何もすることがない。君は私を当てにすることができる。私はそれを引き受ける。 ジャック・リゴー
山より無事帰還せり。多大なる疲労と微かながらも沁みる満足……。それで僕の憂鬱は、確かに完成するのだ――
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何もすることがない。君は私を当にすることができる。私はそれを引き受ける。
(エディション・イレーヌ2007年刊亀井薫・松本完治訳 ジャック・リゴー「自殺総代理店」遺稿断片より)
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僕の解:(これは僕のたかが解であって、リゴーの意図を本質的には全く受容していない可能性が高高度であるかも知れぬ。しかし、それへの批判は勝手に君の心の内にあればよい。僕は僕の解を示すだけだ。議論はまっぴらごめんだね)
何もすることがない(私はそれ故にこそ次のように明言できる)。君は(何もすることがない)私(であるからこそ確かに私)を当てにすることができる(のであると)。(そうして何もすることがないその)私はそれ(即ち君が何もすることがない私を心から信じ心からその私に何ものかを――いや君が私に許しうる何がしかの極めてつまらぬものと認識されるものであってさえも――委ねてくれるのだというのっぴきならない覚悟)を(確かに十全のものとして確かに文字通りのっぴきならず)引き受ける(のだ!)。(僕はだから何もしない。いいか? 何もしない。そうしてそれを君はただその私が君に何もしないという事実だけを――いやその不作為の行為のみしかそこにはないのだから――当然のものとして引き受けなければならないのである。それ以外に君が「私を当にすることができる」方法は残されていないのだ。「君は私を当にすることができる。」それはその限定された謂いの中に於いてのみである。それ以外には、断じて、ない。)
……それにしても再三、述べるのであるが……このような「引用」とそれをからめたみじめな「自律的な謂い」がなければ、冒頭の語句を引用できないなんて……リゴーよ、 なんてぞっとする超素敵な弩級の愚劣さ加減だろうね!!!