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2008/01/31

90000アクセス

本日午後6時代の訪問者で、2006年5月18日のニフティのアクセス解析開始以来90000アクセスを超えた。僕を忘れずにいてくれる人へ、また検索での訪問の方へ(ここのところ、賀状効果や卒業間近の教え子への紹介もあるのか、一日200アクセス近く、更に「鬼火 やぶちゃん」「鬼火 日々の迷走」以外の日々50人以上は、別なワード検索で訪れた確実に見知らぬ人)、心より感謝致します。今回は本年1月1日から30日までの一ヶ月のアクセス滞在時間ランキングを(1人当たりの平均滞在時間だけど、当然、どうみたって表示しっぱなしでどっかへ行ってた人もいるんだろうあって思うけどね)。でも、これって結構、みんな「健全な」(失礼!)人々が訪ねてくれているって、気がするんだな。そうしてそれぞれに、どれも書いてよかったんだなって気がする――これからも、立ち止まって、ちょっと見てくれると、僕は嬉しいな――では、心を込めて、ありがとう!

累計アクセス数 : 90020
1日当たりの平均: 144.26

1  Blog鬼火~日々の迷走: 月光日光 伊良子清白  3時間22分29秒 23.1%
2  Blog鬼火~日々の迷走: KURO アフリカの月   1時間31分17秒 10.4%
3  Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介 袈裟と盛遠 附「源平盛衰記」原典  1時間02分48秒 7.2%
4  Blog鬼火~日々の迷走: 松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実  45分23秒 5.2%
5  Blog鬼火~日々の迷走: 新垣勉 千の風になって  28分34秒 3.3%
6  Blog鬼火~日々の迷走: 宮澤トシについての忌々しき誤謬  23分11秒 2.6%
7  Blog鬼火~日々の迷走: The Picture of Dorian Gray  15分56秒 1.8%
8  Blog鬼火~日々の迷走: 胡同のひまわり   15分38秒 1.8%
9  Blog鬼火~日々の迷走: 寺島良安 和漢三才圖會 巻第四十九 魚類 江海有鱗魚 墨頭魚(Garra lamta)及び佐伊羅魚(サンマ)  14分47秒 1.7%
10 Blog鬼火~日々の迷走: 厄日 石灰沈着性腱板炎  14分24秒 1.6%
11 Blog鬼火~日々の迷走: ノース2号論ノート2 作品構造分析(完全版)  12分02秒 1.4%
12 Blog鬼火~日々の迷走: 博物学  9分53秒 1.1%
13 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介 トロツコ  9分52秒 1.1%
14 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介 三つのなぜ  9分48秒 1.1%
15 Blog鬼火~日々の迷走: 崖   石垣りん  9分39秒 1.1%
16 Blog鬼火~日々の迷走: 尾崎放哉 鉦たたき  8分47秒 1.0%
17 Blog鬼火~日々の迷走: トップページ  8分12秒 0.9%
18 Blog鬼火~日々の迷走: 國木田獨歩 武藏野 又は 鉄腕アトム 赤いネコ  8分01秒 0.9%
18 Blog鬼火~日々の迷走: ふぐの卵巣の糠漬  8分01秒 0.9%
20 Blog鬼火~日々の迷走: 2005年08月第6週  7分20秒 0.8%
21 Blog鬼火~日々の迷走: アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ  7分04秒 0.8%
22 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川多加志  7分01秒 0.8%
23 Blog鬼火~日々の迷走: 片山廣子 L氏殺人事件  7分00秒 0.8%
24 Blog鬼火~日々の迷走: 肉体と心そして死  6分35秒 0.8%
25 Blog鬼火~日々の迷走: 驚異終生交尾のフタゴムシ(「和漢三才圖會」注記訂正)  5分45秒 0.7%
26 Blog鬼火~日々の迷走: 寺島良安 和漢三才圖會 巻第四十八 魚類 河湖有鱗魚 鯇(ビワマス)/波須(ハス)  5分32秒 0.6%
27 Blog鬼火~日々の迷走: 一葉の墓 泉鏡花  5分25秒 0.6%
28 Blog鬼火~日々の迷走: 地図記号クイズ  5分17秒 0.6%
29 Blog鬼火~日々の迷走: 北の海 中原中也  4分40秒 0.5%
30 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介の出生の秘密  3分52秒 0.4%
30 Blog鬼火~日々の迷走: 芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察  3分52秒

2008/01/29

砂漠に埋れゆく忘れられた町 Kolmanskop

ミクシイの記事で初めて感動した。この写真!――ナミビアの砂漠に埋れゆく町――

砂漠に埋もれたゴーストタウン「Kolmanskop(コルマンスコップ)」

(なお、上のリンクはミクシイに参加されていない方は閲覧出来ないので、悪しからず。でも以下の英文サイト

http://fogonazos.blogspot.com/2008/01/kolmanskop-ghost-town-buried-in-sand.html

http://xenmate.blogspot.com/2008/01/namibia-sand-houses.html

http://www.encounter.co.za/article/87.html

で見れるよ!)

「僕」注記

1月25日のブログ――あの僕の子供時代の写真をアップした――に注記を加えた。一読されたい。

地図記号クイズ

少し疲れた。疲れたら地図がいい。

僕は高校三年間、地理を学んだ。2年生の時、演劇部の顧問の世界史の先生が、僕の芝居の演出をしながら、「藪野君、世界史を選択しないと一生後悔しますよ。地理学なんて歴史の補助学に過ぎない。公害を予測できなかった地理学は学問として二流なんだ」と言い放つのに、『じゃあ何で公害を予測し得たという(今も僕は予測なんかしてないと思うけど)歴史学は何で公害を未然に防げなかったんだ?』という素朴な反発から(他のキャストには辛辣なダメ出しをする彼は僕には殆んどダメ出しをしなかったから僕の技量を認めてくれていた点では大変有難く思っているのだが)、きっちり好きな地理と政治・経済を選んだ。だから今も僕は地図を見るのが大好きだ。草の根の活動をして志半ばにマラリアで仆れた亡き畏友永野広務からもらった南北逆転のオーストリアの世界地図は今も僕の宝物だ……

……僕の書棚にあってもう10年程前に読んだのだが、今回読み直してなんて面白いんだろうと思いながら、その殆んどが少しも記憶にないなんて、僕の脳も萎縮を始めたかとゾッとしたのが、小学館ライブラリーの堀淳一「地図のワンダーランド」(1998年刊行)。

疲れたから(でも遂に「和漢三才圖會」の巻第四十九の本文翻刻は終わっている。後は注のみ。怠けている訳では決してない)、今日は該当書の中の地理記号からのクイズでお楽しみ頂こう。勿論、僕が出すんだから、すぐに分かるような生易しいもんじゃあ、ないぜ。地理選択の教え子諸君、調べずにすべてを当てたら、僕は潔く脱帽する。画像は、当初、ペイントでオリジナルに描こうと思ったが、「疲れている」ので、確信犯で当該書からOCRで読み込んだ。勿論、当該書の奥付は一部複製を禁じているが、正解は当該書をお読みになって……と振れば、堀先生も文句は言うまい。そもそもこれらの記号は地図上の記号であって、その単独の画像読み取りは文化庁の著作権上の犯罪には、当たらないというのが僕の結論である(厳密には地図上でない部分の画像は堀氏の記号描画であるとは思うけれど、これに著作権を求めるのはどう考えても無理がある。それでも異論があれば、オリジナルのに描画しなおすだけのことさ。智の伝達と著作権は所詮相反するものだと知るべし!)。

