
決して「存在しない」ということである
その消去のための「差し違え」は 従って
幻想であって なす必要は ない――
君は 死ぬ必要がない――
僕は神も仏も信じていない
自身も信じられない自分が「誰を」信じろというのか
キリストも阿弥陀も所詮は僕という「おぞましい存在」の内在的な倫理観の陳腐な規制的措定の比喩以外の何ものでもない
僕が世界史や日本史で阿弥陀やキリストを習わなければ
僕は彼等の名を知ることもなかったのだ
しかし
畏怖すべき自然はア・プリオリに僕等の前に「在る」
僕には絶対の安息の地を約束する似非預言者も
全ての生き物を救うなどという下劣な大それた誓願をする奢った輩も信ずるに足りない
僕らに「たかが」みじめな「されど」みじめな「自身」を信ずる以外に何があると言うのか
僕らはみじめなるが故に確かに自身で在り得る
もののあはれも知らぬ超越者であることなど
反吐の出る以外の存在である他に
何が
ある
主よ、世界が精神の誤謬であるように、あなたは心の誤謬にすぎないのではないか。
(シオラン「涙と聖者」金井裕訳)
岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「詩」のパートに所収するもので、既にテクスト化した新旧岩波版全集の「詩歌」のパートのどちらにも所収しない詩を十五篇を採録した。これらは恐らく新旧全集の書簡及びノート類のパートに存在するものと思われるが、現在、それを精査する時間がない。
しかし、これを以ってとりあえずの「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の体裁は整ったと考えている。即ち、纏まった形でのネット上での「芥川龍之介詩集」としては「やぶちゃん版」と冠してもとりあえず恥ずかしくないオリジナリティと量、そして、とりあえず詩としては芥川龍之介研究で認識されているものを確保できたという点で、「整った」と言わせてもらおうということである。
「全詩集」を名打つには、これから全作品中の詩(例えば「詩集」の中の「夢見つつ」の詩)及び「書簡」と「ノート」の総覧が必要だし、佐藤春夫の「澄江堂遺珠」という素晴らしい仕事をこれにどう取り込むかも考えなくてはならない。暫くは現在の状態で、安定させておこうと思う。
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」に未定詩稿二十数篇を追加した。新全集由来であるが、正字で表示した。但し、「芥川龍之介未定稿集」という校合できる材料があるので、ほぼ原形と違わない形で再現することが出来た。
快食快眠快便は人生の根幹である――
昨日の朝、珍しく、トイレに行かなかった。
[やぶちゃん注:誠に珍しい。私は神経がすぐ腸にいく性(たち)で、普通は朝二度も(!)便通がある。]
「さうして」……
[やぶちゃん注:まさに歴史的仮名遣い風にそれは始まる……]
行きがけに、定期入れを探ると……「ない」――慌てて家に戻って、通例置いているレコード・プレーヤーの上、昨日着ていた服やズボンやジャンパーのポケット、昨日テクスト作業した書斎……全てを探した――が、「ない」。……一度入れたザックの中の弁当から本から家の鍵から全部出して見たが、「ない」。同じところを何度も探して、タイムリミットになり、職場に向う。職場に遅刻しそう――実際、10分遅刻してしまった(昔のお休みと遅刻ばかりしていた僕を知っている人のために言っておくが、僕は結婚してから17年、職場に遅刻したのは十数回もない)。……胃が痛くなる。JRの定期、クレジット・カードが二枚、車の免許を持たない僕の唯一の証明書たる教育公務員の身分証明書、バスカードを始めとしたもろもろのカードが十数枚、妻の携帯番号を記したメモ……通勤の車両の中で――考える――考える――昨日バスに乗って帰っているから最後にバスカードを出しているのでそれをしまった定期入れはバスを下車した時まではあったのだから家までの数十メーターで落とした可能性があるが一緒に中華を食いに行った妻も横におり紹興酒を飲んだもののそれほど酔っておらずそもそもその家までの数十メートルの歩行を記憶しており落としたとは考えられず――ではテクスト作業の折か?