(無題)
僕は、僕の節と異なるおぞましい何者かのために不本意ななにものをもなす気持ちはない。しかし現実はそのようなものとして僕を扱わず、僕は僕ならざる僕としてそこに立ち現われ、僕は僕ならざる存在として現実の中で機能していはしまいか。少なくとも「そのような反問をする必然性を失った自分」を考えると、これはまさに最下劣どころではないのだ。僕は僕でないということだ。僕は僕であることなど笑止である、という命題も実は正しいのかも知れぬではないか。では、何にでもなれということか。結構だ、何にでも多分、僕はなれるであろう、僕は僕ならざる僕ならば、いつでも僕はその「僕」を演じられる。それは僕でない分、気安い配役である。演じ難いのは、とりもなおさず、まさに純粋な自己自身である――ワルプルギュスの宴に、君に、僕の腐った精液を滴らせてあげよう……それで僕の憂鬱は完成するのだ……