快食快眠快便!
快食快眠快便は人生の根幹である――
昨日の朝、珍しく、トイレに行かなかった。
[やぶちゃん注:誠に珍しい。私は神経がすぐ腸にいく性(たち)で、普通は朝二度も(!)便通がある。]
「さうして」……
[やぶちゃん注:まさに歴史的仮名遣い風にそれは始まる……]
行きがけに、定期入れを探ると……「ない」――慌てて家に戻って、通例置いているレコード・プレーヤーの上、昨日着ていた服やズボンやジャンパーのポケット、昨日テクスト作業した書斎……全てを探した――が、「ない」。……一度入れたザックの中の弁当から本から家の鍵から全部出して見たが、「ない」。同じところを何度も探して、タイムリミットになり、職場に向う。職場に遅刻しそう――実際、10分遅刻してしまった(昔のお休みと遅刻ばかりしていた僕を知っている人のために言っておくが、僕は結婚してから17年、職場に遅刻したのは十数回もない)。……胃が痛くなる。JRの定期、クレジット・カードが二枚、車の免許を持たない僕の唯一の証明書たる教育公務員の身分証明書、バスカードを始めとしたもろもろのカードが十数枚、妻の携帯番号を記したメモ……通勤の車両の中で――考える――考える――昨日バスに乗って帰っているから最後にバスカードを出しているのでそれをしまった定期入れはバスを下車した時まではあったのだから家までの数十メーターで落とした可能性があるが一緒に中華を食いに行った妻も横におり紹興酒を飲んだもののそれほど酔っておらずそもそもその家までの数十メートルの歩行を記憶しており落としたとは考えられず――ではテクスト作業の折か?――そういえば数冊の本と資料を書斎に持って行くためにいつも定期入れを置くレコード・プレーヤーの上に一緒にうず高く積み上げたものを今夜書斎に全部挙げてよいかどうかにやや躊躇したのを思い出した――そうだ! その中に定期入れは入っていたのだ! だとすると――「和漢三才圖會」の三種の追加をしてその三枚の絵をスキャンにかけた――そうだ! その前にスキャンのカバーの上に、書斎に運んでしまったその積み上げた本や資料の中に挟まっていた定期入れ、あのワイン・レッドの定期入れを、置いた記憶が蘇ったのだった! 三枚の絵をスキャンにかける――カバーを上げる――そこだ! 99%、スキャンの装置の後ろに定期入れは落ちている!――
――昨夜。帰宅後。登山用のLEDライトを片手に意気揚々、書斎に入る。机上のスキャンの装置の後ろを見る。――が――「ない」。真後ろにあった25年前に使っていた埃まみれの皮のアタッシェ・ケースをどけてみるも――「ない」。その左隣りの塵がうず高く溜まった吉川弘文館の「江戸随筆大成」の上にも――「ない」。右隣りのDVDの黒澤の「七人の侍」やキューブリックの「2001年宇宙の旅」を覗かせている紙袋の中にも――「ない」。書斎に運び上げた詩歌を所収した岩波の新全集「芥川龍之介全集」の下にも上にも下にも――「ない」。このところ通勤途上で読んでいた河出書房新社の「怪異の民俗学6 幽霊」の上にも下にも――「ない」。このところ繰り返し開いた結果ぼろぼろになった平凡社「和漢三才圖會」の魚類の巻と国会図書館からダウンロードした「和漢三才圖會」の資料の上にも下にも――「ない」。「プルートゥ」5の上にも下にも――「ない」……『カード、止めないと!』という妻の声を背に聞きながら、僕はやけのやんぱちで自分の蒲団に潜ったのであった……僕が所詮、ホームズではなくワトソンであったことを痛感しながら……
……そうして……夢の中で、僕は「ネジ式」よろしく「僕は定期入れをテッテ的に探さねばならないのである……」と独り言を言いながら、何故か古い大きな民家の暗い居間で「おさかなかるた」を独りでしているのだった……そうして、つげのあの絵そのままに、闇が僕の足を摑むのだった……
……今朝のことである。起きた僕はめめしくもまた、何もない書斎の机の背後を確認し、鬱勃ならぬ鬱々としながら、催してきた便意をうらめしく思いながら、みじめな気持ちでトイレに入った――左手の壁に付いているトイレット・ペーパーやら芳香剤やらトイレ洗剤を収納しているスリムな棚の上に
――ワイン・レッドの定期入れが
――立ててあった
――そうだ! OCRの上に置いた定期入れを、画像読み取りをさせている最中、紹興酒の御蔭で珍しく夜の小便にたった折(僕は夜に小便に起きることも夜の小便に行くことも全くといって「ない」性である)、一階の居間の定位置に持って行こうとして、ついトイレまで持ち込んでしまい、「そこに」置いたのであった――
――僕がトイレの中で糞をひりながら独り大爆笑をしたのは、言うまでも――「ない」。而して脳髄に浮かんだ一言は……
……教員になりたての頃、大好きだった同僚の沖繩出身の体育教師のおじさん、仲宗根先生の言葉……「快食快眠快便!」