島崎藤村 芥川龍之介君のこと
僕は今日、これを翻刻しながら、普通にHPにアップするつもりでいた。しかし、翻刻しながら、その愚かな解に腸が煮えくり返ってきた。島崎藤村というこの最愚劣な男の台詞を、HPに載せて、少なくとも僕の玄室を穢したくないと思った。そこで、せめてこのブログに載せて終わりとしたい。意外な顛末の電子テクストとはなった。
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[やぶちゃん注:本作は昭和2(1927)年11月発行の雑誌「文藝春秋」に掲載された後、昭和3(1928)年の「市井にありて」の中に所収された。また昭和32(1957)年新潮社刊の福田恆存編「芥川龍之介研究」にも採録されている。底本は昭和46(1971)年筑摩書房刊の全集類聚「芥川龍之介全集」別巻を用いたが、私のポリシーにより恣意的に新字を正字に換えた。芥川龍之介の引用の一部は、一字下げで現われるが、明白であるので一切無視した(それは藤村特有の、芥川龍之介の文章を特に差別化するようで、よくあることではありながら、幽かな不愉快を僕は感じた)。段落ごとに僕の極めて批判的恣意的注を附した。]
芥川龍之介君のこと 島崎藤村
芥川龍之介君の死は全く思ひがけなかつた。君がある友人に遺したといふ手紙の發表された時にも、私はそれを東京朝日の紙上で讀んで、どうしてこの人が死なゝければならなかつたかとさへ思つた。あの遺書は死に直面した人とも思はれないほどの落着きをもつて書いてあつた。おそらく、芥川君自身ですらあれほど落着いて書けたことを不思議に考へずにはゐられなかつたらう。
芥川君のことについては、君の友人諸君やその他の人達がすでにいろ/\と書いた後だ。それに眼を通したといふだけのことであつたら、蔭ながら私も君の死を惜しむ心をもつて、君の遺書を読み返して見ようと思ふ程度にとゞめたかも知れない。それほど君の死は思ひがけないことであり、そんなにこの世を急いで行つた心持がどうもあの友人に遺した手紙だけでは辿られなかつたのである。ところがこの私に、もつとよく君を知らうと思ふ心を起させることがあつた。
最近に、芥川君の遺稿『ある阿呆の一生』を讀んだ。久米君がはしがきの中にもあるやうに、あれは故人の『自傳的エツキス』であり、また一個の『作品』として讀むべきものであらう。師事した人のことも書いてあるし、讀んで見た書籍のことも書いてあるし、交つて見た友のことも書いてある。普通の自傳とも違つて、故人の生涯の眼に見えない重要な部分があの中に語つてある。
『ある阿呆の一生』の作者は、ストリンドベルクの『痴人の告白』を讀みはじめて、二頁と讀まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐたと言ひ、ストリンドベルクも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼(この場合、作者自身)と大差のない譃を書いてゐると言ひ、『……不相變いろ/\な本を讀みつゞけた。しかしルウソウの「懺悔録」さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出逢つたことはなかつた……』
と言つてある。
一體にあの遺稿は心象のみを記すにとゞめたやうなもので、その他を省いたやうな書き振りであるが、こゝに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思はれる。私はこれを讀んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映つたかと思つた。
[やぶちゃん注:これは芥川龍之介の「或阿呆の一生」の「四十六 譃」の
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡徳や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。
絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す訣はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。
丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。……
及び、藤村が後で言及するように「侏儒の言葉」の『「新生」讀後』の
果して「新生」はあつたであらうか?
を受ける。如何にもいやらしい品のない謂いだ。お前の「新生」以外に、煙草じゃあるまいし、何があるってんだ!]