――そういえば数冊の本と資料を書斎に持って行くためにいつも定期入れを置くレコード・プレーヤーの上に一緒にうず高く積み上げたものを今夜書斎に全部挙げてよいかどうかにやや躊躇したのを思い出した――そうだ! その中に定期入れは入っていたのだ! だとすると――「和漢三才圖會」の三種の追加をしてその三枚の絵をスキャンにかけた――そうだ! その前にスキャンのカバーの上に、書斎に運んでしまったその積み上げた本や資料の中に挟まっていた定期入れ、あのワイン・レッドの定期入れを、置いた記憶が蘇ったのだった! 三枚の絵をスキャンにかける――カバーを上げる――そこだ! 99%、スキャンの装置の後ろに定期入れは落ちている!――
――昨夜。帰宅後。登山用のLEDライトを片手に意気揚々、書斎に入る。机上のスキャンの装置の後ろを見る。――が――「ない」。真後ろにあった25年前に使っていた埃まみれの皮のアタッシェ・ケースをどけてみるも――「ない」。その左隣りの塵がうず高く溜まった吉川弘文館の「江戸随筆大成」の上にも――「ない」。右隣りのDVDの黒澤の「七人の侍」やキューブリックの「2001年宇宙の旅」を覗かせている紙袋の中にも――「ない」。書斎に運び上げた詩歌を所収した岩波の新全集「芥川龍之介全集」の下にも上にも下にも――「ない」。このところ通勤途上で読んでいた河出書房新社の「怪異の民俗学6 幽霊」の上にも下にも――「ない」。このところ繰り返し開いた結果ぼろぼろになった平凡社「和漢三才圖會」の魚類の巻と国会図書館からダウンロードした「和漢三才圖會」の資料の上にも下にも――「ない」。「プルートゥ」5の上にも下にも――「ない」……『カード、止めないと!』という妻の声を背に聞きながら、僕はやけのやんぱちで自分の蒲団に潜ったのであった……僕が所詮、ホームズではなくワトソンであったことを痛感しながら……
……そうして……夢の中で、僕は「ネジ式」よろしく「僕は定期入れをテッテ的に探さねばならないのである……」と独り言を言いながら、何故か古い大きな民家の暗い居間で「おさかなかるた」を独りでしているのだった……そうして、つげのあの絵そのままに、闇が僕の足を摑むのだった……
……今朝のことである。起きた僕はめめしくもまた、何もない書斎の机の背後を確認し、鬱勃ならぬ鬱々としながら、催してきた便意をうらめしく思いながら、みじめな気持ちでトイレに入った――左手の壁に付いているトイレット・ペーパーやら芳香剤やらトイレ洗剤を収納しているスリムな棚の上に
――ワイン・レッドの定期入れが
――立ててあった
――そうだ! OCRの上に置いた定期入れを、画像読み取りをさせている最中、紹興酒の御蔭で珍しく夜の小便にたった折(僕は夜に小便に起きることも夜の小便に行くことも全くといって「ない」性である)、一階の居間の定位置に持って行こうとして、ついトイレまで持ち込んでしまい、「そこに」置いたのであった――
――僕がトイレの中で糞をひりながら独り大爆笑をしたのは、言うまでも――「ない」。而して脳髄に浮かんだ一言は……
……教員になりたての頃、大好きだった同僚の沖繩出身の体育教師のおじさん、仲宗根先生の言葉……「快食快眠快便!」
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」は、まるでそのつもりはなかったが、今日、通勤車内で理不尽にOLの安香水と白粉に吐気を催しながら、不条理に肉を揉まれながら、死んでも新全集を離しませんでした風に無節操に読み耽った結果――「そのつもり」になってきた。新全集の新採録詩は勿論、「澄江堂遺珠」も、『やってやろうじゃあねえか! 俺風に、な!』という全く対象のないパトスが、鬱勃と芽生えてきたぜ、この野郎め! 「やぶちゃん版」の「全詩集」に限りなく近づけてやろうじゃあないの! ペッ!
