片山廣子 大へび小へび
片山廣子「大へび小へび」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
……世の中には蛇の嫌いな奴もいる。僕は昨年、そんな奴のために不快な思いをした――私事に於いて蛇嫌いであるといった生理的感覚を仕事に持ち込むお前に、僕は世間的な蛇嫌いの感じる生理的嫌悪感以上の反吐の出そうな嫌悪感を感じたのだ。将に虫唾が走るというやつだ。この作品の公開は言わばその愚劣なお前への捧げ物である。いっとう感じるのは僕の授業ではお馴染みの安部公房の「日常性の壁」を読んでもらいたいのだが、残念乍ら、著作権の絡みで無理なのが惜しい。いつでもお前に、それを渡す準備は出来ている。いや、良かったら、僕の「日常性の壁」の授業を聞きに来るがいい。何時でも、待ってるぜ――ちなみに言っておこう。安部の作品は勿論のこと、この「大へび小へび」も、高等学校一年の国語教科書、昭和34(1959)年1月東京書籍刊の柳田國男編「新編国語 綜合編一」に「大蛇・小蛇」の題で所収されているぜ――僕は思う、何だったら、蛇嫌いのお前が、教科書を作るが、いいさ。蛇のいない、のっぺりとした、退屈な、去勢された、おためごかしにさえならない、進学校向けの、「おまえ」の教科書を、な――
ああ、しかし――鬱憤を語るのが、勿論、本意ではない。
『しかし大小はともあれ、どんな大むかしでも、蛇は今日と同じくによろによろしてゐたに違ひない。女が氣持よくそんな物と話をしたといふのが不思議である。さうするとイデンの蛇は無形の物で、イヴの頭の中にだけ見えたのかもしれない。イヴはその頭の中の蛇といろんな問答をして、樹の實を食べる決心をしたと考へてみれば、かなり素ばらしい生意氣な女であつたやうで、それがわれわれ女性みんなの先祖であつた。』
いいなあ、この物謂い! 僕には松村みね子は芥川龍之介と対等に語る女性であることは勿論、ここでの語り口、まるで女クマグスのようではないか!縦横無尽、スパっと、ね!