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2008/05/31

直立す猿蓑着けて後影 唯至

先日、やはり通勤の車中で井本農一の「芭蕉入門」を再読した。
俳諧七部集の第五に当たる「猿蓑」は芭蕉にとってのエポック・メーキングな連句集となった。その題名は周知の通り、芭蕉46歳、元禄2年の9月24日、伊勢から伊賀越えをした折に得た

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

を巻頭句することによる。周知の通り、名実共に蕉門の最高傑作とされる連句集である。その「晋其角序」に言う。

我翁行脚のころ、伊賀越(ごえ)しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神(しん)を入たまひければ、たちまち斷腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。

まさに旧弊を打破し、真に進化した新しい芭蕉のオリジナルな「わび」「さび」を体現したそれは、『和歌伝統から抜け出た新しい俳諧を志す人々の指標になった句』(上記「芭蕉入門」より)であった。この句を安東次男氏は前のブログで述べた「芭蕉百五十句」で挙げ、「初」に動いた興が「小」を誘い出して「ひびき」「にほひ」の連句の付け合いが美事に活かされている、とし、『一行詩だけを作っていてはできない句である。蓑を着た(あるいは蓑をほしがっている)人間の目で眺めれば、この句は、猿にも小さな蓑をやれという思付の句になってしまう。そういう観察の次元からは離れて作られている』と快刀乱麻の解き明かしをし、井本氏は『久しぶりに伊賀の故郷へ帰ろうと、伊勢から山越えの道を歩いているとき、はらはらと初しぐれが降ってきた。折りしも風雅なことよと思い、時雨だからすぐ止むだろうと、木かげに雨宿りをしていると、近くの木に猿がいて時雨が降るのを見ている。人間もだが、猿も猿なりに小さな蓑を着て、このおもしろい初時雨の中を歩いてみたそうな様子であることよ』と鮮やかに釈す。僕には、井本氏の「猿がいて時雨が降るのを見ている」や「このおもしろい初時雨の中を歩いてみ」ようとする「新しい」猿が、その時、ふと見えた気がした。気がつくと、車中の扉近くに立っていた僕の前には、イヤホンをして音楽を聴きながら、丁度そぼ降る雨を、何か深く哲学するように眺めているホワイトカラーの若者が立っていた――そこで僕の戯れ句

直立す猿蓑着けて後影

水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉――明暗を取違えて凍てついた音ばかり聴きたがっていると解を謬る(安東次男)

昔読んだ安東次男の「芭蕉百五十句 俳言の読み方」(1989年文春文庫)を最近通勤の車中のみに限って読んでいる。この本、以前に読んだ時、安藤の如何にも千人万首に通ずる能はざる者は芭蕉を読むべからず風の博覧強記ぶりの口吻に大いに不愉快さを感じたものだが、今もって、学ばざる僕には相変わらずの煙たさ加減に変わりはない。

しかし、それでも長く一般的な解釈に安住出来ず、どこかそれらに「指の反り返った逆向けに触る」感覚を持っていた幾つかの句について、今回、目から鱗の思いも感じられるようになったことを考えると、確かに幾分かは僕も老成してきたのかも知れぬと思うのである。例えば、その一つが

水とりや氷の僧の沓の音

の句である。これは確かに古来、評者の議論の的であった。とかく、季節柄、実景の氷はないにしても、そこに氷るような冷厳な夜気や修法の厳粛さを解釈に持ち込む。果ては、蝶夢編「芭蕉翁発句集」(安永三年刊)の「水とりやこもりの僧の沓の音」の句から仮名の誤読説まで出現する(これは芭蕉真蹟本に「氷の僧」とあることから否定される)。それらを、安東は例によって人を馬鹿にした吐き捨てで切り捨てる。