知己は逢ひがたい。『ある阿呆の一生』を讀んで私の胸に殘ることは、私があの『新生』で書かうとしたことも、その自分の意圖も、おそらく芥川君には讀んで貰へなかつたらうといふことである。私の『新生』は最早十年の前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかつたであらうかと思ふ。しかし私がここで何を言つて見たところで、芥川君は最早答へることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとゞまる。でも、あゝいふ遺稿の中の言葉が氣に掛つて、もつと芥川君をよく知らうと思ふやうになつた。そして『ある阿呆の一生』ばかりでなく、『侏儒の言葉』なども讀み返して見る氣になつた。
芥川君が分け入つた道の薄暗さを知るには『ある阿呆の一生』にまさるものはなからう。あの中に感知せらるゝやうな作者の悲愴な激情も、何人の假面をも剥いで見ようとしたやうなあの勇氣も、病人のやうに纖細なあの感覺も、世紀末的な詩人を思ひ出させる。それにしても日頃私の想像してゐた芥川君はもつと別の人で、あれほど君が『世紀末の惡鬼』にさいなまれてゐようとは思ひがけなかつた。
あの遺稿に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の一つ一つを通しても、君が感じた精神の寂寥を覗き見る心地がした。
秋季特別號の『中央公論』をあけて見ると、正宗君は芥川君の『孤獨地獄』や『徃生繪卷』などを引いて、早くから芥川君の内部に潛んでゐた孤獨感を指摘し、さういふ意味での芥川君が單なる藝術至上主義者でなかつたことを言ひ、芥川君が孤獨を痛感した人達に無關心ではゐられない人であつたと言ひ、それあるが故に以前から芥川君の作品に共鳴を感じたと言つてあるのは、成程と思つて讀んだ。孤獨地獄――芥川君が作中の人物の言葉をかりて言へば、山間岡曠野樹下空中、何處へでも忽然として現はれる地獄――目前の境界が、直ぐそのまゝ、現前するところの地獄の苦艱――人はこんな寂寥に耐へられる筈もない。そこで情熱的なルウソオよりも理智に富んヲ゛ルテエルが、二十九歳にしてもう人生は少しも明るくなかつたといふ芥川君に『人工の翼』を供給したとある。
[やぶちゃん注:この叙述は巧妙に他者の言を引いて、しかも都合のいい藤村の論理に導くための布石としてある。
・秋季特別號の『中央公論』……:以下の正宗論文は昭和2(1927)年10月発行の雑誌「中央公論」に掲載された正宗白鳥の「芥川龍之介氏の文学を論ず」を指すものと思われる。
・「苦艱」:は「くげん」若しくは「くかん」と読む。苦難。
・「ヲ゛ルテエル」:「ヲ゛」は底本では一活字の「ヲ」の右上に濁点である。本テクストでは「ヲ」の次に「゛」を打ってある。横書翻刻なのでこのようにして不自然ではないが、コピーして縦書にして読む場合は、注意されたい。以下同じ。]
『人工の翼』とはもとより形容の言葉だ。そこには日常の生活にのみ齷齪(あくせく)としてゐない人の心がある。飛翔の世界がある。しかしそれを『人工の翼』と言って見るところに、芥川君の言葉癖が出てゐるのみならず、何となく君の特色までも窺へるやうな氣がする。
芥川君に見つける特色の一つは、人工的なものの愛といふことであらう。『ある阿呆の一生』 によると、あの主人公はまだ上着のポケットに同人雜誌へ發表する原稿を潛ませてゐたといふ頃に、雨中の架空線が鋭い紫色の火花を發したのを見て、その凄まじい空中の火花だけは命と取り換へても捉へたかつたといふところがあるが、イマジナリイな美を探し求める芥川君の心はそんなに若い頃から萌してゐたかと思はれる。
人工的なものの愛が、人生の孤獨感、寂莫感に根ざしてゐることは確かだと思ふ。たゞ芥川君がその『人工の翼』をひろげて何處までも進み行かうとした人であるか、その點で君はそれほど深入りした人とも見えない。何故かなら、人工的なものの愛とは、言ふまでもなく自然を厭ひ、自然を匡正(きやうせい)しようとし、あるひは自然を超えようとする心持から來てゐる。もしその心持を押し進めて行くなら、自然は一切の善美なものの源ではなくて、むしろその反對に、諸惡諸醜の源であると見做されなければならない。人工を加へたものほど善く、人工を加へたものほど美しいとするのは、多くの世紀末的な詩人に見るところでもある。
これほど自然を無視する心は、芥川君にはなかつた。君はあのアツシツシのやうな麻酔剤の力をかりてまで幻覺的な『人工の樂園』に耽らうとするほどの人ではなかつたと思ふ。
『我々の自然を愛する所以は――少くもその所以の一つは、自然は我々人間のやうに妬んだり欺いたりしないからである』
と君の『侏儒の言葉』には言つてある。
[やぶちゃん注:藤村は芥川龍之介の言う「人工の翼」の意味を、全く理解していない。自然と人工の如何にもな噴飯的二元論で語っている彼は、最早、智を失ったミイラとしか言いようがないと、僕は思う。
