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2008/02/01

『今日と同じ心境でいつの日か死を迎えるとしたなら……』

今日と同じ心境でいつの日か死を迎えるとしたなら、
私はその瞬間を、未練のない心でごく自然に受け入れるだろう。
心は、安らかである。
だがただひとつ思うならば、「もっと学びたかった」とこぼすのかもしれない。
それは、己の怠惰を嘆くものではない。
学べども学べども学び尽くすことのありえないということである。
それゆえに、学ぶほどにこの世界の広大無辺の身に沁みて、
知への熱望が絶えることなく湧き上がってくるということである。

 

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

 

そんな句が頭をふとよぎる。

 

時間が欲しい。切実にそう思う。
次にこれを読もうとリストに書物を加えるスピードが、読む速さを優に超えている。

 

「世界は一冊の本だ。旅をしない者はその本を1頁しか読めないであろう」
といったのはアウグスティヌスだった。
そこにあるのは、世界を書物とするというだけの単なる比喩ではないであろう。
そこには、学ぶということと、旅をするということの相似性が見え隠れしている。
「学ぶ」という行為の中に、我々は旅を見つける。
知識の海などという言い回しにはもう随分と飽きているが、
しかし未知の知識を学ぶことに我々は旅と似通った感情を見つける。
学ぶことのワクワク感、スリル、感動、それはまるで旅情だ。
学ぶことで我々は見知らぬ世界へと誘われる。旅において、我々は見知らぬ世界へと赴く。
学ぶということはすなわち旅である。
芭蕉の句が引かれるのは、そういったわけであった。

 

果たすべき使命を全て果たし終え、その過程においてあらゆる世界を知り、学び、
それでも、「もっと学びたかった」とこぼす。
そうして、この世的なあらゆる執着や未練を残さぬまま、安らかに往生するのだ。

 

死に際の青写真が、くっきりと浮かんだ。
まだ、俺、18なのに[やぶちゃん注:中略。]

 

我に学ばんとするもの、集い来たらん。

 

後輩と話をしながら、ふとなんだか妙にうらやましいようなそんな感情が湧いてくるのをしみじみと感じる。
懐かしさとも交じり合った、そんなしみじみとした感慨が。
大人は青年によく、「若いっていいな」とか「可能性があっていいな」とかいいたがるものだ。
だがそれは恐らく、大人の特権として与えられたセリフではないのだろう。
実際、私自身一つ下の後輩に、そんな気持ちを抱くのだから。
時を一つ一つ重ねるごとに、人は一つ一つ可能性の扉を閉める。
一般的な言い回しをするならそういうことだろうか。
大人は自らの若い頃の像を、青年に重ねる。
それと同じように、一年若い後輩は、多かれ少なかれ一年前の自分自身の生き写しとして映るのだと思う。
まだ現状よりも多くの可能性や選択肢を持つ自分自身の姿をそこに求めながら。[やぶちゃん注:中略。]

 

凪いだ心を、大きな大きな恍惚感がふつふつと満たす。
突然のことだった。だがそれは、えもいわれぬ悦びだ。
この空が、木々が、語りかけるように迫る。
目に映るものの全てが心の琴線に触れる。
あぁ、世界は美しい。

 

全てを、許してしまおう。
全てに許しを与えよう。
そんな時には、こんな心持ちがする[やぶちゃん注:中略。]

 

あなた自身ほど、しばしばあなたを裏切ってきたものはいるか。

 

[やぶちゃん注:後略。最終行の下線はやぶ。]

 

 

これは誰の言葉であろう?――確かにそれは僕の内在する神の声である――

 

僕はこれを書いた彼に心から「友」を感じるのである――そう、この素敵な(僕は長い人生の中で「素敵だ」と感じることはそうありはしなかったではないか?)言葉は、勿論、僕の言葉ではない――確かにそれは僕の数少ない「友」の言葉である――いや、僕と言う凡庸な人生を送ってしまった人間への確かな「戒」=「解」――ではなかったか?

 

――これは僕がまさに「今」見たあるブログからの引用である。そうして――

 

そうしてそのブログの筆者は――

 

彼は――僕が『高校生として』最後に三木清の「旅について」を先日教授した彼――現役の高校三年生の青年の言葉なのである――

 

[やぶちゃん注:僕は本来ならば、君のブログへのリンクを張るべきである。許して呉れ給え、君よ。いや、それは君に分かっている。君が、僕という糞のようなレッテルとしての「教師」という存在「からの」自由を得て初めて、その先にある「僕」というみじめな存在をも含めた、ものに「おいての」自由の「友」となって、このみじめな僕のもとに確かに君が戻ってきてくれることが、僕には確かなものとして分かるからである。そうして最後に君にだけ言おう、『寂しさを、楽しめ!』と。]

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