捨猫や紫陽花腐たす聲の夜
捨猫や紫陽花腐(く)たす聲の夜 唯至
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捨猫や紫陽花腐(く)たす聲の夜 唯至
1991年夏、僕はポンペイの灼熱の太陽の下にいた――
――妻と一緒にザックを担いだバックパッカー染みた14日間の無謀なフリーのイタリア行……ヴェネチアではべろべろに酔ってバポレットの上で大声でイカサマのイタリア語のサンタ・ルチアを歌って欧米旅行者の老人集団のやんや喝采を浴び(あんなに拍手をもらったのは多分生涯であれっきり)……シエナのカンポ広場では、夕涼みの地元の太ったおばあちゃんに逢って、意味も分からず分かった振りをしてヘラヘラ笑って頷いていたら、最後に究極のキス攻撃に逢った……という話は、「忘れ得ぬ人々 2」でとっくに書いていたね――
ローマのポンペイ遺跡英語ツアーに参加したが、ナポリで一人の背の高い痩せた老人がバスに乗り込んで来た。後で81歳だと知った。
ポンペイはピーカンで、フライパンの上を歩いているのと同じだった。老人は少し足元がふらついており、ツアーのアメリカ人の若者が時々、気にかけている。しかしその若者は新婚らしく、若い女性が常に少し離れて寄り添っていて、僕は何だかその二人が可愛そうな気もして、その若者に声をかけると、途中からその老人の腕をとって一緒に歩いたのだった。
老人はドイツ人だった。鼻が悪いらしく、しきりに褐色の如何にも高級な絹のハンカチーフで、鼻をかんでいるのであった。それは正しく「鼻びしびし」というに相応しい、妙な言い方だが、「ドイツ人らしい」きっぱりとした、正に「びしっ」とした、確かな「かみ」様であったのである。
僕は黙ってその手をとって歩いていたが、先来のアメリカ人が頻りに彼に話しかけて笑っていたのを思うと、幾分か、情けない気持ちになってくる自分を意識しないではいられなかったことも事実であった。
そこで僕は、一つ気が付いたことがあって、思い切って首からぶら提げたコンタックス(当時唯一ドイツ製Carl Zeissのレンズが装着できる国産カメラの名。風邪薬ではない)の、重たくだらしなく下方を向いたPlanar T*f/2 100レンズ(望遠135ミリ)を指さすと、
「これはドイツ製カール・ツァイスの100ミリレンズです。僕の自慢なのです。」と乏しい英語で言った(この異様に重い交換レンズは生粋の西ドイツ製で、カビをはやかしてしまって(!)修理に出したときには、1ヶ月半かかり、、戻っていた時にはドイツ語の点検箇所詳細とドイツ人技師のサイン入り検査証明書が同封されていた。この開放値F2のレンズ、友人のカメラマンに言わせると、今でも逸品だそうである。但し、お恥ずかしながら、僕はもうかれこれ4年近くこのカメラもレンズも仕舞い込んだまま、この記述のために、久々に見たという体たらく……)。
老人は如何にも、という感じで眼をむくと、僕の好きな英国人俳優ジョン・ギールグッドのシェイクスピアの台詞回しよろしく、
“Are you professional?”
と重厚に厳かに発音した。そこで僕が、如何にも「ダメな」日本人に有り勝ちな卑屈な笑みを浮かべながら黙ってしまったことは、言うまでも、ない。……
満面に汗をかき、ほとんど分からない英語ガイドに飽きた頃、やっと昼食のレストランに着いた。僕ら夫婦は、その老人と一緒で、同じテーブルには韓国人の若夫婦もいて、5人。韓国人の奥さんは、老人のしっきりなしの「鼻びしびし」に、見るからに嫌そうな顔をあからさまにした。いや、食事中であればこそ、分からぬではない。分からぬではない、が、やっぱり少し、老人が可愛そうに思って、彼を見てみると、そういった周囲への関心は彼には幸いにして全くなく、相変わらずビシビシ、ニコニコしている。僕は心から安堵したのであった。
たどたどしい会話(主に勿論、僕のせい)の中で81歳と知り、大袈裟に驚愕しながら(演技ならお手のものだ。いや、確かに81には驚いたのだけれど)、どうして(「その歳で」というところは勿論言わなかったし、僕の英語力では表現できなかったというのが正しい)ここへ? と聞くと、彼、またしてもギールグッドのように、ゆっくりと(それは僕が如何にも英語が分からないことを分かっていたからとも言えるのだが)答えた。
「私は50年前、この港からドイツの戦車兵として、アフリカに渡ったのだ。」
