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2008/02/29

明日卒業する子らへ

卒業おめでとう。

人間の人間たる所以は他者と同じ凡夫であると自らを知ることにある。

他者と違った者として自らを選民するような輩を君は愛さないであろう。

愛とは、占有や他者化ではなく、私もあなたも同じく惨めな人間という存在であるという認識以外からは生まれないからだ。そのような自己増殖的連鎖性を持たぬものは愛と呼べぬ。

旅する中で偶然に立ち寄ったこの「村」で、私が唯一心惹かれたのは大平凡主義(この「主義」という謂いは微妙に留保したいのだが)という古い「掟」であった。

どうか君、この村を出ても、偉大なる凡夫であり続けよ!

「もともと地上に、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(魯迅「故郷」より)

そうして

あなたは眠らない限り夢を見よ――

                    やぶちゃんより

2008/02/27

ゲーデルの不完全性定理

教育と狂育と心と非心そして完璧な「智」の現場の発狂のエクスタシーと不可逆的突然死の定理

□ゲーデルの第1不完全性定理 
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
□ゲーデルの第2不完全性定理 
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

■ゲーデル第1不完全性定理より導かれる準公理 
形式的教育論を含む帰納的に記述できる管理職による学校経営系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
■ゲーデル第2不完全性定理より導かれる準公理   
形式的教育論を含む帰納的に記述できる管理職による学校経営系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

管理職と教師の双方向の信頼が失われた学校は最早「学校で在ること」が無化されている。

学校は学校ではない――

2008/02/26

他者に生を教えられる事

僕はただつまらない生を生きていることに於いて人後に落ちない

僕は他者によっておぞましい自己を教えられることに感謝する

僕はあなたのようでありあなたのようでないことを望む人間だ

僕は深海の老海鼠でありたいと思いながら現世に生きる

僕は何者かに自身を海鼠として食われたいと望む

僕は自己存在が無価値であることを証明する

僕は僕という認識を放棄する

僕は僕では確かにない

僕は僕ではない――

2008/02/25

寺島良安 和漢三才圖會 巻第五十 魚類 河湖無鱗魚 完結!

先ほど、最後の「氷魚」(アユ稚魚)をアップして、寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十 魚類 河湖無鱗魚」を完結した。水族の部では遂に残すは亀と蟹類の「巻第四十六 介甲部」のみとなった。正直、発奮してまだ1年経っていない(スタートは昨年の4月下旬)。ここまで辿り着く僕を僕は全く予測していなかった。誰かの台詞ではないが、ちょっぴり自分で自分を褒めてやりたい気になっている。

2008/02/23

フィオナ・マクラオド作 松村みね子訳 精/魚と蠅の祝日

神経症的な異常な仕事から、やっと一時、解放された。おぞましい現実を忘れるには、みね子訳のマクラオドのケルト幻想に若くはない。

フィオナ・マクラオド作・松村みね子訳「精」を、また同じく「魚と蠅の祝日」を(やぶちゃんによる合冊版)として「海豹」の前に追加し、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

僕は、この「精」こそみね子のマクラオド作品の金字塔と思う。僕は、この作品のラストシーンを惜しみつつ読み、読みながら恥ずかしくも通勤の車中であり乍ら、落涙していたのを思い出す――

実は、それぞれのテキスト注にも記していることであるが、底本の井村君江女史の解題によればみね子が「かなしき女王」の翻訳底本に用いたと思われるマウラオド全集第2巻には芥川龍之介の蔵書印があったという。彼女は言う。『みね子は、翻訳に使用していたこの大切な一冊を、思い出と共に芥川に贈っていたのであった。』――この出版の、同じ年の同じ月、大正15(1925)年3月1日、芥川龍之介は雑誌『明星』に「越びと」を発表している。

はっきりと言おう――僕はこの作品集自体が、松村みね子の芥川龍之介への恋文であると信じて疑わないのである。

そうしてこの恋文「かなしき女王」の思いと表現方法を受けて、芥川龍之介は「最期」の返礼の恋文として、昭和2(1927)年4月、あの「三つのなぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」を書いたのではなかったか? と思えるのである――