『結氷にばかり気を取られて、氷は解けるものだということにどうして気づかないのだろう、とおかしくなるが、氷は結べば冬、解ければ春になるからこそ、俳諧師はこういう句を作りたくなったのではないか。お水取に参籠する十一人の練行衆は、本行の旬日前から別火坊に入って心身の用意をととのえ、常の白衣を紙衣(かみこ)に着替える。これは仙花紙をよくもみ、寒天を塗って僧たちが自分で作るが、十四日間の荒行で汚れ傷んだ法鎧(ほうがい)を脱ぎ去って、かれらが真新しい白衣の袖を通すのは二月十五日、破壇のあとである。すなわち東大寺の春だ。白がしんじつまぶしく、無垢に見えるのは一年中でこのときだけだろう。お水取は、結んで解けるのは氷ばかりでなく、紙衣も、参籠そのものも、そうだと納得のゆく行事である。句が云いたいのはまさにそのことに違いない。

 氷という呼称は冬に着用する襲(かさね)の色目にもある。表布は白の瑩(みがき)(糊張にしたあと打物(うちもの)にし、蛤の殻で磨いて仕上げる)、裏地は白無文。料紙なら鳥ノ子紙のかさねを云うが、紙衣はこの氷襲を用意に連想させる。それも芭蕉はよく知っていたと思う。いずれにしろ、「氷の僧」は春(白無垢)の光を呼ぶ確かな表現である。ならば「沓の音」も春を連れてくる音で、明暗を取違えて凍てついた音ばかり聴きたがっていると解を謬る。

 なお、「沓」は内陣でのみ履く木沓(差懸(さしかけ))で、第一、差懸などで閼伽井(あかい)の水は汲めない。六時行のそれぞれの初、とくに後夜(ごや)・晨朝(じんじょう)の須弥壇めぐり(散花(さんげ)行道)に、練行衆が鳴らす沓音は印象的なものだが、句はどこにも夜だとことわっているわけではない。』

そうだ、この映像は、暖かな春の日差しの中の白衣の僧の躍動感に溢れた沓の音の響きの中にこそ、あるのだ

と僕は通勤の車中にしたたかに両膝を打った(思い)であった。更に――そうした思いの中で僕はふと、その句の字面に気づいたのである。――安東氏は言う、『解ければ春』と――この句には、実に「氷」を解かすように、後に「僧」「沓」「音」と続く漢字の全てに「日」が差している。そうして、句をマクロに見れば

「水」とりや「氷」の僧の「沓」の音

水→氷→日(に解けて)水

という『結んで解ける』ところのその循環を鮮やかに示しているではないか――

芥川龍之介 奉教人の死 『傀儡師』版

芥川龍之介「奉教人の死」の作品集『傀儡師』版テクストを正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開。岩波版旧全集との校異を注記した。

以前のブログで示した芥川龍之介作品集『傀儡師』復元プロジェクトの第二段階に入る。現在、『傀儡師』に所収されているところの芥川作品はすべて僕のテクストに収まった。

その内、過去に既に僕が岩波版旧全集を底本とした翻刻したテクスト、「奉教人の死」「枯野抄」「蜘蛛の糸」「袈裟と盛遠」の4篇について、それを元に『傀儡師』を底本とした各テクストを追加作成する。今回はその第一弾。

それらが終了した段階で、『傀儡師』の箱・装丁その他を画像で取り込み、専用ページを設けてヴァーチャルにネット上で作品集『傀儡師』を味わうという趣向である。夏になる前には仕上げたいと思っている。

2008/05/28

芥川龍之介 地獄變

芥川龍之介「地獄變」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。既に青空文庫版に同じ底本になるテクストがあるが、冒頭の注に記したように、より底本に近い形で翻刻した。翻刻に際し、今回は該当の青空文庫版テクストをベースにさせて頂いた。ここにも謝しておきたい。そのテクストとの相違部分については冒頭注を必ずお読み頂きたい。
更に、オリジナルな
■芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注
のページを別に設けた。小説の注とはかくあって欲しいという僕の理想の注に、それなりに近いものとはなっていると思っている。

今日は風邪をこじらせて絶不調で、午後の休みをとった(現在、中間試験中)。ところが帰ったら建具屋が室内の修繕に来ており、寝るわけにも行かない。耳鳴りに悩まされつつ、鼻水をだらだら流しながらの文字通りの「地獄變」の公開となった。

