「忘れ得ぬ人々14 西原のお兄ちゃんのオモニ」の写真は、そのお兄ちゃんが僕の父を訪ねてくれたことで、アップ出来たのであった。
そのお兄ちゃんが、今、僕にメールを呉れた。僕は、20代の頃、お兄ちゃんにお酒をおごってもらったことがある。例によって、僕はべろべろに酔っ払って、そうして、偉そうに、朝鮮の人々の哀しみがわかります、なんどと言い放った自分の恥ずかしさを今、思い出す。
でも、それは西原のお兄ちゃんが、ご自身のお子さんの誕生に「人の痛みを分かる人間になって欲しい」と語られたことを、父母への手紙で知っていたからであった。
僕はお兄ちゃんの、不肖であっても、「弟」なのである。であればこそ、僕は、確かに「わかる」のでなくては、ならなかったし、僕は確かに、南北に分断されているこの一つの同胞、一つの民族の、あってはならなかった悲劇を、不断に忘れない。
あの、先日公開した僕の「『高校生による「こゝろ」講義後小論文』最新一篇「トゥワイス・ボーン」追加」論文の作者も、在日朝鮮人である。そうして、彼は今の日本の教育に失望し、明日、アメリカに旅立つのだった――
錯綜する表現をお許し頂きたい――
そのお兄ちゃんのメールを一部紹介する。
今日の僕は、今日の僕を、久し振りに「僕らしく生きられた」気がするのである――
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先日、たぁちゃんのお父さん・お母さんとお会い出来、感激の時間を持つことが出来ました。
[やぶちゃん注:「たぁちゃん」とは僕の幼少の頃の呼び名である。]
そして、今日メールを開くと、先生からの追伸を頂きました。
そのメールに触れると、何故か目頭が熱くなりました。
そして、たぁちゃんのメールアドレスとブログが記されておりました。
[やぶちゃん注:「先生」とは「忘れ得ぬ人々14」に記した絵を教えた父のことを指す。]
私自身はブログ等を検索するのは始めての経験であり、「忘れ得ぬ人々14」にたどり着くのにかなりの時間を要しましたが、その文章に触れ、夫婦二人して心温まるのを感じました。
昔、おふくろの作ってくれたキムチの味が改めて思い起こされます。
そしてお寺の山門で開いた展覧会の情景を思い出します。
自分もそんな時代があったのだと。
私の心が高揚しているのは自分でも分かります。
近々にはお会いできるよう、たぁちゃんの活躍を期待しています。
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――お兄ちゃん、非力な僕です。そんなに期待しないで下さい。でも、また、一緒に、お酒、飲んで下さい。