ヒントを附した。挑戦あれ! 僕への個人メールかミクシイのメッセージによる解答者にのみ、正解をお伝えする

問1 1

マダガスカル沿岸部の地図にびっしりとある……美事な象形!……

問22

スイスの地図記号。ここには誰も登りたくない……言っとくけど日本の名所じゃあないよ! 日本にあれば確かに名所旧跡にはなって、この記号が打たれるんだろうけど……さすがにこれはないな……でもスイスでも今も現役の設備じゃあ……まさか、ないよね?……

問33

底本挿絵のブタペストの地図からそのまま抜き出したのでぼけぼけのアダムスキイ型空飛ぶ円盤の写真みたようになっちゃったけど……○が二つ重なってるのがミソ。日本では単独のこのような「役所」は、ない……

問44

これでも昔の日本の古い地図記号なんだぞう! 錬金術記号由来、♀と同じ、だよ~ん!……

 おまけ:問55

同じ日本の古い地図記号から、♀の反対だあ! ほれ、♂だがね!……

2008/01/27

片山廣子 その他もろもろ(初出復元版)

片山廣子「その他もろもろ」(初出復元版)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。僕は松村みね子(どうも片山廣子という名は僕にはしっくりこない)の作品をある種の思い入れなしに読めなくなっている。以下は、例によって、勝手な感想である。

第一の視点。

「そして一世に名をうたはれたその美しい人がどんなに疲れやつれて、どんな姿で旅をしたらうなどと考へてみた。亂れた髮を長く垂らし灰色のきものを着て杖をついてゐる小町のさすらひの姿は、何かの畫でも見てゐるけれど、お面のやうな端麗な顏の女性が杖をもつて野原を歩いてゆく時、彼女は何か小さい荷物を持つてゐたかしら、などと考へてみた。」

僕には、「亂れた髮を長く垂らし灰色のきものを着て杖をついてゐる」みね子が、ふと手元の旅の「小さい荷物」に目を落とす様が、見える――

「小さい荷物もあるかなしに枯野をあるく昔の女とは違つて、私たちの毎日には何かしら好い香り、うつくしい色け、豐かな味、そんなものの少しつつでも與へられる時代となつた。それは「暮しの手帖」に書き入れられるもろもろの好い物であると言つてもよろしい。衣食足つてと言つた昔の人のゆめにも知らない今日のわれわれの生活はとぼしく裸であるけれど、その中にも出來るだけの知慧をしぼつて、夢と現實とを入れまぜたもろもろの好い物を見出してゆきたい。」

と薔薇色のロマンを夢見るように、一見、ポジティヴに語りを閉じるみね子――しかし、僕は何処かでみね子が、芥川龍之介亡き後、ロマンの老いを感じながら「小さい荷物もあるかなしに枯野をあるく昔の女」となっているという意識を持っていはしないだろうか、持っていたに違いないと、思うのである――

第二の視点。

末尾の削除。それは、単行本化には掲載雑誌の題名への少し辛口な物謂いというのが相応しくなかったからとも言えるのだろう(ちなみに本誌は後に「暮らしの手帖」と改題するが、古書店の在庫リストを見ると「美しい」は昭和29年の当該誌でも用いているので誌名の変更による不要削除の可能性はない)。しかし、僕は、この単行本出版の3年後の昭和31(1956)年の「経済白書」が、かの有名な「もはや戦後ではない」という言葉を用いたのを思い出すのだ。

「美しい暮し」というところまで行きつくのには、まだ途は遠いのであらうかと思はれる。」

という末尾は、ある「近く」から微かな春のような甘い香りが多くの大衆に心地良く漂い始めつつあったその頃に、少し相応しくないような気もする。いや、だからみね子はカットしたのではない――もしかすると、みね子は、その後にやってくる、気狂い染みた「美しい暮し」としての高度経済成長の饗宴を、何処かで既に予兆し、不安していたのではなかったか? だからこそ、単行本の本作の末尾を「衣食足つてと言つた昔の人のゆめにも知らない今日のわれわれの生活はとぼしく裸であるけれど、その中にも出來るだけの知慧をしぼつて、夢と現實とを入れまぜたもろもろの好い物を見出してゆきたい。」と、敗戦の後の『どっこい生きてた』から続く「戦後」の、経済的な貧しさと精神の豊かさという真実を、確かに意識したかったのではなかろうか――

みね子の出自のよさを問題にしたり、彼女の文壇での芥川龍之介や堀辰雄との振舞いを手前勝手なファム・ファータル扱いにする(正しい「宿命の女」としての意味ならば強ち外れているとは思わない)捉え方もあるが、それらは僕とは天を同じくしない。みね子は現代の僕にとってさえ、実に魅力的存在であることを失わないのである――

2008/01/26

芥川龍之介 變遷その他

芥川龍之介「變遷その他」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

――後注に記した芥川龍之介の文学的出発点、第四次「新思潮」の復刊とそれに載った「鼻」――その発行日、2月15日は僕の誕生日と同じである。

“The Land of Heart’s Desire”注補正

芥川龍之介の『Gaity座の「サロメ」』に附した後注のうち、どうもしっくりこなかった“The Land of Heart’s Desire”を以下のように、全面的に書き換えた。僕としては、これなら当たらずとも遠からずか、と考えている。何かもっと正鵠を得た情報や解釈をお持ちの方は、是非、御教授をお願いしたい。

・The Land of Heart’s Desire:アイルランドの詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)の、1894年初演の戯曲。「心願の国」等と訳される。私はこの芝居を読んだことも見たこともないので、如何とも言いがたいが(新妻が妖精に誘拐されるアイルランド民話を素材とするらしい)、ここで芥川龍之介は、当時の「僕等」は「心願国」(それはイェイツにとって悲願としての独立国としてのイングランドを意味するのではなかろうか)国旗が税関に翻るのを夢想し「感ずる」程度には素直なロマン主義者であったと言っているのではなかろうか。本作が発表されたのは1925年であるが、その時でさえ未だアイルランドは真の独立を果たしていない。即ち、アイルランド自由国(但し、イギリス自治領。後、1937年にエールと改称)の成立は1922年、イギリスの独立承認は1942年(但し、イギリス連邦の共和国)、晴れてイギリス連邦を脱退してアイルランド共和国となるのは、1949年のことである。

2008/01/25

父からCD-Rを貰った。それは僕の過ぎし日の写真集だった――

1962年か1963年の初頭。保谷――

僕は正直、僕が、可愛いと、思う。――誰が何と云おうとも――

Boku_2

(2008年1月29日追記:この記載を老いさらばえた自己愛者のおぞましい言辞と解釈されるのは別に結構ではあるが、僕は僕が心から微笑んでいると自身で感じるのは(僕はこの日の思い出を、ここで走っている僕をしっかりと覚えているのだ。この50歳の僕が、だ)、そしてこれに The Picture of Dorian Grayで僕があえて“Sans Souci”の標題をつけたのは、この写真が僕の4歳半の左肩関節結核性カリエスの完治の直後、あの見るもおぞましいコールセットから遂に開放された、その時の僕であるからであることを表明しておく。だから視線の先にいる母にとって、写真を撮った父にとって、そして少しまだ左肩を心持ち上げているけれど、僕自身にとって確かにそれは「愁いのない」瞬間であったのだ――僕はあなたが思うほどには、そうしてあなたほどの、ナルシストでは、ない、つもりだ。)

2008/01/20

芥川龍之介 Gaity座の「サロメ」 + 片山廣子 花屋の窓

芥川龍之介『Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に――』片山廣子「花屋の窓」を『ペアのものとして』正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

ペアのものとして――

多くを語る必要はない。まずは僕の用意した片山廣子=松村みね子の「花屋の窓」をお読み頂きたい。当然、あなたは芥川龍之介の『Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に――』をお読みになりたくなる。それも僕が用意した、お読み頂こう――そうして、あなたは気がつくであろう、