2008/02/15

誕生日の贈り物2

教え子の切り絵

海鼠の切り絵はもしかすると何処かにあるかもしれん

しかしこのキュヴィエ管を吐き出している海鼠の切り絵は世界に一枚しかないと確信する

感謝を込めて記念とします

Namako

(これは“Exlibris Puer Eternus”の“Cordyloceps aurum Yaburonsky,2007(冬虫夏草 被寄生種 Pedalternorotandomovens centoroculatus articulatus)”を描いた子と同一人物です)

誕生日の贈り物1

教え子が遠い自宅で僕の誕生日を祝ってケーキを作って蝋燭を灯して祝ってくれたその写真を送ってくれた。感謝を込めて記念とします

080214_21540001

2008/02/14

猪瀬達郎先生遺言

本日故「たっつあん」猪瀬達郎先生の奥様から、心の籠もった丁寧な御手紙を頂いた。聞書きで不完全であった正しい遺言を読んだ。「悼猪瀬達郎先生」に追加で書き記したので、先生を知る方はお読み下さい。

2008/02/11

教え子のメールから「猪瀬先生の笑顔に」

  友を喪ふ 四章  
             三好達治

   首 途

眞夜中に 格納庫を出た飛行船は
ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて
梶井君 君はそのまま昇天した
友よ ああ暫らくのお別れだ・・・ おつつけ僕から訪ねよう!

   展 墓

梶井君 今僕のかうして窓から眺めてゐる 病院の庭に
山羊の親仔が鳴いてゐる 新緑の梢を雲が飛びすぎる
その樹立の向こうに 籠の雲雀が歌つてゐる
僕は考へる ここを退院したなら 君のお墓に詣らうと

   路 上

巻いた樂譜を手にもつて 君は丘から降りてきた 歌ひながら
村から僕は歸つてきた ステッキを振りながら
・・・ある雲は夕燒のして春の畠
それはそのまま思ひ出のやうなひと時を 遠くに富士がみえて

   服 喪

啼きながら鴉がすぎる いま春の日の眞晝どき
僕の心は喪服を着て 窓に凭れる 友よ
友よ 空に消えた鴉の聲 木の間を歩む少女らの
日向に光る黑髪の 悲しや 美しや あはれ命あるこのひと時を 僕は見る

――僕のブログから猪瀬達郎先生の訃報を知った昔の教え子が 今さっき僕に送ってくれたメールから――そうだね、猪瀬先生の笑顔は最後まで少年だった――

2008/02/10

悼猪瀬達郎先生 梶井基次郎 冬の蠅

猪瀬達郎先生の好きだった梶井基次郎「冬の蠅」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。曾て草稿と一緒に公開しようと打ち込んだものであるが、追悼として掲げたい。

悼猪瀬達郎先生 猪瀬達郎句集 叢蟾集 蘭秋

亡き我が師への追悼として猪瀨達郎句集「叢蟾集」「蘭秋」を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。

2008/02/09

悼猪瀬達郎先生

今日、僕が唯一国語の教師の「師」として尊敬する猪瀬達郎先生が、一月二十一日に肝不全で亡くなったことを知った(故人の遺志により自由葬・御香料・御供物等一切無用とのこと)。

梶井基次郎論が卒論であり、主任教授だった吉田精一が大学院に残って一緒に研究しないかと水を向けた切れ者、舞岡高校で御一緒してからというもの、定年後も肝臓癌と同棲しながら、僕の青臭い文学論を昔と変わらず酒を介して対等に相手してくれた気骨ある国語教師、昨年冨永太郎文学展に御一緒した折ここ一番小説を書くことを薦め、その気になったおられたのに――いや、何よりも文学者は須らく売文の士に過ぎぬことを教えてくれた唯一の「僕のラビ」であった――