――僕はここで心底、驚愕したのであった。50年前とは、1941年――彼はロンメル将軍率いるあの最強の機甲師団の一人だったのだ!――僕はもう、舞い上がって、「ロンメル」とか「タイガー戦車」とか「砂漠の鼠」(如何にも恥ずかしい。あの時、彼はその言葉に、ニヤリとしながら合槌を打ってくれたが、「砂漠の狐」と言うべきで、「鼠」は連合軍側だ!)とか、単語を散発しながら、僕は失礼ながら好きな戦争映画を見た手に汗握る感じ以上に、この老人の手を実際に握りつつ、何とかこの、歴史的(?)邂逅への感動を(それをオタクと呼ぶも底が浅いと呼ぶもご勝手に)、この老人に伝えたかったのだった……
彼は、しかし確かに、この如何にも浅薄な、如何にも愚鈍な僕の奇妙な感動を受け入れてくれ、ドイツ語交じりの、残念ながら最早僕には意味の分からない感懐を、しみじみと語り続け、そうして、分かったような顔をして少し涙ぐんでいる(それは演技ではなった。幾分かは、思いを伝えられない、分からないという悔し涙ではあったかもしれないが)僕の両手をとると、如何にも強く痛い握手を、上下に、ドイツ人らしく振ったのだった――
――ポンペイで泊まるといって、その大きな手を挙げると、彼は、僕らと別れた。
帰りのバスから見えた、バールのテラスの椅子に一人腰掛けた、海を見つめている彼の姿が、僕には、今も忘れられない――
先日の僕のニュース引用のブログを、今、アメリカで学ぶ今年卒業した教え子に送り付けて、君の解を求めたいと言ったところ、早速に答えてくれた、その一部を(彼はこの前で見過ごされた孤独死という都市社会のジャーナリスティックなしっかりした視点でこの事件を語っているのであるが、あえて私の浪漫主義を痛く刺激した後半部分)を引用する。
*
時代に置き去りにされながら、一人孤独にテレビを見つめ続けた女性。なんだか思い描くと、すごく映像的で、映画にできそうな、妙にロマンに似たようなものを感じます。
彼女の発見後、当時9歳だった隣人のJadranka Markicさんが回想するかたちで物語はスタートする。画面は生前のHedviga Golikさんとの想い出へ。静かで内にこもりがちな、でも上品な夫人。しかしある日を境に彼女はパタリと姿を見せなくなる。その後混乱に満ちたユーゴスラヴィアの歴史とともに、9歳だったMarkicさんは徐々に大人になってゆく、Golikさんのことは記憶のほんの片隅に。そして42年後の発見シーンへとつながる。
回想シーンでGolikさんの自宅を生活感たっぷりに描き、テレビをキチンと映しておくと、オープニングとラストの、時代に置き忘れられたGolikさん宅のシーンが生きる。そして、揺れ動くユーゴを動乱たっぷりに、こちらもオープニングとラストの、「静」を引き立てる。
*
僕は、こんな教え子のイマジネーションに――密かに激しく――嫉妬しながら、……こうして教師をしていて、こうした教え子に逢えたということを、心底正直に、至福に思う――
疲れているが一言
少年マガジンとサンデーの創刊から50年
今こそ、あの図解班を企画・立案した大伴昌司の復権を!
昨日(きぞ)万緑今日翠嵐の高曇り
(僕の電子テクスト「猪瀨達郎句集 叢蟾集」より)
*
これは不思議な句である。僕の故先師の1990年の句集の一句である。
僕はその当時、日々、言うところの問題児たちと向き合っていた。唯、どんな教え子より、そこには僕の愛する子らも、同僚も確かに、いた。僕は君等を、今も、確かに愛している。
そうしてその後、僕は「緑」と名づく、所謂、いい学校に移った。そこでは僕は幸福だったとはっきり言おう。しかしある時、利き腕の右腕を致命的に折ってしまい、全くもって理不尽にも仕事をやめたくなってしまったのだった。やる気がないなら、ならばなれ! というやけのやんぱち、愛する生徒を振り切って、どこへなりとと転勤希望を出してしままった……しかし、やってきたのは、なぜかまた同じ「ミドリ」、同じように所謂、「いい」学校……いや、確かに愛すべき子らのいる場所だった……子らは、たしかに、そうなのだが……
――しかし、気が付けば、確かに今、「昨日万緑今日翠嵐の高曇り」ではないか!……これは僕への恐るべき予言であったのだ――
世の中には偉そうな奴に限って
自分が恐れることは誰もが恐れ
自分が快感と感じることは誰もが快感だと感じ
脅迫を叱咤と取り違え
権威を絶対だと錯誤する蛆奴共が
五月蠅いほどいやがる――だから 言ってやろう
俺はお前のように怖がらないし
俺はお前のようにイカないし
俺はお前の声よりドスもきかせられるし吝嗇臭えテメエの面より数倍悪党面も出来るんだぜ? へッ!