・匡正:矯正。
・アツシツシ:ハッシッシ。大麻樹脂のこと。]
『ある阿呆の一生』の作者には、精神の寂寥を感じた點で、世紀末的な惱みを惱んだ點で、逆説的な言説を好んだ點で、人工的なものを愛した點で、幾多の似よりをあの『惡の華』の詩人などに見出すのであるが、また『人生は一行(いちぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない』と言ってあるところもあるが、しかし芥川君はそれほど孤獨に徹しようとした人ではないらしい。この世の薄暗さの中を平氣で歩いて行かうとした人とも見えない。そこから君を引き戻さうとした力もあつたのではないかと思ふ。さういふ中でも、最後まで君を引き戻さうとした一番強い力はあのギヨエテではなかつたらうかと思ふ。
ギヨエテのことを敍する芥川君の筆は、『ある阿呆の一生』の中でも特別の愛をもつて書いてあるやうに見える。
『デイワ゛ンはもう一度彼の心に新しい力を與へようとした。それは彼の知らずにゐた『東洋的なギヨエテ』だつた。彼はあらゆる善惡の彼岸に悠々と立つてゐるギヨエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ギヨエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心の中にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花を開いてゐた。もしこの詩人の足あとを辿る多少の力を持つてゐたなら――役はデイワ゛ンを讀み了り、恐しい感動の靜まった後しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。』
芥川君はポオやボオドレエルの闇黒とギヨエテの日光との間を往來した人のやうに見える。そのいづれへ行くにも君はあまり聰明であり過ぎたかとも思ふ。
[やぶちゃん注:藤村は芥川龍之介に「智」に過ぎた人間の破滅を見ているが、破滅しない藤村は、自身をある意味、確かな「生の人間」と認識しているところに、途轍もなく救い難い手前勝手な「鼻もひね曲る腥さい人間」観が露呈していると僕は思う。芥川も確かに現実は手前勝手だった。しかし、お前ほど、その生臭さを、しかも金儲けの詐術には遣っては、いないよ。
・「デイワ゛ン」:「侏儒の言葉」の原文では英文の“Divan”で、ゲーテの1819年刊行の「西東詩集」である。「ワ゛」は底本では一活字の「ワ」の右上に濁点である。本テクストでは「ワ」の次に「゛」を打ってある。横書翻刻なのでこのようにして不自然ではないが、コピーして縦書にして読む場合は、注意されたい。]
慧敏(けいびん)であることは、もとより多くの人が芥川君に許したところである。もつと君が心の貧しい人であの鋭さを挫いたなら、と思はれないでもない。
ヲ゛ルテエルが芥川君に給供したといふ『人工の翼』も無限に役立つほどの性質のものではなかつたらう。君がその翼をひろげて、やすくと空へ舞ひ上つた時は、理智の光を浴びた人生の歡びや悲しみが日の下に沈んで行つたと言ひ、見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら遮るもののない空中を眞直に太陽へ登つて行つたと言つてゐるが、その翼の折れたと感づいた時も君にはあつたらうと思ふ。そこに人のはかなさがある。自然の打ち勝ちがたさがある。そして、それを感づいた時は、發狂か自殺かだけが眼の前にあつたやうな落膽の深淵のどん底に君自身を見つけた時ではなかつたらうかと思ふ。最後には、君はヲ゛ルテエルを輕蔑すると言ふやうな人であつた。もし理性に終始するとすれば、人は自分等の存在に滿腔の呪詛(じゆそ)を加へなければならないと言ふやうな人であつた。
『ある阿呆の一生』の終の方に、作者は友人の狂をあはれみ、自己の一生を振り返つて見て、涙や冷笑のこみ上げるのを感じたと述懷してゐるところがある。この作者の生涯の花やかであつたことを思ひ、讀んであの遺稿の終の方にいたると、『霰雪飄零』の感に打たれる。
[やぶちゃん注:藤村の自己愛撫的合理化が顕著に現われる部分である。彼は飛べない、いや飛べないからこその全的な自己存在をお目出度くも全肯定する。それが彼の精神の不潔なところであると私は思う。その不潔さは、その位置する処に関わらず、全て全き愚劣な存在を胸を張って(小説にするという行為自体がそれを物語る)はな持ちならない自己肯定をする愚劣さにあると私は思っている。
・霰雪飄零:陶淵明の詩「答龐參軍 并序」に現われる。失いたくなかった旧友謝晦への陶淵明の限りないオードである。「かつてあなたと別れたのは鶯の鳴く何もかもが萌え出づる春だった。でも今、こうして便りを得て再会した時、今は、霰や雪の降るもの寂しい季節となり、君も又、すっかり変わってしまった。」の意。島崎藤村に使って欲しくない引用である。藤村よ、君は十全に謝晦ではあっても、淵明では、決して、ない。]