その最後の言葉を奥様から頂いた御手紙から引用する。

一年ほど前から予感はありました。

しかし老少不定 人それぞれに定命というものがある。

自分の一生をふり返ってみると苦労の連続の中で成長し、長ずるに及んでは、さしたる社会的貢献もせずに今日まで来てしまった。しかし格別の悔いもない。

平々凡々の人生に今は満足して宇宙の塵になるつもりです。

 では 皆様さようなら

                 猪  瀬  達  郎

                 平成二十年一月十日 記

フィオナ・マクラオド作 松村みね子訳 女王スカァアの笑い + かなしき女王(やぶちゃんによる合冊版)

フィオナ・マクラオド作・松村みね子訳「女王スカァアの笑い + かなしき女王」(やぶちゃんによる合冊版)を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。冒頭注にやや拘って記したように、この合冊化は私の恣意である。私はまだ分からないが、そこから何かが浮かび上がる直感がする。

クウフリンの美しさのモンタージュは

タルコフスキーのスカルプティング――

何より素敵で慄っとしてモーショナルな

「奇妙な果実」――

琴手コンラの胸の上の熾き火の明かりで

ケルトの神話を読みながら――

――僕は この女王スカァアに逢いたい いや

殺されたいと心から思ったのだ――

2008/02/06

人魚の学名

動物界脊椎動物門哺乳綱正獣下綱サル目(霊長類)サル亜綱サル下目(狭鼻猿類)ヒト科ヒト属ニンギョ(人魚)亜種 Homo nostosalgos sapiens Yabunovich Tadasky,2008

実在する「人魚」の学名は可憐な黄色い花を咲かせるサボテンの仲間のメセン科Rabiea属のニンギョ(人魚)Rabiea difformis。 「月姫」とも言うらしい。何と美しい名であろう。芥川龍之介の「月の光の中にいるような」というあの言葉を思い出させる――

いのさん、この花を今日は、贈るよ――

Rabiea_difformis

 

 This image is © Copyright G. J. Ardisson 1999-2007

(HP“CACTUS and SUCCULENTS PAGE by GERARD ARDISSON ”所収の写真画像をそのまま使用)

僕はこの花を亡き井上英作氏に贈ったのであって、他の誰にも贈っていない――これは僕の美しいと感じた「花」の彼への弔花――だから勝手に著作権を犯してるのは、確信犯なのであって……ただただ、一方的に、お逢いしたこともないけれど、GERARD ARDISSONさんにお許しと感謝を――

古武士 井上英作忌

君の怒りを焼いた浄火は残った我々自身の業火である――

   將東遊題壁   釋月性
  
  男兒立志出郷關
  學若無成不復還
  埋骨何期墳墓地
  人閒到処有青山

   將に東遊せんとして壁に題す   釋月性

  男兒 志立てて 郷關を出づ
  學若し成る無くんば 復た還らず
  骨埋むるに 何ぞ期せん 墳墓の地
  人閒 到る処に 青山有り

井上英作:

1949年生。2007年2月6日未明静岡県庁前に於いてガソリンを煽り不当な静岡空港建設及び同県の産業廃棄物不法投棄及びイラク派兵反対等の抗議のために自らの身に火を放ち旅立った遂に逢うことのなかった畏兄。僕の電子テクストには彼の遺稿「フィリピーナ・ラプソディー」がある。