権威の蛆はいつでもあの全き白き小林脳行煙出しネオ片脳油でイッパツだ!
おまえが「正しい」と思うなら 「悪党の」俺と正面から向かうがいい
俺はいつでも お前に言ってやる――
「いざ! うれ! おのれら、死出の山の伴せよ!」
*
やぶちゃん注①:これを公権力が不穏なるブログ書き込みの一つとして選び出してブラックリストに載せていたとしたら、僕はその係りの人に古典の成績評定で「5」を上げることに吝かではない(但し10段階でだ)。
やぶちゃん注②:この「お前」が誰を指すかについて、ある読者は鮮やかにある特定個人をイメージするかも知れぬ。それが正しいかどうかは微妙に留保しておこう。若し、その人物が本当に救いようがないほどに斯くの如きバカであるならば、僕はそいつととっくに壇の浦に飛び込んでいるであろうから。いっかなバカでも、いや、バカだからこそバカな僕なんかと金輪際、死にたくはあるまいから――
やぶちゃん注③:それにしても僕は無駄なき台詞とその「海へつつ」っと消えてゆく能登守教経が大好き 非力でデブデブの僕でも、演じてみたい役だなあ、彼って
Woman sat dead in front of TV for 42 years.
May 16 2008 By Donna Watson
THE remains of a woman have been found sitting in front of her TV - 42 years after she was reported missing.
Hedviga Golik, who was born in 1924, had apparently made herself a cup of tea before sitting in her favourite armchair in front of her black and white television.
Croatian police said she was last seen by neighbours in 1966, when she would have been 42 years old.
Her neighbours thought she had moved out of her flat in the capital, Zagreb.
But she was found by police and bailiffs who had broken in to help the authorities establish who owned the flat.
A police spokesman said: "So far, we have no idea how it is possible that someone officially reported missing so long ago was not found before in the same apartment she used to live in.
"When officers went there, they said it was like stepping into a place frozen in time.
"The cup she had been drinking tea from was still on a table next to the chair she had been sitting in and the house was full of things no one had seen for decades. Nothing had been disturbed for decades, even though there were more than a few cobwebs in there."
Neighbours were shocked by the discovery.
Jadranka Markic was nine when Hedviga "vanished".
She said: "I still remember her. She was a quiet woman who kept herself to herself but was polite. We all thought that she had just moved out and gone to live with relatives."
*