芥川君が一皮は死を倶(とも)にしようかとまで思つたほどの一人の婦人のあつたといふことも、何となく見逃せないやうな氣がする。それを思ひ直して、獨りでこの世を去らうとしたところに、君の君らしさがある。その人のことはある友人に遺した手紙の中にも、『ある阿呆の一生』の中にも見える。それにつけても私は北村透谷君の短い生涯の終に近い頃に、あの舊友の前にあらはれて來た一人の女友のあつたことを思ひ出す。その女友は北村君よりも先に病死したが、その存在も、その人の死も、北村君の生涯の終に深い影響を與へた。その邊の消息は北村君が『哀詞』小序一篇に殘つてゐる。
北村透谷君の死を芥川君の死に比べた人もある。北村君はあの通り貧しさと戰ひつゞけて生前にはろく/\著書の出版をすら見なかつたほどの境遇にあつた人だから、芥川君の花やかさとは比較にもならない。唯、刃盡き失折れるまで芥川君の言葉をかりて言へば『刃のこぼれてしまつた細い劍を杖にしながら』の最後まで、ひるまない精神を持ちつゞけて行つたことはいくらか似てゐるかと思ふが、北村君の自殺はもつと先驅者らしい意識をもつて來るべき時代のために踏臺となることを覺悟しながら倒れて行つた形跡がある。正宗君が芥川君を評した言葉の中に、『氏は「孤獨地獄」の苦さをさほど痛切に感じてゐた人ではなかつたと同樣に、專心阿彌陀佛を追掛けてゐる人でもなかつたらしい……禪超や五位の入道の心境に對して理解もあり、同情をも寄せてゐたに關はらず、彼等ほど一向きに徹する力は缺いてゐた。』とあるが、これには私も同感だ。それにしても、あれほど懷疑に惱んだ芥川君がその最後に、神を力にした中世紀の人々の信仰を振り返つて見て、それを羨ましく感じたといふことは見逃がせないやうな氣もする。透谷君も最後には神の力の前へ、神の愛の前へもう一度自分を持つて行かうとしたが、それを信ずることも出來なくて自ら縊れて行つたことを思ひ出す。
『果して「新生」はあつたであらうか。』
斯う芥川君は『侏儒の言葉』の中で『新生』の主人公に、つゞいては作者としての私に問ひかけてゐる。芥川君は懺悔とか告白とかに重きを於いてあの『新生』を讀んだやうであるが、私としては懺悔といふことにそれほど重きを置いてあの作を書いたのではない。人間生活の眞實がいくらも私達の言葉で盡せるものでもなく又書きあらはせるものでもないことに心を潛めた上での人で、猶且つ私の書いたものが譃だと言はれるならば、私は進んでどんな非難に當りもしようが、もと/\私は自分を僞るほどの餘裕があつてあゝいふ作を書いたものでもない。当時私は心に激することがあつてあゝいふ作を書いたものの、私達の時代に濃いデカダンスをめがけて鶴嘴を打込んで見るつもりであつた。荒れすさんだ自分等の心を掘り起して見たら生きながらの地獄から、そのまゝ、あんな世界に活き返る日も來たと言って見たいつもりであつた。あれを芥川君に讀み返して貰へる日の二度と來ないことを思ふとさみしい。
それは兎もあれ、芥川君の惱んだ懷疑は私達と同じ時代の人の懷疑だ。その苦悶も私達と同じ時代の人の苦悶だ。あれほどの惱みを惱んで行つた人に對して、私達は哀惜のこゝろを寄せずにはゐられない。
(昭和二年七月)
[やぶちゃん注:私は小説家としての島崎藤村が大嫌いである(詩人としての藤村を愛する点では人後に落ちないことをここに述べておく)。今、この翻刻をして、いや、更に私は藤村嫌いになった。あの真に改革者にして憂鬱者であった透谷が芥川を読んでいたら、畏友藤村であったとしても、芥川龍之介の言を真とすると僕は確信する。――しかし、これは、この島崎藤村の文章は確かに「侏儒の言葉」への確かな、そこに批判された事実への唯一の内容証明附きの正真正銘の他ならぬ被批判者島崎藤村の真摯な物謂いである。従って、僕はこれをブログに記す。さりながら、多くの人に嫌われた藤村よ、僕は、やはり君を本質からして愛さない(大学時代に君の曾孫が同級生だったが、自己保全に汲々として人を貶めること巧妙、講義の時には教授の一番前の席に座りながら、ものの数十分で涎を流して居眠りをしていたのが忘れられない。それが所詮、君の、末裔であったのだ)。
・昭和二年七月:この底本編者がクレジットしたと思われる(昭和二年七月)という日付は不審である。文中、藤村が引く正宗白鳥の論文は同年10月発行の雑誌「中央公論」のものである。一般的慣例に従って一月早い出版であったとしても執筆7月の時点で『秋季特別號』はあり得ない。]
« 何もすることがない。君は私を当てにすることができる。私はそれを引き受ける。 ジャック・リゴー | トップページ | 私は、いわゆる死の壮麗さ、死の成果、死の誘惑、死の陶酔、死ぬことの誇り、そうした死を放棄する。 ジャック・リゴー »