『山手の坂のあの同じ花屋であることは確かである。妙に嬉しい心もちがしたと作者がいふところで私も妙にうれしくなつて、菊の花の群がつた上に漂つてゐる煙草の煙の輪を、私も見たやうな錯覺さへもち始めた。「夢のふるさと」といふやうな言葉でいふのはまはりくどいが、靜かなおちつきの世界を芥川さんも私もおのおの違つた時間に覗いて見たのであつたらう。』

みね子にとって確かにその花屋の窓こそ「夢のふるさと」であったことは間違いない――違いないが、しかしそれ以上に、彼女がこの龍之介の作品をさりげなく引用したのは――

この龍之介の遺言のエッセイ集ともいうべきものの一篇の彼女の胸を射たものは――

今は亡き失意の龍之介・アントニオ・芥川であり――

人の世のサロメを演じた老いた歌姫、横濱へ流れて来た女優みね子・ハンター・ワッツ・松村夫人であったのだ――

――僕は、確かにそう信じて疑わないのである……

追記:僕は今回のこのオリジナルなテキスト化作業の中で、何故か久し振りに、しみじみとした気持ちになったことを記しておく。

2008/01/18

片山廣子 大へび小へび

片山廣子「大へび小へび」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

……世の中には蛇の嫌いな奴もいる。僕は昨年、そんな奴のために不快な思いをした――私事に於いて蛇嫌いであるといった生理的感覚を仕事に持ち込むお前に、僕は世間的な蛇嫌いの感じる生理的嫌悪感以上の反吐の出そうな嫌悪感を感じたのだ。将に虫唾が走るというやつだ。この作品の公開は言わばその愚劣なお前への捧げ物である。いっとう感じるのは僕の授業ではお馴染みの安部公房の「日常性の壁」を読んでもらいたいのだが、残念乍ら、著作権の絡みで無理なのが惜しい。いつでもお前に、それを渡す準備は出来ている。いや、良かったら、僕の「日常性の壁」の授業を聞きに来るがいい。何時でも、待ってるぜ――ちなみに言っておこう。安部の作品は勿論のこと、この「大へび小へび」も、高等学校一年の国語教科書、昭和34(1959)年1月東京書籍刊の柳田國男編「新編国語 綜合編一」に「大蛇・小蛇」の題で所収されているぜ――僕は思う、何だったら、蛇嫌いのお前が、教科書を作るが、いいさ。蛇のいない、のっぺりとした、退屈な、去勢された、おためごかしにさえならない、進学校向けの、「おまえ」の教科書を、な――

ああ、しかし――鬱憤を語るのが、勿論、本意ではない。

『しかし大小はともあれ、どんな大むかしでも、蛇は今日と同じくによろによろしてゐたに違ひない。女が氣持よくそんな物と話をしたといふのが不思議である。さうするとイデンの蛇は無形の物で、イヴの頭の中にだけ見えたのかもしれない。イヴはその頭の中の蛇といろんな問答をして、樹の實を食べる決心をしたと考へてみれば、かなり素ばらしい生意氣な女であつたやうで、それがわれわれ女性みんなの先祖であつた。』

いいなあ、この物謂い! 僕には松村みね子は芥川龍之介と対等に語る女性であることは勿論、ここでの語り口、まるで女クマグスのようではないか!縦横無尽、スパっと、ね!

2008/01/17

片山廣子 L氏殺人事件

片山廣子「L氏殺人事件」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
これは僕の注を、というよりそのリンク先の記事をお読みになると、不謹慎ながら、誠、2倍にも楽しめるであろう。
しかし、彼女は何故、この痛く古い凄惨な(少なくとも少女であった廣子=みね子にとって充分「凄惨」であった)殺人事件を、この清澄な珠玉のエッセイ集の中に書き入れたのであろうか?
実は、僕がこれをテクスト化した理由は、猟奇的興味でも、事件の意外な周縁的面白さでも、ない。またしても、それは芥川龍之介という森へと繋がる獣道である――
もう一度、その最後をお読み頂きたい。
『この時の悲劇はほんとうに突發的なもので、路傍に電線が垂れ下がつてゐて偶然それに觸れた人が感電したのと同じやうなわけだつた。何の原因があるでもなく誰のせゐでもない。もしL氏がほかの人と結婚して別の場所に暮してゐたら、彼は何の怪我もなく、學校の案内もよく知らずに侵入した泥棒は、校長かほかの先生かの指を二ほん切り落しただけで、殺人もしなかつたであらう。通り魔といふやうな物すごい一瞬の出來事ではあつたが、初めの一つの不幸がいくつもの不幸を引いて來たと言はれるかもしれない。生徒たちは學校の體面をおもひ、また二本の指を失くした未亡人の姿を朝に晩に見てゐるので、それ以後だれも決してこの悲しい事件を口に出すものはゐなかつた。しかし物に感じやすい少女たちの心にはいろいろな陰影がうごいてゐて、神祕的に考へるものと常識的に考へるものと、それはただ彼等のをさない心の世界にだけくり返された問答であつた。(中略)
 もうすでに一世紀の半分ほどを經過してゐるけれど、その事件を身近く見聞きした人たちの幾人かがまだ生きてゐると思ふ。その人たちの平和としづかな餘生を祈りたい、私自身もその中に含めてである。』
勝手に省略し書き換えてみよう――
『この時の悲劇はほんとうに突發的なもので、路傍に電線が垂れ下がつてゐて偶然それに觸れた人が感電したのと同じやうなわけだつた。何の原因があるでもなく誰のせゐでもない。もし芥川龍之介氏がほかの人と結婚して別の場所に暮してゐたら、彼は何の怪我もなく、指を二ほん程切り落しただけで、自殺もしなかつたであらう。不安といふやうなぼんやりした一瞬の出來事ではあつたが、初めの一つの不幸がいくつもの不幸を引いて來たと言はれるかもしれない。私たちは社会や家族の體面をおもひ、氏を失くした未亡人の姿を見てゐるので、それ以後だれも決してこの悲しい事件を口に出すものはゐなかつた。しかし物に感じやすい女たちの心にはいろいろな陰影がうごいてゐて、神祕的に考へるものと常識的に考へるものと、それはただ彼等のをさない心の世界にだけくり返された問答であつた。もうすでに四半世紀ほどを經過してゐるけれど、その事件を身近く見聞きした人たちの幾人かがまだ生きてゐると思ふ。その人たちの平和としづかな餘生を祈りたい、私自身もその中に含めてである。』
――これは勝手な言葉遊びでは、ある――
しかし路傍の電線に僕は直に「或阿呆の一生」のあの電線のスパアクを思い出した――
――松村みね子(=片山廣子)は芥川龍之介の自死を救い得なかったことを、何処かで後悔していたことは事実である。――救う? いや、彼女は思わなかっただろうか? 『彼が私と逢わなかったならば……』、そうして『私が彼とあわなかったとしたら……』と――彼の死後に「或阿呆の一生」を読んだみね子は、それをことあるごとに想起したに違いないみね子は、あの「越し人」の章をそのような思いと共に読まずに居られたであろうか? 『私自身もその中に含めてである。』と末尾に記した折の、その彼女のふっと制止したペン先が、僕には、見えるのである――

2008/01/14

芥川龍之介 人を殺したかしら?――或畫家の話―― 附 別稿「夢」及び別稿断片」

夕刻、芥川龍之介「人を殺したかしら?――或畫家の話―― 附 別稿「夢」及び別稿断片」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは残されたとすれば芥川龍之介最後の小説となった幻の作品である(幻という謂いについては冒頭注を参照されたい)。

