片山廣子 L氏殺人事件
片山廣子「L氏殺人事件」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
これは僕の注を、というよりそのリンク先の記事をお読みになると、不謹慎ながら、誠、2倍にも楽しめるであろう。
しかし、彼女は何故、この痛く古い凄惨な(少なくとも少女であった廣子=みね子にとって充分「凄惨」であった)殺人事件を、この清澄な珠玉のエッセイ集の中に書き入れたのであろうか?
実は、僕がこれをテクスト化した理由は、猟奇的興味でも、事件の意外な周縁的面白さでも、ない。またしても、それは芥川龍之介という森へと繋がる獣道である――
もう一度、その最後をお読み頂きたい。
『この時の悲劇はほんとうに突發的なもので、路傍に電線が垂れ下がつてゐて偶然それに觸れた人が感電したのと同じやうなわけだつた。何の原因があるでもなく誰のせゐでもない。もしL氏がほかの人と結婚して別の場所に暮してゐたら、彼は何の怪我もなく、學校の案内もよく知らずに侵入した泥棒は、校長かほかの先生かの指を二ほん切り落しただけで、殺人もしなかつたであらう。通り魔といふやうな物すごい一瞬の出來事ではあつたが、初めの一つの不幸がいくつもの不幸を引いて來たと言はれるかもしれない。生徒たちは學校の體面をおもひ、また二本の指を失くした未亡人の姿を朝に晩に見てゐるので、それ以後だれも決してこの悲しい事件を口に出すものはゐなかつた。しかし物に感じやすい少女たちの心にはいろいろな陰影がうごいてゐて、神祕的に考へるものと常識的に考へるものと、それはただ彼等のをさない心の世界にだけくり返された問答であつた。(中略)
もうすでに一世紀の半分ほどを經過してゐるけれど、その事件を身近く見聞きした人たちの幾人かがまだ生きてゐると思ふ。その人たちの平和としづかな餘生を祈りたい、私自身もその中に含めてである。』
勝手に省略し書き換えてみよう――
『この時の悲劇はほんとうに突發的なもので、路傍に電線が垂れ下がつてゐて偶然それに觸れた人が感電したのと同じやうなわけだつた。何の原因があるでもなく誰のせゐでもない。もし芥川龍之介氏がほかの人と結婚して別の場所に暮してゐたら、彼は何の怪我もなく、指を二ほん程切り落しただけで、自殺もしなかつたであらう。不安といふやうなぼんやりした一瞬の出來事ではあつたが、初めの一つの不幸がいくつもの不幸を引いて來たと言はれるかもしれない。私たちは社会や家族の體面をおもひ、氏を失くした未亡人の姿を見てゐるので、それ以後だれも決してこの悲しい事件を口に出すものはゐなかつた。しかし物に感じやすい女たちの心にはいろいろな陰影がうごいてゐて、神祕的に考へるものと常識的に考へるものと、それはただ彼等のをさない心の世界にだけくり返された問答であつた。もうすでに四半世紀ほどを經過してゐるけれど、その事件を身近く見聞きした人たちの幾人かがまだ生きてゐると思ふ。その人たちの平和としづかな餘生を祈りたい、私自身もその中に含めてである。』
――これは勝手な言葉遊びでは、ある――
しかし路傍の電線に僕は直に「或阿呆の一生」のあの電線のスパアクを思い出した――
――松村みね子(=片山廣子)は芥川龍之介の自死を救い得なかったことを、何処かで後悔していたことは事実である。――救う? いや、彼女は思わなかっただろうか? 『彼が私と逢わなかったならば……』、そうして『私が彼とあわなかったとしたら……』と――彼の死後に「或阿呆の一生」を読んだみね子は、それをことあるごとに想起したに違いないみね子は、あの「越し人」の章をそのような思いと共に読まずに居られたであろうか? 『私自身もその中に含めてである。』と末尾に記した折の、その彼女のふっと制止したペン先が、僕には、見えるのである――
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