2008/05/26

地獄の注記

『傀儡師』の、僕のサイトで残された最後の未テクスト作品、芥川龍之介の「地獄變」、その注記ページ作成作業に昨日から丸二日かけたが、終に完成しなかった(私の注記中、最も長いものとなった)。それでも、「十八」章まで終わり、後二章、数語句を残すのみとなった。今暫くお待ちあれ。

これで「地獄變」を高校生相手にしっかり授業出来る――という程度には自信作の注記となっていると思う。乞うご期待!

2008/05/20

芥川龍之介 毛利先生

芥川龍之介「毛利先生」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上に同作品集を底本とした「毛利先生」のテクストはない。

2008/05/17

芥川龍之介 首が落ちた話

芥川龍之介「首が落ちた話」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上に同作品集を底本とした「首が落ちた話」のテクストはない。

2008/05/15

芥川龍之介 或日の大石内蔵助

芥川龍之介「或日の大石内蔵助」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上に同作品集を底本とした「或日の大石内蔵助」のテクストはない。

僕はこの「或日の大石内蔵助」が殊の外に好きである。何故なら、中学一年の時に、授業で「羅生門」を読んで、家にあった芥川龍之介作品集をむさぼるように読んだのだが、その時に一番、目から鱗だったのが、この作品であったからだ。大河ドラマの「赤穂浪士」や、その頃(今もだが)繰り返し年末になると放映される「忠臣蔵」の映画やドラマのステレオタイプに、僕はもううんざりしていた。そんな中で、何故か大石が撞木町で酒色にふけるところだけは、妙に僕は心惹かれたのだった。そうして、そこでいつも僕は、大石が『もう、討ち入りなんかやめちゃおうっと!』って思ったんじゃないか、僕ならゼッタイそうだ、いや、きっと大石だってそうだったに違いないと子供ながらに、ませたひねくれた子供ながらに文法で言う確述として思っていたのだった。だから、芥川のこの大石は、目から鱗、確かに「確かな僕の大石内蔵助」であったのである。そうして、その後に現れるそのような解釈の「忠臣蔵」の大石像に対しても、『なん~だ、そんな大石はとっくに芥川龍之介が書いてるよ』と更に馬鹿にするようになったのであった。まさに僕の記念すべき芥川体験の一つであったのである。

2008/05/14

芥川龍之介 開化の殺人 附やぶちゃん注

芥川龍之介「開化の殺人」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上に同作品集を底本とした「開化の殺人」のテクストはない。

更に、オリジナルな

■芥川龍之介「開化の殺人」やぶちゃん注

のページを別に設けた。

2008/05/10

芥川龍之介 るしへる 附やぶちゃん注

芥川龍之介「るしへる」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上に同作品集を底本とした「るしへる」のテクストはない。

更に、オリジナルな

芥川龍之介「るしへる」やぶちゃん注

のページを別に設けた。

2008/05/08

予告『傀儡師』復元

新しい目論見は芥川龍之介の「作品集」のネット上での復元。

彼が「あの時」読ませようと思った作品群を再度、単行本化した時、そこには別なシチュエーションがあったはずだ。アップ・トゥ・デイトに組み替えられた作品群。だから、それを僕らが追体験しよう。

僕は先日、値崩れを起こして安くなったほるぷ社の復刻本の芥川龍之介作品集『傀儡師』をたったの千円で手に入れた。文庫で、これらの作品を新本で買ったら、とっても千円じゃあ、買えない。そこで、閃いたのだ。

もう一度、その時代に戻った庶民、読者になってみよう。そこから自由な芥川龍之介の生きた「あの時」の世界が見えてくるのではないかと――

今は「るしへる」に取り掛かっている。切支丹物はつらい。近世史は、僕の最も苦手とするところだからね。でも、ぼちぼちだらだら、下劣な世俗に愛想つかして隠棲した隠者のように、楽しめる、僕がいる、誰か一人ぐらいそれを面白がってくれる人がいれば、これは「何がさて幸福だ」――

