松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記
以下、松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」に出現するイニシャルすべてについて、非力の僕の同定した人物・場所をお示しする。全くの見当違いもないとは言えない。御自分でも検証されたい。また、誤りを発見された方は、お教え頂けると幸いである。
・「AR氏」 芥川龍之介。
・「S氏」 松村みね子が和歌で師事していた歌人の佐々木信綱を同定候補としておく。
・「T町」 田端。
・「藝術家M氏」 田端に当時居住していた小説家でない芸術家で「M」のイニシャルを持つ人物は、洋画家の寺内萬治郎(てらうちまんじろう)がいる。【2010年5月5日訂正】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pより、室生犀星に同定。
・「MK」 小島政二郎。「赤い本の編輯」は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』。芥川龍之介在世当時から同誌の編纂に携わっていた(小島の「眼中の人」等を読むと著名作家の代筆までやってのけたことが告白されている)。【2010年5月5日訂正】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pより訂正。宮木喜久雄(みやぎきくお (明治38(1905)年~?)詩人。大正14(1925)年20歳で室生犀星門を叩き、堀辰雄・中野重治・窪川鶴次郎らと共に同人誌『驢馬』を創刊、昭和3(1928)年の同誌終刊後はプロレタリア文学運動に傾斜、自身が社長であった『戦旗』に作品を発表、二度に渡って投獄されている。「赤い本の編輯」は私の勘違いで『赤い鳥』ではなく、アカの本=左翼の雑誌『戦旗』のことである。
・「H」 堀辰雄であろう。堀辰雄は後に芥川龍之介と松村みね子(片山廣子)とその娘の片山総子をモデルとした「聖家族」にものしている通り、龍之介とみね子との悶々たる関係を知っており、更にはみね子の娘である総子と堀辰雄自身の恋愛感情もあったようである。本作も多くはみね子が堀を通して得た情報をもとにして書かれているのではなかろうかと思われる。【2010年5月5日同定確定】昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」229pによる。
・「N」 記される留置の事実等から特定は容易と思われるが、不明。これが芥川龍之介の「使徒」の一人であるなら、イニシャルから言うと「龍門の四天王」と呼ばれた南部修太郎がいるが、ちょっと違うか。【2010年5月5日補正】堀と宮木の友人で、留置の嫌疑がかけられる人物は一人しかいない。『驢馬』同人の中野重治である。但し、昭和50(1975)年講談社刊近藤冨枝「田端文士村」に引用されるこのエピソードは堀と宮木だけの話となっており、この人物は登場していない。
・「N縣O村」 現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分。例のみね子との虹のエピソードの場所である(『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』を参照)。
・「H」 堀辰雄。
・「M」 不明。これは叙述の先例から言うと先の「小島政二郎」と読めてしまうが、「HもMもまだ文科の學生だつた」と述べていることから違う人物である。この時は堀が親しく龍之介に近侍していることから大正14(1925)年の8月20日~9月7日までの軽井沢滞在での体験である(前年の堀との邂逅は7月4日の堀の訪問があり、翌日5日の午後二時に堀は帰京しているので考えにくい)。なお、この時期外れの龍之介の軽井沢訪問は、恋慕の情の止みがたいみね子に逢わないようにするためであったことは、良く知られた事実である。【2009年11月22日追記】2005年講談社刊の「物語の女 宗瑛を探して」で著者の川村湊氏は、この「M」を丸岡明と推定されている。丸岡は後の堀辰雄の弟子になる作家であるが、明治40(1907)年生まれで、暁星中学校を経て、昭和2(1927)年に慶応義塾予科に入学している(その後、同大学仏文科へ進学)。厳密には未だ中学生で、この大正14(1925)年に『文科の學生』とは言い難いが、まあ、許容出来る範囲ではあろう。
・「K氏」 不詳だが、この時、軽井沢の定宿であった「鶴屋旅館」の主人が同行している。現在の同旅館の主人の姓は「小峰」である。
・「IK」 窪川(佐多)稲子。この前半に記されるのは、彼女16歳の折、大正9(1920)年上野池之端の料亭清凌亭で座敷女中として約一年働いていた際のエピソード。後半の芥川家来訪をみね子は「一週間ばかり前」とするが実際には昭和2(1927)年7月21日で、実に自死した24日に先立つ僅か3日前であった。佐多稲子の「年譜の行間」(但し1992年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」からの孫引き)によれば、佐多が以前に自殺未遂下したことを知っていて、
