芥川龍之介 人を殺したかしら?――或畫家の話―― 附 別稿「夢」及び別稿断片」
夕刻、芥川龍之介「人を殺したかしら?――或畫家の話―― 附 別稿「夢」及び別稿断片」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは残されたとすれば芥川龍之介最後の小説となった幻の作品である(幻という謂いについては冒頭注を参照されたい)。
以下は今、全くの偶然に気づいたことであるが――
この「人を殺したかしら?」の末尾の脱稿の日付と思われるものを御覧頂きたい。
(二・五・二六)
とある。昭和2年5月26日である。
これは奇しくも、先に僕が『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』で芥川龍之介が松村みね子と軽井沢で密会したと推定している、あの所在不明の期間のど真ん中のクレジットである。
葛巻は「未定稿集」の本作の注の最後でこの日付に触れて『この時、彼は東京にいなかった。五月中旬から出かけた東北・北海道への講演旅行の帰りに新潟高等学校で、最後の講演「ポオの一面」を講演している。とすれは帰京匆々にこの脱稿日附を旅行前に既に成っていた小説に書き入れたにしろ、その日付は合わないことになる。とすれば、それは何だったのだろうか?――本当のところは編者にもよくわからないが、強いて想像するならば、その遺稿の一つとして発表された小説「歯車」の各章別につけられた、脱稿日附の異様な速度は、後に各編集担当者相談の上、除いたように(それは彼には何かの目的があったのかも知れないが、)――少なくとも小説「歯車」に関する限りでは、――作られた[やぶちゃん注:下線部は原本では傍点「丶」。]日附だった。』と記している。
ここで葛巻はあたかも26日に新潟高等学校の講演があったように記している。しかし、そうじゃない、講演は23又は24日に終わっているのだ。だからこそ、僕にはこのまさに「作られた日附」の意味が分かるのだ。
彼は恰もこの日に実際に居た場所を特定されないように、そうしてあたかもどこかで執筆をしていたかのように、アリバイを作る必要があったのだ。
そうしてそれは、松村みね子との最後の密会を隠すためであったと、僕は思うのである……死を決して、なおアリバイが必要かって?
死を決しても死に至るまでは、それは「飴のように延びた蒼ざめた時間」という美事な日常だからな、と言っておこう、それは死を決した、すなわち死んだ人間以外には答えられない答えだからな――