以下は今、全くの偶然に気づいたことであるが――
この「人を殺したかしら?」の末尾の脱稿の日付と思われるものを御覧頂きたい。
(二・五・二六)
とある。昭和2年5月26日である。
これは奇しくも、先に僕が『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』で芥川龍之介が松村みね子と軽井沢で密会したと推定している、あの所在不明の期間のど真ん中のクレジットである。
葛巻は「未定稿集」の本作の注の最後でこの日付に触れて『この時、彼は東京にいなかった。五月中旬から出かけた東北・北海道への講演旅行の帰りに新潟高等学校で、最後の講演「ポオの一面」を講演している。とすれは帰京匆々にこの脱稿日附を旅行前に既に成っていた小説に書き入れたにしろ、その日付は合わないことになる。とすれば、それは何だったのだろうか?――本当のところは編者にもよくわからないが、強いて想像するならば、その遺稿の一つとして発表された小説「歯車」の各章別につけられた、脱稿日附の異様な速度は、後に各編集担当者相談の上、除いたように(それは彼には何かの目的があったのかも知れないが、)――少なくとも小説「歯車」に関する限りでは、――作られた[やぶちゃん注:下線部は原本では傍点「丶」。]日附だった。』と記している。
ここで葛巻はあたかも26日に新潟高等学校の講演があったように記している。しかし、そうじゃない、講演は23又は24日に終わっているのだ。だからこそ、僕にはこのまさに「作られた日附」の意味が分かるのだ。
彼は恰もこの日に実際に居た場所を特定されないように、そうしてあたかもどこかで執筆をしていたかのように、アリバイを作る必要があったのだ。
そうしてそれは、松村みね子との最後の密会を隠すためであったと、僕は思うのである……死を決して、なおアリバイが必要かって?
死を決しても死に至るまでは、それは「飴のように延びた蒼ざめた時間」という美事な日常だからな、と言っておこう、それは死を決した、すなわち死んだ人間以外には答えられない答えだからな――

2008/01/13

芥川龍之介 越びと 旋頭歌二十五首

みね子と龍之介のために芥川龍之介「越びと 旋頭歌二十五首」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

僕は短歌が苦手だ。だからどこにこれを公開するかに馬鹿みたいに迷った。本来なら詩歌として「心朽窩新館」にするところなのだろうが、私は恐らく他の短歌集を自分のHPにアップするとすれば、芥川龍之介のものしかありえない程に短歌が嫌いである(石川啄木を除いてという例外と、いや、あえて言うならば、芥川龍之介のものと松村みね子(片山廣子)の短歌集『翡翠』はHPに並べてみたいと目論んではいる)。……しかし、まさにここまでみね子のテクストをアップしてきて、「越びと」がないのは、余りに龍之介にとってもみね子にとっても寂しいと僕は思ったのだ。……サティを聞きながらの校訂は、何か不思議にユーカリの匂いのする清しさを覚えた……

松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記

以下、松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」に出現するイニシャルすべてについて、非力の僕の同定した人物・場所をお示しする。全くの見当違いもないとは言えない。御自分でも検証されたい。また、誤りを発見された方は、お教え頂けると幸いである。

 

・「AR氏」 芥川龍之介。

・「S氏」 松村みね子が和歌で師事していた歌人の佐々木信綱を同定候補としておく。

・「T町」 田端。

・「藝術家M氏」 田端に当時居住していた小説家でない芸術家で「M」のイニシャルを持つ人物は、洋画家の寺内萬治郎(てらうちまんじろう)がいる。【2010年5月5日訂正】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pより、室生犀星に同定。

・「MK」 小島政二郎。「赤い本の編輯」は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』。芥川龍之介在世当時から同誌の編纂に携わっていた(小島の「眼中の人」等を読むと著名作家の代筆までやってのけたことが告白されている)。【2010年5月5日訂正】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pより訂正。宮木喜久雄(みやぎきくお (明治38(1905)年~?)詩人。大正14(1925)年20歳で室生犀星門を叩き、堀辰雄・中野重治・窪川鶴次郎らと共に同人誌『驢馬』を創刊、昭和3(1928)年の同誌終刊後はプロレタリア文学運動に傾斜、自身が社長であった『戦旗』に作品を発表、二度に渡って投獄されている。「赤い本の編輯」は私の勘違いで『赤い鳥』ではなく、アカの本=左翼の雑誌『戦旗』のことである。

・「H」 堀辰雄であろう。堀辰雄は後に芥川龍之介と松村みね子(片山廣子)とその娘の片山総子をモデルとした「聖家族」にものしている通り、龍之介とみね子との悶々たる関係を知っており、更にはみね子の娘である総子と堀辰雄自身の恋愛感情もあったようである。本作も多くはみね子が堀を通して得た情報をもとにして書かれているのではなかろうかと思われる。【2010年5月5日同定確定】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pによる。

・「N」 記される留置の事実等から特定は容易と思われるが、不明。これが芥川龍之介の「使徒」の一人であるなら、イニシャルから言うと「龍門の四天王」と呼ばれた南部修太郎がいるが、ちょっと違うか。【2010年5月5日補正】堀と宮木の友人で、留置の嫌疑がかけられる人物は一人しかいない。『驢馬』同人の中野重治である。但し、昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」に引用されるこのエピソードは堀と宮木だけの話となっており、この人物は登場していない。

・「N縣O村」 現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分。例のみね子との虹のエピソードの場所である(『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』を参照)。

・「H」 堀辰雄。

・「M」 不明。これは叙述の先例から言うと先の「小島政二郎」と読めてしまうが、「HもMもまだ文科の學生だつた」と述べていることから違う人物である。この時は堀が親しく龍之介に近侍していることから大正14(1925)年の8月20日~9月7日までの軽井沢滞在での体験である(前年の堀との邂逅は7月4日の堀の訪問があり、翌日5日の午後二時に堀は帰京しているので考えにくい)。なお、この時期外れの龍之介の軽井沢訪問は、恋慕の情の止みがたいみね子に逢わないようにするためであったことは、良く知られた事実である。【2009年11月22日追記】2005年講談社刊の「物語の女 宗瑛を探して」で著者の川村湊氏は、この「M」を丸岡明と推定されている。丸岡は後の堀辰雄の弟子になる作家であるが、明治40(1907)年生まれで、暁星中学校を経て、昭和2(1927)年に慶応義塾予科に入学している(その後、同大学仏文科へ進学)。厳密には未だ中学生で、この大正14(1925)年に『文科の學生』とは言い難いが、まあ、許容出来る範囲ではあろう。

・「K氏」 不詳だが、この時、軽井沢の定宿であった「鶴屋旅館」の主人が同行している。現在の同旅館の主人の姓は「小峰」である。

・「IK」 窪川(佐多)稲子。この前半に記されるのは、彼女16歳の折、大正9(1920)年上野池之端の料亭清凌亭で座敷女中として約一年働いていた際のエピソード。後半の芥川家来訪をみね子は「一週間ばかり前」とするが実際には昭和2(1927)年7月21日で、実に自死した24日に先立つ僅か3日前であった。佐多稲子の「年譜の行間」(但し1992年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」からの孫引き)によれば、佐多が以前に自殺未遂下したことを知っていて、

   *

芥川さんがあたしにおっしゃったことといえば、いきなり、『あなたは自殺するときに何を飲んだんですか』ということだったのです。で、あたしはジアールを飲みました、とお返事をしたんです。芥川さんはベロナールだったんですね。そうしたら『生き返ったあと、また死のうと思いませんか』って。だから、『いいえ、思いません』と。
とにかくそう訊かれたときに、変なことを訊かれる、と思ったわ。