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」に「未定詩稿」を追加した。
芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・評論・随筆篇」に公開した。テクスト化し忘れていた晩年の残りのアフォリズムといってよいか。「芥川龍之介詩集」との絡みもあるのでテクスト化したが、本文よりも龍之介の旅程の方が面白かった.久し振りに全文タイピングをした。
1時半に目覚めてしまう。だのに、僕にはすることがない――
芥川龍之介「或阿呆の一生」を再校訂・補正し、注を追記した。表記の数箇所の誤植(これはOCRのない時代に完全にタイプしたもの)及び煩わしいルビの一部を削除し、多少の補注を附した。
実際には、全てに亙って本格的な注を附したい欲求にかられたが、それをやると僕が「敗北」しそうで、今回は踏み止まった。「或阿呆の一生」の補注とは、文字通り、『定本 芥川龍之介最終総論』とならざるを得ないからである。
誰かにかれを紹介すると、彼は顔をそむけ、手を後ろから差し伸べ、だんだん縮こまり、脚をくねらせ、そして、壁をひっかく。
そこで、人が彼に、
「キスしてくれないのかい、にんじん?」
と頼みでもすると、彼は答える――
「なに、それにゃ及ばないよ」
(岸田国士訳ジュール・ルナール「にんじん」より「にんじんのアルバム 五」。但し、「キスしてくれないのかい、にんじん?」の「?」は僕の挿入。)
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を「心朽窩 新館」に公開した。
芥川多加志の詩を載せておいて、父龍之介の詩がないのは、如何にも寂しいではないか。
そうして――さいごの注をご覧あれ。ここには、あの多加志が、確かにいるじゃあ、ないか!?
僕はちょっとだけ「僕」らしく生きてみたいと思ってみたことがあるのだが「僕らしい僕」とは「僕」でないことを知っただけだった――1976/7の僕への私信
*
あの店先で
年とった自分と
彼女が佇んでいる
情景が
色褪せた
古い記念写真を
見るように
思い出されて
ならないのだ
(つげ義春「やなぎや主人」より)
わかれを云ひて幌をろす白いゆびさき 尾崎放哉
耳鳴りの海 蒲生貴弘
みみなりのうみでおぼれたら、すべてをわすれてしまったよ。
いやなことなんてすべてわすれた。
いいことなんて、なかったよ。
みみなりのうみにしずんでく。
さよならをいうあいてがいない。
さよならってつぶやいて、だれにもきいてもらえなくて、ただ、しずむ。
みみなりのうみ、ざつおんのかいすい。さよならをいうあいてもいない。
ただ、しずむ。
*
教え子より。僕の好みをよく捉えた絶品だ。ちなみに、彼女はちゃんと、この詩をくれる前に、僕の耳鳴りを労わるメールを送っている。皮肉ではないのだ。お間違えのないように。
寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」に、本日、着手した。意志脆弱な僕が、ここまで来れたことが、実は、不思議だ。
先ほど帰宅して開いたブログが、現在80013アクセス。1日当たりの平均141.62。本日の午後8時の最後のアクセス者、「さっきのあなた」、をもって80000アクセス(但し、2006年5月18日のニフティのアクセス解析開始以来)。感謝。毎日平均50人以上の検索アクセスで、沢山の未知の方が僕のそばを通り過ぎて行く。僕自身には恩幸これに過ぎたるはない、何かが、あなたの琴線に触れれば。しかし触れずに失望されて去ろうとするあなたにも……たとえば
「アボガドロ キモい手首」
「粉砕骨折 創外固定」
「おや、量子力学だ」
「ずっと待ってるぜ 午前3時」
「小説家 or 芸術家 統合失調症」
『全身を「包帯」「石膏」等で、拘束されている異性に興味』
「バルンガなのかもしれません」
「シモンハルビック 優しいひととき」
「卒論 謝辞 見苦しい」
「五月野さつきクラスの動物園 感想」
「死した人間の魂が向う、己が価値を審判されるために存在する次元の略称」
といった検索フレーズでやってきたあなた(以上はこの4箇月の間の僕のブログの1アクセスの検索フレーズから興味深い一部を引用)――、どうです? もう少し、覗いて見ては? と不遜にも囁きたいのです……きっとそんなフレーズで来るあなたにとっては、少し面白いワン・シーンが、きっとここや僕のHPのどこかには……あると思うのです――
本日、何人かの方からメールを頂きました。僕の耳鳴りを労わっての励ましや、僕の電子テクストや古い写真への御感想や、親鸞の言葉への思い等、有難く思いました。ただ少々、この耳鳴りは想像を絶し、今日も一日、アリスの散歩にも出る気も起こらず、ひたすら「和漢三才図会」のテクスト化に気を散らす以外にはない有様で、個々のメールへお答えの気力が全くありません。この場を借りて、感謝致します。まずは御礼まで。
「※1」[※1=「舟」+「鮝」](オニヤラミ?/オニオコゼ)及び「鱖」(ケツギョ/カサゴ)を追加して、寺島良安「和漢三才圖會 巻第四十八 魚類 河湖有鱗魚」を完結した(目次にはこれから着手する)。
*
耳鳴りになづむは貝の耳耳(ばか)り