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芥川さんがあたしにおっしゃったことといえば、いきなり、『あなたは自殺するときに何を飲んだんですか』ということだったのです。で、あたしはジアールを飲みました、とお返事をしたんです。芥川さんはベロナールだったんですね。そうしたら『生き返ったあと、また死のうと思いませんか』って。だから、『いいえ、思いません』と。
とにかくそう訊かれたときに、変なことを訊かれる、と思ったわ。
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この後に佐多も言っているが、確かに「幸せな結婚した相手の男」と一緒に来訪してきた彼女にこう聴くのは不気味であることは当然であろう――丁度その「幸せな結婚した」はずの「相手の男」が、10年後には自分よりも20(窪川よりも19)年上の田村俊子に心奪われることとなるとは思いもしなかったことも、当然であるように――。
・「K」 評論家・詩人、窪川鶴次郎。佐多稲子と結婚。後、窪川と田村俊子との不倫から離婚する。【2009年11月22日追記】2005年講談社刊の「物語の女 宗瑛を探して」で著者の川村湊氏は、この「K」を小穴隆一と推定されている。小穴と芥川は「耳が悪い」「鼻が悪い」と言い合える、心を許した間柄であるからとその根拠を示されるのであるが、当該場面では、それぞれその言葉をH(堀辰雄)にこっそり別個に話すというのであるから、ここにはそのように『言い合える間柄』が現前して描かれているとは言えない。自死を逸早く打ち明けた小穴なればこそ、正に川村氏が言う通り、堀辰雄にではなく、小穴に直接語るはずであり、強烈な個性の持ち主であった小穴も「鼻が悪い」と芥川に直言したはずである。
・「M氏門」 「M」は室生犀星であろう。窪川鶴次郎は同じ若い文学グループの中野重治や堀辰雄・宮木喜久雄と共に親しく犀星のもとを訪れ、『驢馬』の創刊に関わった。但し、この自律的なグループに「門下」という謂いが正しいかどうかは、やや疑問ではある(犀星自身が「先生」付けで呼ぶことを禁じ、同人誌に対しても金は出すが口は出さないという姿勢を貫いているからである)。【この「M氏門」の注には2010年5月5日に一部追加補正を加えた。】
・「W伯爵夫人」 不明。この忘年の7月7日のパーティの件は震災以後にも以前にも年譜の中には発見できなかった。正直言うと、あんまり同定の興味も湧かない。
・「S町」 修善寺。
・「A氏がS町に行つてる時分は非常な元氣だつた」 これは叙述に現れる小説と、最後に記される笹巻の処理先から大正14(1925)年4月10日から5月初めまで修善寺新井旅館へ静養に行った折のエピソードと分かる。
・「すの字とか、への字とか、たの字の話とか、そんな風の小説だつた。」(底本は下線部は傍点「丶」) これは大正14(1925)年6月発行の雑誌『女性』に発表された「温泉だより」(注:左のリンクは、僕は未だ当該作品をテクスト化していないので、既存の「青空文庫」の当該作品へとリンクしている)を指す。萩野半之丞という大工を主人公とした話で、固有名詞の表記を『「か」の字村』『「お」の字街道』『「た」の字病院』等とする。芥川は作中これを『これは國木田獨歩の使つた國粹的省略法に從つたのです』と述べている。(旧全集書簡番号一三一六の4月29日付修善寺発小穴隆一宛書簡に『原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行書いてしまつた勿論書けてゐるかどうか心もとない。』と記している)。
・「K町」 鎌倉。
・「KM家」 久米正雄。修善寺を発って(鷺只雄の推定では5月3日)、一部目的不明ながら大磯・鎌倉に足跡を残しており、病臥していた親友の久米を見舞っていることが分かっている。なお、この修善寺滞在中に、まさにあの“越し人”みね子への相聞歌が創られたこと、この後、5月6日の田端帰宅までの所在不明期間があることは、既に『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』で述べた。
最後に。
――みね子自身この作品で語ってよいであろう最後の芥川龍之介の姿について、彼女は全く語っていないのである。また芥川龍之介の各種年表にも以下に記す事跡は記載されていない――
松村みね子の電子テクストの底本である2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」の「略年譜」の「1927年(昭和2年)四十九歳」の項に以下のように記載されている――
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六月末、堀辰雄の案内で芥川龍之介が廣子の自宅を訪れる。
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蛇足。これで終わりにする。
芥川龍之介「輕井澤で――「追憶」の代はりに――」の最後のアフォリズム……僕には確かに聴こえる、その音色が……