   *

この後に佐多も言っているが、確かに「幸せな結婚した相手の男」と一緒に来訪してきた彼女にこう聴くのは不気味であることは当然であろう――丁度その「幸せな結婚した」はずの「相手の男」が、10年後には自分よりも20(窪川よりも19)年上の田村俊子に心奪われることとなるとは思いもしなかったことも、当然であるように――。

・「K」 評論家・詩人、窪川鶴次郎。佐多稲子と結婚。後、窪川と田村俊子との不倫から離婚する。【2009年11月22日追記】2005年講談社刊の「物語の女 宗瑛を探して」で著者の川村湊氏は、この「K」を小穴隆一と推定されている。小穴と芥川は「耳が悪い」「鼻が悪い」と言い合える、心を許した間柄であるからとその根拠を示されるのであるが、当該場面では、それぞれその言葉をH(堀辰雄)にこっそり別個に話すというのであるから、ここにはそのように『言い合える間柄』が現前して描かれているとは言えない。自死を逸早く打ち明けた小穴なればこそ、正に川村氏が言う通り、堀辰雄にではなく、小穴に直接語るはずであり、強烈な個性の持ち主であった小穴も「鼻が悪い」と芥川に直言したはずである。

・「M氏門」 「M」は室生犀星であろう。窪川鶴次郎は同じ若い文学グループの中野重治や堀辰雄・宮木喜久雄と共に親しく犀星のもとを訪れ、『驢馬』の創刊に関わった。但し、この自律的なグループに「門下」という謂いが正しいかどうかは、やや疑問ではある(犀星自身が「先生」付けで呼ぶことを禁じ、同人誌に対しても金は出すが口は出さないという姿勢を貫いているからである)。【この「M氏門」の注には2010年5月5日に一部追加補正を加えた。】

・「W伯爵夫人」 不明。この忘年の7月7日のパーティの件は震災以後にも以前にも年譜の中には発見できなかった。正直言うと、あんまり同定の興味も湧かない。

・「S町」 修善寺。

・「A氏がS町に行つてる時分は非常な元氣だつた」 これは叙述に現れる小説と、最後に記される笹巻の処理先から大正14(1925)年4月10日から5月初めまで修善寺新井旅館へ静養に行った折のエピソードと分かる。

・「すの字とか、への字とか、たの字の話とか、そんな風の小説だつた。」(底本は下線部は傍点「丶」) これは大正14(1925)年6月発行の雑誌『女性』に発表された「温泉だより」(注:左のリンクは、僕は未だ当該作品をテクスト化していないので、既存の「青空文庫」の当該作品へとリンクしている)を指す。萩野半之丞という大工を主人公とした話で、固有名詞の表記を『「か」の字村』『「お」の字街道』『「た」の字病院』等とする。芥川は作中これを『これは國木田獨歩の使つた國粹的省略法に從つたのです』と述べている。(旧全集書簡番号一三一六の4月29日付修善寺発小穴隆一宛書簡に『原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行書いてしまつた勿論書けてゐるかどうか心もとない。』と記している)。

・「K町」 鎌倉。

・「KM家」 久米正雄。修善寺を発って(鷺只雄の推定では5月3日)、一部目的不明ながら大磯・鎌倉に足跡を残しており、病臥していた親友の久米を見舞っていることが分かっている。なお、この修善寺滞在中に、まさにあの“越し人”みね子への相聞歌が創られたこと、この後、5月6日の田端帰宅までの所在不明期間があることは、既に『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』で述べた。

最後に。

――みね子自身この作品で語ってよいであろう最後の芥川龍之介の姿について、彼女は全く語っていないのである。また芥川龍之介の各種年表にも以下に記す事跡は記載されていない――

松村みね子の電子テクストの底本である2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」の「略年譜」の「1927年(昭和2年)四十九歳」の項に以下のように記載されている――

   *

六月末、堀辰雄の案内で芥川龍之介が廣子の自宅を訪れる。

   *

蛇足。これで終わりにする。

芥川龍之介「輕井澤で――「追憶」の代はりに――」の最後のアフォリズム……僕には確かに聴こえる、その音色が……

松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実

 

松村みね子「五月と六月」の冒頭は次のように始まる。

 
『いつの五月か、樹のしげつた丘の上で友人と會食したことがある。その人は長い旅から歸つて來て私ともう一人をよんでくれたのだが、もう一人は、急に家内に病人が出來て、どうしても來られなかつた。で、一人と一人であつたが、彼は非常に好い話手であつた。』

 
しかし、この「いつかの五月」の丘の上の食事と後述される碓氷峠の二人の散策(僕はこれを同じ時期の二人の軽井沢での密会でセットのものであろうと考えている)は現在、不完全ながら日割り単位で明らかにされている芥川龍之介の年譜の中に、記されていない事実なのである。芥川龍之介が五月に軽井沢に居たという記録は、実は現在の年譜類から見出すことが出来ないのである。
彼が最初に軽井沢を訪れたのは大正13(1924)年の7月22日のことであり(8月23日迄滞在)、投宿した定宿となる鶴屋旅館に於いて、始めて松村みね子と出逢っている(みね子の投宿は7月27日であるが、この日芥川はグリーンホテルに泊まっている山本有三を訪問し、そこに一泊しているので実際の邂逅は28日か)。
この時、二人の最も有名なエピソードが二つある。一つは7月13日の夜、同宿の彼女と彼女の娘の片山総子及び室生犀星に鶴屋の主人の五人で碓氷峠へ月見に行ったことで、もう一つは、7月19日、みね子と鶴屋主人と追分(おいわけ・わかれさ)に行き、美しい虹を見たというエピソードである(後の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」にも「追分」でのシーンが現れるが、これはみね子が恐らく堀辰雄から聞いた伝聞であろう。この日とは全く別な折のことであり、そのシーンの中にはみね子はいない)。
さて、当然、ここで言う「五月」は、翌大正14(1925)年以降、死の昭和2(1927)年迄の3年間の何れかの五月でなくてはならない。『その人は長い旅から歸つて來て私ともう一人をよんでくれたのだが』という叙述が、切り札となる。芥川龍之介が五月(若しくは四月から五月にかけて)「長い旅行」に出かけた――「旅行」という言辞は断じて「静養」や「養生」のための温泉行等を示さない。それはある目的を持った仕事としての「旅行」である――のは、一つしかない。死の年である(ちなみに1992年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の大正14(1925)年の項(170p)の「最後の軽井沢」というコラムの最後で鷺は『この年の再訪が芥川の軽井沢行きの最後になった。』と締めくくっている。鷺は芥川の軽井沢訪問は前年とこの二度きりであるとするのである)。
その昭和2(1927)年5月13日に芥川龍之介は改造社の『現代日本文学全集』宣伝のために里見弴と共に東北・北海道に「講演旅行」に出かけた。その日程については、芥川龍之介「東北・北海道・新潟」の電子テクストの僕の注を見て頂きたいのだが、その講演旅行が終わった後、芥川龍之介は改造社宣伝班の連中と別れて、恩師の依頼による新潟高等学校での単独講演に向った。24日(月)に新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演を行った後、同校教官らと宿舎であった篠田旅館にて座談会をしたとされる(1993年岩波書店刊宮坂覺(さとる)編「芥川龍之介全集総索引付年譜」では『「新潟新聞」記事より』という注を附してこれを24日の項に入れているが、前掲書で鷺只雄はこれらを23或いは24日としている)。
芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」を見てみよう。これは軽いノリのアフォリズムである。その終わりから二つ目。

