松村みね子 黑猫
松村みね子「黑猫」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
僕は嘗てこれを読んだ時、その巧まぬ衝撃的叙述に息を呑んだ。
冒頭から淡々と語られる文学少女のような日常的拡散のディスクールが終局に至って詩人としてのみね子の「情念」という座標軸によって非日常へと慄っとする美麗さに変貌する――
『そのとき暗い二階の階子(はしご)をみし/\させて大きな黑猫が下りて私の前に來た。同時にそとにゐた二人の人たちもふさ子も力餠を見に中にはいつて來た。
Aさんはちよつ/\と猫を呼んで、猫の長いしつぽをひつぱつて見た。私はびつくりして、あなたは猫はお好き? と訊いて、非常に犬が嫌ひなこの人は猫もきらひな筈だとおもつた。
Aさんは猫は好きだと云つて兩手で猫の頭を抑へてもんでゐた。猫はうるさくなつたと見えて私の方へ寄つて來たから、何氣なしに背中をなでてゐると、背中をなでると胴ながになりますと、Aさんがおどかすやうな聲で云つた。背中をなでると猫が胴ながになるといふことは昔の年寄たちのいひ慣れた言葉だつたのを私もそのとき思ひ出したが、しかし、その猫はもうすでに非常な胴ながだつた。そして瘠せてゐて長い尾を持つた西洋だねだつたやうである。猫はいゝ加減に撫でてもらふとするりとぬけて尾を振りながら、二階のはしごを上がつて行つた。
Aさんは二階を見上げてゐたが、ふいと私の方を向いて、あなたはかういふ二階を御存じないでせう? 僕は高等學校時代に旅行したときこんな宿にも泊つたことがあります、と言つた。私たちはしばらく二階の方を見てゐたが、猫はそれきり下りて來なかつた。
Mさんとふさ子はそのときもう火鉢のそばに腰かけて茶を飮んでゐたやうだつた。』
これはタルコスフスキイのワンシーンのように、ワンカット・ワンシーンの中に、不思議に猫を含めたあらゆる登場人物がフレーム・アウトし、あり得ない方向から再びフレーム・インするかのような目くるめく幻暈だ――そこで交わされる台詞や映像は、前衛演劇やヌーベルヴァーグのように観客である読者を美事に、突き刺す――そして
『頭のなかで山の茶屋の黑猫とうちの庭の黑猫と二疋の姿が入りみだれて、それが自分の姿に交じつて來ると、しまひには猫が自分だつたやうな氣がして來る。』
それはシュールレアリスムの祝祭――続く終行は、僕等をエクスタシーのうちに窒息させる――
『庭には影が見えないが、今たしかに黑猫が私の中をとほりすぎた。』
――この「猫」として「芥川龍之介」を演じる「僕」ならば、「松村みね子」であるかも知れない「貴女」に、この作品を、贈りたい――