2008/05/07

始まりというものの不可解さ。そこからくる円いものへの愛着。始まりのないものに人は完全性を見ようとする。 ジャック・リゴー

始まりというものの不可解さ。そこからくる円いものへの愛着。始まりのないものに人は完全性を見ようとする。

(エディション・イレーヌ2007年刊亀井薫・松本完治訳 ジャック・リゴー「自殺総代理店」の「すべての鏡が私の名を映している」より)

そうだ、僕らにはそれは自明だったのだ。これは「こゝろ」の先生が頻繁に繰り返す謎の円運動への最も典型的な美事な解釈である。

2008/05/06

芥川龍之介 戯作三昧 附やぶちゃん注

芥川龍之介「戯作三昧」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これは作品集「傀儡師」を底本としたテクストで、現在のネット上には同作品集を底本とした「戯作三昧」のテクストはない。

更に、オリジナルな

芥川龍之介「戯作三昧」やぶちゃん注

のページを別に設けた。本作は江戸後期を舞台とし、現在の若い読者には注なしには分からない部分も多い。そこで、僕が若い時に読んだとしたら、きっとここに注が欲しいと思うだろうなあ、という箇所をまず中心に置き、次に必ずしも読解に必要がなくても「智」として僕としては拘りたい部分を選び、最後にプライベートに芥川龍之介に関わる部分も幾分か入れてある。勿論、オリジナルとは言え、幾多の文献や事典・辞書、ネット情報を参考にさせてもらっている。しかし、少なくとも大学生が本作を精読し、その際に見られて恥ずかしくない程度の注は施してあるつもりである。

人ヲ愛スルコトヘノ欺瞞

ボクハスツカリタレカヲ愛シテシマハナイ限リホカノ誰カヲ愛スルコトハナカツタノダト自ラ信ジテイタノダケレドモコノ謂ヒハスツカリタレ彼ヲ愛シテシマツタノダト僕ガ腑ニ落チタナラバソレハ愛ガ終ワツタト僕ガ僕ニ命ジタカノヤウニ思ヒ込ム結果デアリイツデモ誰カニ無限ニ愛ヲ移シ續ケテイタトイフ僕ノ下劣ナル逃ゲデアツタノダラウカ――或失戀セル教へ子ヘノ答ヘヲ書キ記セシ後ノ思ヒ――

2008/05/04

南方熊楠 守宮もて女の貞を試む

昨日の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)に関わり、次の「守宮」(ヤモリ)にも、民俗学的に関わる作品として、南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。やや、意味の不分明な箇所があるが、とりあえず公開出来る程度には、注も付けたつもりである。

 

南方先生、下ネタ、バクハツ!

2008/05/03

君を荒らしめ給へ

僕の僕への呪文――「君をらしめ給へ」――

私は、いわゆる死の壮麗さ、死の成果、死の誘惑、死の陶酔、死ぬことの誇り、そうした死を放棄する。 ジャック・リゴー

私は、いわゆる死の壮麗さ、死の成果、死の誘惑、死の陶酔、死ぬことの誇り、そうした死を放棄する。

(エディション・イレーヌ2007年刊亀井薫・松本完治訳 ジャック・リゴー「自殺総代理店」遺稿断片より)

私は、いわゆる死の惨めさ、死の徒労、死の禁忌、死の生理的嫌悪、死ぬことの慙愧、そうした死を放棄する。

私は、いわゆる死にある種の人間が認めるところの壮麗さも惨めさも、成果も徒労も、誘惑も禁忌も、同様な死への陶酔も生理的嫌悪も、そうしてまた、「死ぬこと」への誇りも慙愧も、すべての、あるゆる、そうした「死」を、放棄する。

……いや、リゴーが言いたかったのは「死」というものが絶対の現象であり、人間という生命体の生み出した「そうした」ケチ臭い「義務」でも「権利」でもないということではなかったか?

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