 
『信越線の汽車中――新潟の藝者らしい女が一人(り)、電燈の光の中に卷煙草をすつてゐる。卵の殼に似た顏をしながら。』

 
芥川は23日か24日、新潟高校の講演を終えたその日の夜に信越線に乗車した。だから「電燈の光の中」の芸者を見た。
再び、冒頭の僕の注の日程に戻られたい。現在の資料ではこの時の芥川龍之介の田端への帰宅について、鷺は5月27日(木)、宮坂は推定として28日(金)にクレジットしている。
23日(又は24日)~27日(又は28日)の日録に凡そ最小で3日間、最大で4日間程度の空白がある。龍之介はどこで何をしていたか? 信越線に乗車したことはまず間違いない。とすれば、彼が途中下車したのは軽井沢であった可能性が高い。
松村みね子に「丘の上の食事」を「もう一人」(これは誰であるか不明。堀辰雄辺りを考えて見るが思いつきでしかない)と共に招待していたとすれば、それは講演旅行前か最中(但しこれはかなりの強行軍であったのでその可能性はやや減じられると思う)に約束されたものであったに違いない。「丘」は旧軽井沢から東の方の丘陵地帯か。例えばこれは「万平ホテル」での午餐ではなかったか。食後に別れをかわすから、松村と芥川は別々な宿をとっている。それが例えば万平ホテル(もしくは離れたグリーンホテルや別なホテルでもよいのだが)と鶴屋旅館であったとすればどうか(二人共に密会の気分があったとすれば鶴屋旅館を避けた可能性もあろう)。僕は万平ホテルに行ったことがないから、そこに「丘の上の食事」に相当する場所があるかどうか、知らない。ホテルから西下すれば矢ヶ崎川があるが、そこに「タキシイの広い」(これは“taxiway”で門からのエントランスが広いことを言っているのだろうか)屋敷があるかどうかも、知らない。鶴屋旅館は矢ヶ崎川を渡って北上する位置にはある。

 
続く碓氷峠の跋渉はその翌日でもあったか。

 
「何が通るんでせう、あの道は?」
「なにか通る時もあるんです。人間にしろ、狐にしろ。……道ですから、何かが通りますよ」
 さう云はれると忽ち私の心が狐になつてその道を東に向つて飛んでいく、と思つた。

 
禅問答のような会話が、タルコフスキイの映画の台詞のように印象的だ。そうしてそこに付け加えるみね子のさりげないアイルランド的ケルト的幻想的な洒落た一文が胸を撃つ。

 
勿論、松村の昭和2(1927)年23日(又は24日)~27日(又は28日)のアリバイが立証されてしまえば、僕の空想はオジャンだ。この期間の軽井沢の天気も雨だったらあり得はしない。勝手な思い込みだ。また、前者は間違いないにしても、後者の碓氷峠のエピソードは大正14(1926)年の5月又は大正15・昭和元(1926)年の5月でなかったとは言えない。それぞれの当該年の5月の事跡には、どちらにも疑おうと思えば疑えるやや不明な期間がある。例えば大正14年5月3日~6日迄は修善寺の静養の帰り、三日間程所在不明である。この時はしかし大磯・鎌倉にポイントの足跡を残しているので、遥か彼方の軽井沢までの強行軍をしたとは考え難い。ただ――ただ、この修善寺静養中の4月17日に室生犀星宛書簡でみね子への恋情の煩悶を詠んだ例の絶唱を詠んでおり、それは不思議にこのエピソードの情景と一致するようにも思える――

 歎きはよしやつきずとも
 君につたへむすべもがな。
 越(こし)のやまかぜふき晴るる
 あまつそらには雲もなし。

 また立ちかへる水無月の
 歎きをたれにかたるべき
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる

最後に付け加えるならば、大正15・昭和元(1926)年の5月は専ら鵠沼にあって、肉体的にも精神的にも相当などん底にいた。ちなみに小穴隆一によれば前月の4月15日に自殺の決意を告白しているから、僕としてはこの年ではないという直観はある。

2008/01/12

松村みね子 芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)

松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これを読んでいると、不思議に芥川龍之介が、まさにかの「西方の人」に見えてくるから不思議だ。以上、彼女の「黑猫」と、「五月と六月」、そしてこの「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の三つを、僕は『“越し人”による芥川龍之介三部作』と勝手に呼んでいる。どれも短いながら、芥川龍之介について語った他の人の如何なる文章にも比して、一読、忘れ難い光芒を放っていると思う。なお本作については後日、作中のイニシャルの登場人物の同定注記を考えている。

Windows Vistaで訪れたあなたへ

昨日、僕が外でべろべろに酔っ払って京浜東北線を上ったり下ったりしていた午後十時代、僕のブログをWindows Vistaで訪れたその人は370回を越えるアクセスで一記事一記事を時間をかけて丁寧に読んでくれていた……誰かは知らないあなたに「ありがとう」。

2008/01/08

三木清 旅について 本文訂正及び授業案増補

三木清「旅について」の本文の誤植を訂正し、授業案に一部増補した。

2008/01/07

松村みね子 新年

松村みね子「新年」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
僕はこの数日、彼女の「燈火節」を読み返しながら、芥川龍之介が「或阿呆の一生」で『彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女』と彼女を言った意味が今さらながら腑に落ちたのであった。そこにはまさに女芥川龍之介の姿が彷彿とする。そのエッセイの中で匕首のように煌めく言葉の切り口によく現れている。この「新年」は岸田秀の「忘年会」(「続・ものぐさ精神分析」所収。何人かの教え子の諸君は私がオリジナル授業で用いたのを覚えているであろう)エッセイと並べてみると、誠に面白い。それは近代化が担う病んだ部分を、岸田とは異なった時間概念へのアプローチがある。それは、その一見懐古的な物謂いでありながら、今を照射し「刺す」。決して古びたものでない。
いや、一つだけ、芥川龍之介と同じように、彼女は楽観的に読み間違えた。
『だけれど、「新年」がどんなに變化して來ても、それがある以上、新年についてまはつてゐるのは、すくなくとも日本では、寒さだ。これは、當分變りさうもない。』
地球温暖化の中で毎年摂氏5℃上昇の線が温帯域に侵入してくるこのガイアの病を、さすがの芥川と格闘できる才力も予測出来なかったことに、僕は少しほっとするのである――

2008/01/04

而して又しても雲隠……時に松村みね子の「五月と六月」を考察するうちに、ある確信に近いある秘密に至った気がしてきている……そのお楽しみは……また後日……

松村みね子 黑猫

松村みね子「黑猫」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

僕は嘗てこれを読んだ時、その巧まぬ衝撃的叙述に息を呑んだ。

冒頭から淡々と語られる文学少女のような日常的拡散のディスクールが終局に至って詩人としてのみね子の「情念」という座標軸によって非日常へと慄っとする美麗さに変貌する――

『そのとき暗い二階の階子(はしご)をみし/\させて大きな黑猫が下りて私の前に來た。同時にそとにゐた二人の人たちもふさ子も力餠を見に中にはいつて來た。

 Aさんはちよつ/\と猫を呼んで、猫の長いしつぽをひつぱつて見た。私はびつくりして、あなたは猫はお好き? と訊いて、非常に犬が嫌ひなこの人は猫もきらひな筈だとおもつた。

 Aさんは猫は好きだと云つて兩手で猫の頭を抑へてもんでゐた。猫はうるさくなつたと見えて私の方へ寄つて來たから、何氣なしに背中をなでてゐると、背中をなでると胴ながになりますと、Aさんがおどかすやうな聲で云つた。背中をなでると猫が胴ながになるといふことは昔の年寄たちのいひ慣れた言葉だつたのを私もそのとき思ひ出したが、しかし、その猫はもうすでに非常な胴ながだつた。そして瘠せてゐて長い尾を持つた西洋だねだつたやうである。猫はいゝ加減に撫でてもらふとするりとぬけて尾を振りながら、二階のはしごを上がつて行つた。