2008/02/04

存在

今 僕は一杯の焼酎を酌むために書斎を出た――

妻はカウチで寝ていてTVは宇宙で死んだイスラエル人の宇宙飛行士のドキュメントを無駄に流していた――

僕はそれを焼酎を汲みながら少し聞いて再び書斎に戻った――

その番組が語ろうとしていたことが腑に落ちるのだ――

数分聞いただけのに何故か腑に落ちた――

今日 僕は職場で尊敬する哲学的数学者が僕に語りかけてきたことを思い出していた――

彼は――宇宙空間に出た人々、宇宙遊泳をした人々は不思議に後に宗教的な世界に誰も向ってゆくんだね と語った――

僕は思うのだ――

僕が宇宙遊泳をしたとき

上も下もない

そこにあるのは数学的哲学的思惟としての無限でも闇でもない

「ちっぽけな存在」と僕らがいつも口にする大それた概念的存在でもない

そこにあるのは――

真の無限であり無であり闇であり存在ならざる僕である――

――僕達はほんとうの無限や孤独には決して絶えられは――

しないのだ――

僕は救助すべき僕を持たない 否 我々の一個の存在とはそのような謂いであるという非情を確かに感じたのである――

神神

   神神

最も洗練された傳承や説話に殘る神神が慈悲に滿ちつゝ説教臭い癖に、よく考へれば現實的には理不盡で過剰に禁欲的である故は、偏へに其れが愚劣に近代的な支配者層の人種に依つて作成された在り得べからざる神に過ぎないと云ふこと、取りも直さずさうした何ものかを統制せんが爲に最下劣な神を作成し得ると愚かにも考へ得た人間そのもののアリバイとして表象された存在に過ぎないといふことの證明である。

翻れば、最も古い驅逐されたと思しき古譚に痕跡として顯現せる神神(それは或時は後世の壓迫によつて精靈と云ひ物の怪とも呼ばはるのではあるが)が、我々の欲望と同じく、否、其れを突き拔けつゝ殘酷であり無慈悲であり乍ら何故されど我々の胸を打つ程に愛を語り戀に炎を燃やすのかといふは、取りも直さず本來の我々の眞(まこと)なる心の想像する處の神神が、我々の中に、我々の間近に、我々と共に在ることを、自づと證明してゐる――エリアアデは云ふ、「俗の中にこそ聖は潛む」と――

(「贋作・侏儒の言葉」より。恣意的に正字正仮名に直した)

2008/02/03

片山廣子 アラン島

片山廣子「アラン島」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に正字正仮名で公開した。

僕はアラン島が好きである。シングの「アラン島」も映画の「アラン島」も勿論だが、実際の島、アランが好きである。2003年の殺人的猛暑の中、僕はアラン島を訪ねている。島蔭をゆっくりとロバが弾く荷車が行く――古代ケルト人の城跡ドゥーン・エンガスの断崖の縁には流石の僕も遂に立てずに匍匐した――古代の日時計、忘れられた墓、風、十字架、海鳴り――

……今日も僕はあそこで買った数少ない買い物(僕は旅行をしても何も買わないし衣料品に至っては自分で日常的に買ったことがない)のケルトの文様の入った如何にも漁師がやっていそうな黒と赤のお気に入りの「アランのマフラー」をしている……

――更に言えば、実はこれも僕には芥川龍之介との絡みのものとして読まれるのであるが、それを「する」ためにはある資料が必要だ。普通の図書館に行けば、すぐに手に入るのだが、その「時間」がない。暫く、暖めておくことにする……

2008/02/02

寺島良安 和漢三才圖會 巻第四十九 魚類 江海有鱗魚 完結記念――人魚の思い出に――フイオナ・マクラオド作 松村みね子訳 海豹

寺島良安「和漢三才圖會 巻第四十九 魚類 江海有鱗魚」完結記念――人魚の思い出に――フイオナ・マクラオド作・松村みね子訳の「海豹」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

90000アクセス記念 寺島良安 和漢三才圖會 巻第四十九 魚類 江海有鱗魚 完結

ブログ90000アクセス記念として寺島良安「和漢三才圖會 巻第四十九 魚類 江海有鱗魚」に「魚虎」(シャチ)・「人魚」(ジュゴン)・「勒魚」(ネンブツダイ?)を追加して本巻を完結した。

2008/02/01

『今日と同じ心境でいつの日か死を迎えるとしたなら……』

今日と同じ心境でいつの日か死を迎えるとしたなら、
私はその瞬間を、未練のない心でごく自然に受け入れるだろう。
心は、安らかである。
だがただひとつ思うならば、「もっと学びたかった」とこぼすのかもしれない。
それは、己の怠惰を嘆くものではない。
学べども学べども学び尽くすことのありえないということである。
それゆえに、学ぶほどにこの世界の広大無辺の身に沁みて、
知への熱望が絶えることなく湧き上がってくるということである。

 

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

 

そんな句が頭をふとよぎる。

 