1966年、その頃、クロアチアはまだユーゴスラヴィアだった。チトーはこの3年前1963年に永世大統領となっている。チトーの死は1980年、彼のカリスマに支えられていた民族宥和政策は見る見るうちに崩壊し、各民族間のバイアスが高まった。1991年のクロアチア共和国誕生を挟むクロアチア紛争で多くの死者と難民が生み出された。――まさにその間中ずっと、彼女Hedviga Golikさんは白黒テレビの前に座り続けてきたのだった。誰にも発見されることもなく、葬られるでも、嫌がられるでもなく、殺されるでもなく、凝っとひたすら我慢強く46年間、その画面を凝視し続けてきた、最早、眼球のない眼で。銃声や爆撃や人々の阿鼻叫喚の声の中、静かに空になったティー・カップと少しばかりの蜘蛛たちと、極静かに――もしかすると、彼女は、翌年にかけてのシーズンでクロアチアのクラブ・チームとして唯一のヨーロッパタイトルとなるフェアーズ・カップ(現・UEFAカップ)を獲得することになる、NKディナモ・ザグレブ(NK Dinamo Zagreb)のサッカーを見ていたかもしれない。――僕はその頃、小学校4年生だ。……もし彼女が日本人だったら……その旧式の白黒のテレビジョンで彼女見ていたものは「ウルトラQ」であったように思える(第一話の放映は1966年1月2日、同年7月3日迄僕等は毎日曜胸躍らせたものだった)……あの眩暈のオープニングの画像が彼女の眼を捉える、……そして奇妙な音楽、金城哲夫というクレジット……彼女に聞こえて来る声、それはあの石坂浩二の……あのナレーション……「これから46年間、あなたの目はあなたの体を離れて、この不思議な時間の中に入っていくのです。」――
仏教で言う狭義の宇宙とは「有頂天」から「金輪際」(厳密にはその下に「水輪」と「風輪」があるからそれも含めるが、「金輪際」という語は恐らく「金輪際」以下を総称的にイメージしていると思われる)までの閉鎖空間を言う。断っておかなくてはいけないのは、その宇宙の周囲は開放空間であり、「阿僧祇」(あそうぎ*)=無限である、とする点である。さて、以下、僕の愛読書である永田久「暦と占いの科学」(1982新潮社刊)の記載を中心に「宇宙」を計測してみよう。
*やぶちゃん注:但し、日本では「阿僧祇」は有限値の数詞を示し、1056である。これは寛永4(1627)年に数学者吉田光由が中国の程大位の「算法統宗」(1592年刊)をもとに「塵劫記」で規定した。そこでは京=1016の上に
垓(がい)=1020
杼(じょ)〔これは誤字と目され、正しくは「秭」(し)である〕=1024
穣(じょう)=1028
溝(こう)=1032
澗(かん)=1036
正(せい)=1040
載(さい)=10の44
極(ごく)=10の48
恒河沙(ごうがしゃ)=1052
そうして、ここに阿僧祇が=1056入り、更にその上には
那由他(なゆた)=1060
不可思議=1064
無量大数(むりょうたいすう)=1068〔これは元来は「無量」と「大数」で別な数詞であったとする。さすれば仏教的で言う無限の意の「無量」の更に上に数詞としての「大数」=1072が存在し、古代中国にあって究極の最大数は「千大数」=1075まで考えられたということであろうか。〕。
その虚空の宇宙の中に「三輪」と呼ばれる円筒形をしたものが浮遊している。それは上から「金輪」「水輪」「風輪」の順に層を成しており、この最上部にある「金輪」の中央に須弥山(しゅみせん)という山がある。
さて、その須弥山を取り囲んで更に7つの海と8つの山が存在する。更にその外側に幅32万2000由旬(一由旬は約14.4㎞であるから約4,636,800㎞)の大海があってその中央部に「贍部州」(せんぶしゅう)という大陸が存在し、それが我々の住んでいるこの世界であると規定する。
さて、「金輪際」である。
これは、その我々の世界である「贍部州」がある「金輪」と「水輪」の境を示す言葉で、「金輪」が我々の居住する世界であるから、その地下の果てという意味から、極限、絶対、決してという故事成句となったというのはご存知の方も多いであろう。では、その「金輪際」まではどれくらいあるのだろうか。仏教は極めて数理的である。地上から金輪際までの距離は、
32万由旬=約4,608,000㎞
これが僕等の「金輪際」と言った時の実際の距離である。
では、今度はその「宇宙」の計測に入ろう。
「金輪」の上空には下から順に欲界と総称する六欲天(りくよくてん)が四天王天に始まり他化自在天(たけじざいてん)まである。これらは未だ生死流転の迷いの世界であるとする。
その上に色界と総称するものが梵衆天(ぼんしゅてん)から色究竟天(しきくぎょうてん)まで十七天ある。この世界では煩悩は超越されて形だけが存在し、光明を食物としているとする。
ちなみに、ここまでの各天間の距離は厳密な(?)数値として仏典に記されている。
更にその最上層が無色界である。そこでは空間概念も無化されており(それでは計測できないはずだが細かいことは言うまい)、精神のみの世界があるとする。そこは空無辺処天(心が空となる世界)・諸無辺処天(心だけが存在し、思考対象は「思考対象が存在しない」という唯一の思考対象しかない世界)・無処有処天(むしょうしょてん:思考も所有もない世界とするが、少なくとも「所有もない」という思考はあることになる)・非想非非想天(「想わない」し、「想わないことも想わない」という意味で、ここが究極の悟達の境地)の四天で終わる。即ち、この最上層のペントハウスである非想非非想天の天井が天空の果て=「宇宙の一方の果て」となる。
上記の永田先生の計算によれば、『地上の最初の天が四万由旬の四天王天で、色界の最上天まで二十三天が、最初の四万由旬、公比が2の等比数列の形で上へ上へと重なっているから、
40000(222-1)
40000+―――――――――=167,772,160,000