 Aさんは二階を見上げてゐたが、ふいと私の方を向いて、あなたはかういふ二階を御存じないでせう? 僕は高等學校時代に旅行したときこんな宿にも泊つたことがあります、と言つた。私たちはしばらく二階の方を見てゐたが、猫はそれきり下りて來なかつた。

 Mさんとふさ子はそのときもう火鉢のそばに腰かけて茶を飮んでゐたやうだつた。』

これはタルコスフスキイのワンシーンのように、ワンカット・ワンシーンの中に、不思議に猫を含めたあらゆる登場人物がフレーム・アウトし、あり得ない方向から再びフレーム・インするかのような目くるめく幻暈だ――そこで交わされる台詞や映像は、前衛演劇やヌーベルヴァーグのように観客である読者を美事に、突き刺す――そして

『頭のなかで山の茶屋の黑猫とうちの庭の黑猫と二疋の姿が入りみだれて、それが自分の姿に交じつて來ると、しまひには猫が自分だつたやうな氣がして來る。』

それはシュールレアリスムの祝祭――続く終行は、僕等をエクスタシーのうちに窒息させる――

『庭には影が見えないが、今たしかに黑猫が私の中をとほりすぎた。』

――この「猫」として「芥川龍之介」を演じる「僕」ならば、「松村みね子」であるかも知れない「貴女」に、この作品を、贈りたい――

2008/01/03

“越し人”松村みね子(片山廣子) 五月と六月

アイルランド文学の翻訳家にして作家、松村みね子の「五月と六月」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。僕のブログお読みになる人には既にお分かり頂けているであろう、芥川龍之介の、あの“越し人”、その人である。本作は彼女の、芥川龍之介を思い出を綴ったものの一つ。一読、忘れ難い、ユーカリの森の風の匀がする佳品。

本年最初の文学テキストとして、これ以上に相応しいものはない。

つい一時前、右手の目の高さの書棚にあった「燈火節」に眼が留まった。年譜を褄開く。彼女は1957年3月19日79歳で亡くなっていた。没後50年であった。

芥川龍之介と彼女を僕のテクストの欄に並べた時――僕の脳にユーカリの匀が流れ込んだ気がした――

2008/01/02

タスマニア紀行8《タスマニアで逢う》「タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ」

Tiyoji タスマニア紀行8《タスマニアで逢う》「タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ」(左の写真に限り、クリックでスクリーンに適度な大きさに表示される。それはこのフェアリーな少女のために)
タスマニア最後の夜、ホバートのサラマンカ土曜市にて――
ワイン・ショップのカウンター――
そこに「幸せなコバヤシチヨジ」がいた――
お別れに手を差し出すと、彼女は満面の笑みでギュッと強く僕の手を握って、何度もその手を振った――
僕はそこを去りながら、心中、快哉した――『ガンバレ、チヨジ!』――旅の終わりである――

タスマニア紀行7《タスマニアで見る4》「タスマニアのフリードリヒ」

Img_0150 タスマニア紀行7《タスマニアで見る4》「タスマニアのフリードリヒ」
タスマニアの空は広い。そして透徹している、それは寂しいほどに――
ユーカリは擦れ合う葉から自然に発火し、黑焦げになる――
立ち枯れ山のように、焼けたユーカリが林立する山――
巨人塚のように平原に佇立する枯れ木――
荒寥たる無人の野――それは萩原朔太郎の「荒寥地方」――
フリードリヒ(Caspar David Friedrich)は、少年期に遭遇した弟の眼前の溺死を救い得なかったというトラウマから、その生涯を極めてストイックに、絶対の悲哀の中に過した。それは全く以って今風に言うならPTSDであったのだと僕は思う。フリードリヒはしかし、その禁欲的な自己の精神が乱されることを畏れて、当時の画家の常道であるローマへの道さえ拒んだ――
僕は思う――
フリードリヒをタスマニアに連れて来たい――
フルードリヒよ、君の描きたい景色は、ここに、ある。――

タスマニア紀行6《タスマニアで見る3》「タスマニアン・デビルはタスマニアン・ノビルなノダ!」

Img_0210 タスマニア紀行6《タスマニアで見る3》「タスマニアン・デビルはタスマニアン・ノビルなノダ! ゼッタイかわいいノダ!」
コロンとしていて胸元にアクセントがあってアライグマみたような顔をしていて短足で昼間は暑いから穴倉で寝ていて出てきても地べたに足も手もずべ~んって伸ばして腹ばいになって寝ているタスマニアン・デビルはデビルなんかじゃあないノダ! タスマニアン・ノビルなノダ! ゼッタイかわいいノダ!

哺乳綱獣亜綱フクロネコ目フクロネコ科フクロネコ亜科タスマニアデビル属タスマニアデビルSarcophilus harrisii。現生種一属一種。タスマニア島にのみ生息する。絶滅危惧種。現地のスタッフに聞いたところ、タスマニア島南東部には最早自然個体はほとんど生息していない模様で、北部の中・東部での自然個体の総数さえ把握されていない。古くは家畜を襲う害獣として忌み嫌われ(これは冤罪で彼等は腐肉食である)、威嚇・捕食行動の際に出す「シャー!」といった特徴的な声と歯を剥き出した姿からおぞましい名を冠せられてしまった(これも冤罪で極めて臆病な性質であり、威嚇行動は人間と全く同じく一種のハッタリ行動である)。1996年に初めて報告されたデビル顔面腫瘍性疾患DEFD(Devil Facial Tumour Disease)は現在もパンデミックな爆発的感染が続行しており、且つその病理学的素因は確定していない。治療法も特効薬も、ない。一説にウィルス性とされるが、僕は一種の遺伝的な素因があるのではないかと感じる。今、彼らにそのような試練が遺伝的に齎されているのかもしれない。――太古、生きる場所をじりじりとディンゴ(イヌ属タイリクオオカミの亜種Canis lupus dingo)に追われ、近代に至ってヨーロッパの移民に悪魔として忌避され、今また、死に至る病に襲われねばならない存在――肉食動物の食物連鎖の底辺でエクスターミネーターとして文字通り地面にぺったりくっついて地道に生きてきた彼らに、何故に神は試練を与えるか? 「悪魔」と呼ぶか? 僕はだから神の存在など信じないノダ! いや、この「デビル」こそ、哀れな僕等自身の、正しき隣人なのではないか!?……

2008/01/01

Air de Tasmania

マイ・フォトに夜討ち朝駆けの“Air de Tasmania”を。「地球に深呼吸」とは、いい台詞のツアーだった、ちなみ謂う、これらのタスマニアの写真は全て、妻の写したものである。

タスマニア紀行5《タスマニアで喰う》「タスマニア産カキ」

Img_0156_2 タスマニア紀行5《タスマニアのカキ》
五日目の昼食にオプショナルで生カキを食って火がついて以降、帰国するまでに幾つカキを食っただろうか(20個以上は有に食った)。日本のオイスター・バーで食ったのではやっぱりだめだ、採取から空輸の時間が微妙な生臭ささを生じていたのだと実感した。目の前のベイから揚がったタスマニア産のカキは小粒ながらクリーミーで実に旨い。しかしこれは日本から種苗を持ち込んだマガキCrassostrea gigasであろうと思われる。しかし、全くの別種がいた(今もいる)はずである。ガイドの中でアボリジニが「カキの取れる海」と呼称する湾があったと聞いた。さればこそ、そこで彼らが太古から採取していたのは、恐らく我々の知らない固有種であったのではないか。――されど養殖場所によってカキの味は驚くほど異なるのだ。このマガキもタスマニア固有の環境とプランクトンによって美事な文字通り「純正タスマニア産海のミルク」と冠して恥じないカキとなっている――

