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2008/01/13

松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実

 

松村みね子「五月と六月」の冒頭は次のように始まる。

 
『いつの五月か、樹のしげつた丘の上で友人と會食したことがある。その人は長い旅から歸つて來て私ともう一人をよんでくれたのだが、もう一人は、急に家内に病人が出來て、どうしても來られなかつた。で、一人と一人であつたが、彼は非常に好い話手であつた。』

 
しかし、この「いつかの五月」の丘の上の食事と後述される碓氷峠の二人の散策(僕はこれを同じ時期の二人の軽井沢での密会でセットのものであろうと考えている)は現在、不完全ながら日割り単位で明らかにされている芥川龍之介の年譜の中に、記されていない事実なのである。芥川龍之介が五月に軽井沢に居たという記録は、実は現在の年譜類から見出すことが出来ないのである。
彼が最初に軽井沢を訪れたのは大正13(1924)年の7月22日のことであり(8月23日迄滞在)、投宿した定宿となる鶴屋旅館に於いて、始めて松村みね子と出逢っている(みね子の投宿は7月27日であるが、この日芥川はグリーンホテルに泊まっている山本有三を訪問し、そこに一泊しているので実際の邂逅は28日か)。
この時、二人の最も有名なエピソードが二つある。一つは7月13日の夜、同宿の彼女と彼女の娘の片山総子及び室生犀星に鶴屋の主人の五人で碓氷峠へ月見に行ったことで、もう一つは、7月19日、みね子と鶴屋主人と追分(おいわけ・わかれさ)に行き、美しい虹を見たというエピソードである(後の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」にも「追分」でのシーンが現れるが、これはみね子が恐らく堀辰雄から聞いた伝聞であろう。この日とは全く別な折のことであり、そのシーンの中にはみね子はいない)。
さて、当然、ここで言う「五月」は、翌大正14(1925)年以降、死の昭和2(1927)年迄の3年間の何れかの五月でなくてはならない。『その人は長い旅から歸つて來て私ともう一人をよんでくれたのだが』という叙述が、切り札となる。芥川龍之介が五月(若しくは四月から五月にかけて)「長い旅行」に出かけた――「旅行」という言辞は断じて「静養」や「養生」のための温泉行等を示さない。それはある目的を持った仕事としての「旅行」である――のは、一つしかない。死の年である(ちなみに1992年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の大正14(1925)年の項(170p)の「最後の軽井沢」というコラムの最後で鷺は『この年の再訪が芥川の軽井沢行きの最後になった。』と締めくくっている。鷺は芥川の軽井沢訪問は前年とこの二度きりであるとするのである)。
その昭和2(1927)年5月13日に芥川龍之介は改造社の『現代日本文学全集』宣伝のために里見弴と共に東北・北海道に「講演旅行」に出かけた。その日程については、芥川龍之介「東北・北海道・新潟」の電子テクストの僕の注を見て頂きたいのだが、その講演旅行が終わった後、芥川龍之介は改造社宣伝班の連中と別れて、恩師の依頼による新潟高等学校での単独講演に向った。24日(月)に新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演を行った後、同校教官らと宿舎であった篠田旅館にて座談会をしたとされる(1993年岩波書店刊宮坂覺(さとる)編「芥川龍之介全集総索引付年譜」では『「新潟新聞」記事より』という注を附してこれを24日の項に入れているが、前掲書で鷺只雄はこれらを23或いは24日としている)。
芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」を見てみよう。これは軽いノリのアフォリズムである。その終わりから二つ目。

 
『信越線の汽車中――新潟の藝者らしい女が一人(り)、電燈の光の中に卷煙草をすつてゐる。卵の殼に似た顏をしながら。』

 
芥川は23日か24日、新潟高校の講演を終えたその日の夜に信越線に乗車した。だから「電燈の光の中」の芸者を見た。
再び、冒頭の僕の注の日程に戻られたい。現在の資料ではこの時の芥川龍之介の田端への帰宅について、鷺は5月27日(木)、宮坂は推定として28日(金)にクレジットしている。
23日(又は24日)~27日(又は28日)の日録に凡そ最小で3日間、最大で4日間程度の空白がある。龍之介はどこで何をしていたか? 信越線に乗車したことはまず間違いない。とすれば、彼が途中下車したのは軽井沢であった可能性が高い。
松村みね子に「丘の上の食事」を「もう一人」(これは誰であるか不明。堀辰雄辺りを考えて見るが思いつきでしかない)と共に招待していたとすれば、それは講演旅行前か最中(但しこれはかなりの強行軍であったのでその可能性はやや減じられると思う)に約束されたものであったに違いない。「丘」は旧軽井沢から東の方の丘陵地帯か。例えばこれは「万平ホテル」での午餐ではなかったか。食後に別れをかわすから、松村と芥川は別々な宿をとっている。それが例えば万平ホテル(もしくは離れたグリーンホテルや別なホテルでもよいのだが)と鶴屋旅館であったとすればどうか(二人共に密会の気分があったとすれば鶴屋旅館を避けた可能性もあろう)。僕は万平ホテルに行ったことがないから、そこに「丘の上の食事」に相当する場所があるかどうか、知らない。ホテルから西下すれば矢ヶ崎川があるが、そこに「タキシイの広い」(これは“taxiway”で門からのエントランスが広いことを言っているのだろうか)屋敷があるかどうかも、知らない。鶴屋旅館は矢ヶ崎川を渡って北上する位置にはある。

 
続く碓氷峠の跋渉はその翌日でもあったか。

 
「何が通るんでせう、あの道は?」
「なにか通る時もあるんです。人間にしろ、狐にしろ。……道ですから、何かが通りますよ」
 さう云はれると忽ち私の心が狐になつてその道を東に向つて飛んでいく、と思つた。

 
禅問答のような会話が、タルコフスキイの映画の台詞のように印象的だ。そうしてそこに付け加えるみね子のさりげないアイルランド的ケルト的幻想的な洒落た一文が胸を撃つ。

 
勿論、松村の昭和2(1927)年23日(又は24日)~27日(又は28日)のアリバイが立証されてしまえば、僕の空想はオジャンだ。この期間の軽井沢の天気も雨だったらあり得はしない。勝手な思い込みだ。また、前者は間違いないにしても、後者の碓氷峠のエピソードは大正14(1926)年の5月又は大正15・昭和元(1926)年の5月でなかったとは言えない。それぞれの当該年の5月の事跡には、どちらにも疑おうと思えば疑えるやや不明な期間がある。例えば大正14年5月3日~6日迄は修善寺の静養の帰り、三日間程所在不明である。この時はしかし大磯・鎌倉にポイントの足跡を残しているので、遥か彼方の軽井沢までの強行軍をしたとは考え難い。ただ――ただ、この修善寺静養中の4月17日に室生犀星宛書簡でみね子への恋情の煩悶を詠んだ例の絶唱を詠んでおり、それは不思議にこのエピソードの情景と一致するようにも思える――

 歎きはよしやつきずとも
 君につたへむすべもがな。
 越(こし)のやまかぜふき晴るる
 あまつそらには雲もなし。

 また立ちかへる水無月の
 歎きをたれにかたるべき
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる

最後に付け加えるならば、大正15・昭和元(1926)年の5月は専ら鵠沼にあって、肉体的にも精神的にも相当などん底にいた。ちなみに小穴隆一によれば前月の4月15日に自殺の決意を告白しているから、僕としてはこの年ではないという直観はある。

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