時間が欲しい。切実にそう思う。
次にこれを読もうとリストに書物を加えるスピードが、読む速さを優に超えている。

 

「世界は一冊の本だ。旅をしない者はその本を1頁しか読めないであろう」
といったのはアウグスティヌスだった。
そこにあるのは、世界を書物とするというだけの単なる比喩ではないであろう。
そこには、学ぶということと、旅をするということの相似性が見え隠れしている。
「学ぶ」という行為の中に、我々は旅を見つける。
知識の海などという言い回しにはもう随分と飽きているが、
しかし未知の知識を学ぶことに我々は旅と似通った感情を見つける。
学ぶことのワクワク感、スリル、感動、それはまるで旅情だ。
学ぶことで我々は見知らぬ世界へと誘われる。旅において、我々は見知らぬ世界へと赴く。
学ぶということはすなわち旅である。
芭蕉の句が引かれるのは、そういったわけであった。

 

果たすべき使命を全て果たし終え、その過程においてあらゆる世界を知り、学び、
それでも、「もっと学びたかった」とこぼす。
そうして、この世的なあらゆる執着や未練を残さぬまま、安らかに往生するのだ。

 

死に際の青写真が、くっきりと浮かんだ。
まだ、俺、18なのに[やぶちゃん注:中略。]

 

我に学ばんとするもの、集い来たらん。

 

後輩と話をしながら、ふとなんだか妙にうらやましいようなそんな感情が湧いてくるのをしみじみと感じる。
懐かしさとも交じり合った、そんなしみじみとした感慨が。
大人は青年によく、「若いっていいな」とか「可能性があっていいな」とかいいたがるものだ。
だがそれは恐らく、大人の特権として与えられたセリフではないのだろう。
実際、私自身一つ下の後輩に、そんな気持ちを抱くのだから。
時を一つ一つ重ねるごとに、人は一つ一つ可能性の扉を閉める。
一般的な言い回しをするならそういうことだろうか。
大人は自らの若い頃の像を、青年に重ねる。
それと同じように、一年若い後輩は、多かれ少なかれ一年前の自分自身の生き写しとして映るのだと思う。
まだ現状よりも多くの可能性や選択肢を持つ自分自身の姿をそこに求めながら。[やぶちゃん注:中略。]

 

凪いだ心を、大きな大きな恍惚感がふつふつと満たす。
突然のことだった。だがそれは、えもいわれぬ悦びだ。
この空が、木々が、語りかけるように迫る。
目に映るものの全てが心の琴線に触れる。
あぁ、世界は美しい。

 

全てを、許してしまおう。
全てに許しを与えよう。
そんな時には、こんな心持ちがする[やぶちゃん注:中略。]

 

あなた自身ほど、しばしばあなたを裏切ってきたものはいるか。

 

[やぶちゃん注:後略。最終行の下線はやぶ。]

 

 

これは誰の言葉であろう?――確かにそれは僕の内在する神の声である――

 

僕はこれを書いた彼に心から「友」を感じるのである――そう、この素敵な(僕は長い人生の中で「素敵だ」と感じることはそうありはしなかったではないか?)言葉は、勿論、僕の言葉ではない――確かにそれは僕の数少ない「友」の言葉である――いや、僕と言う凡庸な人生を送ってしまった人間への確かな「戒」=「解」――ではなかったか?

 

――これは僕がまさに「今」見たあるブログからの引用である。そうして――

 

そうしてそのブログの筆者は――

 

彼は――僕が『高校生として』最後に三木清の「旅について」を先日教授した彼――現役の高校三年生の青年の言葉なのである――

 

[やぶちゃん注:僕は本来ならば、君のブログへのリンクを張るべきである。許して呉れ給え、君よ。いや、それは君に分かっている。君が、僕という糞のようなレッテルとしての「教師」という存在「からの」自由を得て初めて、その先にある「僕」というみじめな存在をも含めた、ものに「おいての」自由の「友」となって、このみじめな僕のもとに確かに君が戻ってきてくれることが、僕には確かなものとして分かるからである。そうして最後に君にだけ言おう、『寂しさを、楽しめ!』と。]

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