タスマニア紀行4《タスマニアで見る2》「海岸生物の宝庫ビシェノー」

Img_0105 タスマニア紀行4《タスマニアで見る2》「海岸生物の宝庫ビシェノー」
翌朝、僕はホテルの前の海岸を小一時間観察して歩いた。やはり人工のゴミが全くない。こんなに美しい海岸を見たのは、初めてだ。そうして磯・浜・干潟のすべての多様な生態系があり、かつ内湾と外洋に面したニ様の生態系を一山越えれば容易に観察できる。岩礁性海岸では、潮間帯と潮下帯の漸層域が殆んどなく、潮の下にはすぐ巨大なケルプ群が広がっている。潮間帯中間部から下部にかけてはフジツボの群落が優勢であるが、下部にはそのフジツボの群落の隙間を覆いつくすようにホヤ(ミヒャエルホヤPyura sacciformisに似ているがあれは韓国と日本それも南西諸島を除く海域に生息するとされるから別種であろう)が多数生息している。視認し触れられる磯で、これだけ広範囲に広がるホヤの群落を見たのは生まれて初めてだ。手で触れると明瞭に盛り上がった出水孔から、水を噴出す。その音がピュピュと聞こえる。直径50㎝程の擂鉢上のタイドプールは蟹の巣であった。石になって観察していると、イワガニ科Grapsidaeの一種と思われる十数㎝の蟹が底の方からわらわらと湧いてくる。ここでは一種のヒトデが極めて優勢で、腹側の形状からはイトマキヒトデ科Asterinidaeに近い種のように見受けられる。背側から見た時は同種の灰色のカラー・バリエーションに似ているのだが、腕数が7か8という日本ではまず見られない種であった。当然のことながら面白いのは、僕の観察したそれぞれのタイドプール内に生息する個体の腕数が7か8にほぼ統一されていることであった。そうしてゴッスである! 僕は永らくどこかで、ゴッスの描く「アクアリウム」や「イギリスのイソギンチャクとサンゴ」の博物画は、模式的に若しくはまさにアクアリウム的に人為集合された架空のものと思っていた。ところが、このビシュノーの海岸のほんの小さな岩の割れ目を覗いて見ると、そこには実にあの絵の世界がある! ウメボシイソギンチャクActinia equinaに極めて類似した巨大種(直径が15㎝を有に越える個体が長径が同長のカサガイが丸ごと捕食していた)優勢種であるが、他にミドリイソギンチャクAnthopleura fuscoviridisや白色・褐色系のウメボシイソギンチャクの仲間(色彩変異の多いコモチイソギンチャクCnidopus japonicsに似る)が所狭しとおしくらまんじゅうをしているのだ。砂浜で拾ったアマモ属の仲間Zosteraを手にしながら、僕は日本の豊かな自然海岸が持っていたであろうこのようなありのままの自然、そうしてそれが致命的に失われた事実を、どこか浦島太郎のような気持ちで考えていた――

何と、この魚介の宝庫にあってタスマニアの人々は、今まで海産物をほとんど食さなかったそうである。即ち、カキやイカ・タコの一部の海産物以外は殆んど一般的食事に供さない、ことは、通常、英語で固有種ムール貝(イガイ目イガイ科ムラサキイガイMytilus galloprovincialis)を言う“mussel”が、メニューでは何でもかんでも二枚貝を指してしまうということからも分かる。それは直ちに利用価値のない海洋生物に興味を持つ人々は少ないことの証しであり(オーストラリアでの殺人クラゲ・イルカンジ発見から事故防止の遅れの過程を見ても僕はそう感じる)、研究者が絶対的に少ない→海にゴミがない→誰もまだ調べていない未発見の生物種がゴマンといるということではあるまいか。

(写真はホテル“シルバーサンズ”の部屋からの夕景。左手に美しい半月上の浜、右手に巨大なベイの開口部へと向う砂岩の岩礁海岸が続いている。釣をしている人々はイカを狙っている。)

タスマニア紀行3《タスマニアで見る1》「ペンギンの帰還」

Img_0136タスマニア紀行3《タスマニアで見る1》「ペンギンの帰還」
人工物のゴミが殆んど全く見られない美しいフレシネ国立公園ワイングラスベイをハイキングした、その夜9:30、フェアリー・ペンギンEudyptula minorの帰巣行動を観察した。昼間、海に採餌に行っていた親達が陸に帰って来る(タスマニアのペンギンの95%は離島に生息しており、ここの彼等は、タスマニア本島を居住地とする希少な残り5%の個体群なのである)。僕はこの「ペンギンの帰還」(呼称としては「ペンギン・パレード」と称しているが、僕は断じてこの甘ったるいイベントとしての名を拒否したい。それは日々繰返される彼等の生死を賭けた生きざまなのである)を見るだけでも、このまさに南の果ての島へ来る価値があると感じた。エコ・ツーリズムという謂いも、そうお目出度く理想化するところに独善的な胡散臭い気がするが、ここでボランティアとして働く運転手も老ガイドも灯かり持ちのはにかんだ少年も――その誰もが皆「ペンギンの帰還」を確かに守っていると素直に感じられた。――そうして闇の中に照らされたいたいけな子ペンギンの切ない震えは、将に繁栄めいた絶滅的危機に瀕しつつある奢るホモ・サピエンスの痙攣に繋がっている――

(写真は観察用人口巣の中で親の帰りを待つ二匹のフェアリー・ペンギンの子)

タスマニア紀行2《タスマニアで聴く2》「ミツバチの羽音」

Img_0086 タスマニア紀行2《タスマニアで聴く2》「ミツバチの羽音」
三日目に訪れた“Bridestowe Lavender Farm”で。僕と妻は恐らく類を見ない香水嫌い(僕は嫌いではないが、匂いそのものに過敏で、ちょっと強い女性の香水等には激しい生理的拒絶感を持つし、妻に至ってはクシャミ連発の立派なアレルギーである)である。さればこそラベンダー農場ではどうしようかと思いの外――見渡す限りの満開のラベンダー畑に立ったことのある人には分かる。あの「音」! 無数のミツバチが発する羽音のめくるめく「音」! 妻は昆虫の大嫌いな僕がラベンダーの畝の中でミツバチと戯れているのを不思議がった。その通り! 怖がることより「羽音のエクスタシー」の方が勝つに決まってる!――またしても僕はしばしこの逆位相の音の中で、云ひやうのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。――

タスマニア紀行1《タスマニアで聴く1》「森の声」

Img_0031 タスマニア紀行1《タスマニアで聴く1》「森の声」
連泊したクレイドルマウンテン国立公園に程近いLemonthyme Lodge。そこでは確かに「森の声」が聴こえたのだ――それはテラスの下にやってくるワラビーの声でも、木立の奥に眼を光らせたコノハズクの声でも、ましてやただ木々を渡ってゆく夜風の音でもない――耳は――繰り返し飛行機の上下降で痛めつけられた僕の耳の耳鳴りは、不思議な自然の逆位相をかけられてまるで気にならなくなっていた――僕は素直にうなづいたのだ――それはまさしく「生きている森」の「生きている息吹」そのものなのだと――

(上写真は早朝のテラスにやってきた我等がタスマニア行を先導する八咫烏。尾羽の先が白い。下写真は子供を袋に入れたワラビー。但し、この写真自体は後日のワイングラスベイ・ルックアウトの登山口で出逢ったもの。)

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2008年迎春

2008年のけふ、本ブログを御覧戴きたる方々の新年の吉兆、心より言祝ぎ申し上げ奉りまする。

本年もHP「鬼火」・BLOG「日々の迷走」共々、隅から隅まで、ずず、ずいーっと、宜しく、御願い、奉りまする。

   2008年元旦

                 心朽窩主人敬白

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