片山廣子 その他もろもろ(初出復元版)
片山廣子「その他もろもろ」(初出復元版)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。僕は松村みね子(どうも片山廣子という名は僕にはしっくりこない)の作品をある種の思い入れなしに読めなくなっている。以下は、例によって、勝手な感想である。
第一の視点。
「そして一世に名をうたはれたその美しい人がどんなに疲れやつれて、どんな姿で旅をしたらうなどと考へてみた。亂れた髮を長く垂らし灰色のきものを着て杖をついてゐる小町のさすらひの姿は、何かの畫でも見てゐるけれど、お面のやうな端麗な顏の女性が杖をもつて野原を歩いてゆく時、彼女は何か小さい荷物を持つてゐたかしら、などと考へてみた。」
僕には、「亂れた髮を長く垂らし灰色のきものを着て杖をついてゐる」みね子が、ふと手元の旅の「小さい荷物」に目を落とす様が、見える――
「小さい荷物もあるかなしに枯野をあるく昔の女とは違つて、私たちの毎日には何かしら好い香り、うつくしい色け、豐かな味、そんなものの少しつつでも與へられる時代となつた。それは「暮しの手帖」に書き入れられるもろもろの好い物であると言つてもよろしい。衣食足つてと言つた昔の人のゆめにも知らない今日のわれわれの生活はとぼしく裸であるけれど、その中にも出來るだけの知慧をしぼつて、夢と現實とを入れまぜたもろもろの好い物を見出してゆきたい。」
と薔薇色のロマンを夢見るように、一見、ポジティヴに語りを閉じるみね子――しかし、僕は何処かでみね子が、芥川龍之介亡き後、ロマンの老いを感じながら「小さい荷物もあるかなしに枯野をあるく昔の女」となっているという意識を持っていはしないだろうか、持っていたに違いないと、思うのである――
第二の視点。
末尾の削除。それは、単行本化には掲載雑誌の題名への少し辛口な物謂いというのが相応しくなかったからとも言えるのだろう(ちなみに本誌は後に「暮らしの手帖」と改題するが、古書店の在庫リストを見ると「美しい」は昭和29年の当該誌でも用いているので誌名の変更による不要削除の可能性はない)。しかし、僕は、この単行本出版の3年後の昭和31(1956)年の「経済白書」が、かの有名な「もはや戦後ではない」という言葉を用いたのを思い出すのだ。
「美しい暮し」というところまで行きつくのには、まだ途は遠いのであらうかと思はれる。」
という末尾は、ある「近く」から微かな春のような甘い香りが多くの大衆に心地良く漂い始めつつあったその頃に、少し相応しくないような気もする。いや、だからみね子はカットしたのではない――もしかすると、みね子は、その後にやってくる、気狂い染みた「美しい暮し」としての高度経済成長の饗宴を、何処かで既に予兆し、不安していたのではなかったか? だからこそ、単行本の本作の末尾を「衣食足つてと言つた昔の人のゆめにも知らない今日のわれわれの生活はとぼしく裸であるけれど、その中にも出來るだけの知慧をしぼつて、夢と現實とを入れまぜたもろもろの好い物を見出してゆきたい。」と、敗戦の後の『どっこい生きてた』から続く「戦後」の、経済的な貧しさと精神の豊かさという真実を、確かに意識したかったのではなかろうか――
みね子の出自のよさを問題にしたり、彼女の文壇での芥川龍之介や堀辰雄との振舞いを手前勝手なファム・ファータル扱いにする(正しい「宿命の女」としての意味ならば強ち外れているとは思わない)捉え方もあるが、それらは僕とは天を同じくしない。みね子は現代の僕にとってさえ、実に魅力的存在であることを失わないのである――