2-1
すなわち地上から色界の色究竟天まで一六七七億七二一六万由旬あることになる。
さらに、有頂天までその割で計算すると、金輪際から有頂天までは、
40000(226-1)
320000+40000+――――――――――=2,684,354,880,000
2-1
つまり、二兆六八四三億五四八八万由旬あることになり、これが仏教による宇宙の大きさであるといえる。一由旬14.4㎞として、一光年九兆四六〇〇億キロとすると、四・〇八光年の大きさとなる。有頂天は地球にもっとも近い星ケンタウルス座のプロクシマ[やぶちゃん注:*]であろうか。』
*プロクシマについてウィキペディアの記載から引用する。
『プロキシマ・ケンタウリ (Proxima Centauri) は、ケンタウルス座に属する恒星である。ケンタウルス座アルファ星の第2伴星であり、太陽系に最も近い恒星として知られている。プロキシマ・ケンタウリは1915年に南アフリカの天文学者ロバート・イネスによって発見された。発見当時、プロキシマ・ケンタウリは既知の恒星の中で最も暗い恒星であった。(中略)赤色矮星であり、地球からの見かけの等級(視等級)は11、絶対等級は15.5である。非常に暗い恒星であるため、地球からの観測は肉眼では不可能である。(中略)プロキシマ・ケンタウリは、地球との近さから、しばしば恒星間航行の目的地として挙げられる。20世紀末から21世紀初頭にかけて宇宙船として使用されたスペースシャトルでプロキシマ・ケンタウリを目指した場合、その移動速度は約7.8キロメートル毎秒であるため、プロキシマ・ケンタウリに到着するまでに16万年を要する。』
なお、ここで先生は『金輪際から』とおっしゃっているが、厳密に言えば(由旬換算を7㎞とする記載もあるし、このような大きな数になれば有意性はなくなるけれど、とりあえずここまできたので先生の数値をもとにしつつ補正してゆくと)「金輪際」のその下に続く「水輪」(一説に高さ80万由旬)及び最下層の「風輪」(測れない高さともあるが一説に高さ160万由旬ともいう。ここが所謂、厳密な意味での「宇宙」の下方の果てとなるのである)が加算されていないので、+34,560,000㎞で、キロメートル換算すると
2,684,354,880,000×14.4+34,560,000=38,654,744,832,000㎞
これを和の数詞で表現すれば、
38兆6547億4483万2000㎞(≒4.08光年)
これが、たかが、されど、の「僕等の宇宙」である(やっぱり4.08光年だ。先生はもともと、数学者として僕が補正する分は有意性を認めないということが分かっていらしたから割愛なさっていたのだ)。
さても、スペース・シャトルに乗って16万年の旅に出れば、僕等は僕らの「宇宙の果て」にたどり着くことが出来る。……そこで気づくことがある……16万年とは如何にも象徴的ではないか――
○AP通信2003年6月13日より
3つの16万年前の人類の頭骨が、エチオピアで古生物学者チームにより発掘された。現代人の直接の祖先にあたり、これまでに発見されたうちで最も古く、最も保存状態の良い化石だ。ほとんど完全な形で残っていた成人男性と子どもの頭骨、そしてもう1人の成人頭骨の一部は、現生人類(ホモ・サピエンス)の顔の特徴が現れはじめたころの、人類進化の決定的な段階を提示しているように見える。(後略)
○ワシントン共同2007年10月17日より
貝類食べ始めは16万年前 南アの洞窟に最古の遺跡
南アフリカの海岸にある洞窟から、食料にしたとみられる貝殻や石器などが見つかったと、米アリゾナ州立大などの研究チームが18日付の英科学誌ネイチャーに発表した。氷河期の16万4000年前の遺跡とみられる。研究チームは「これまでより約4万年さかのぼり、海産物を食べていたことを示す遺跡としては最古」と説明。氷河期の厳しい環境下で、人類が食べ物を求め陸から海に向かった証拠だという。遺跡は南アフリカ南部ピナクルポイントのインド洋に面したがけにあり、15種類の貝類とともに大量の細石器や顔料が見つかった。現生人類は20万~10万年前に出現したことが化石や遺伝子解析で分かっており、細石器などを使っていたとされる。(後略)
その僕等の「夜の果てへの旅」の時間は、ちょうど僕等がHomo sapiensとして生きてきた時間と一致するのだ――
眼が覚めたらやっぱり少し淋しいな――誰かに聲をかけてもらいたくもあり ――でもチャック・イスラエルとアーチー・シェップの「セント・ジェイムズ病院」を聴くと、もう誰とも話なんか金輪際したくないと思うんだ――では さようなら
やりたいことはやったからもういいよ おやすみ
「“Живые мощи”(Living Relic)中山省三郎訳「生神様」より
*
「歌を?……おまへが?」
「ええ、歌を、古い歌を。輪踊り(ハラウオド)のや、皿占(さらうらな)ひのや十二日節のなど、何でも歌ひますの。わたし、今でもたくさん知つてゐて、忘れないんでございます。ただ普通の踊りの歌は歌ひません。今の身分では仕方がございませんから」
「一體、どんな風に歌ふの、……自分ひとりのために歌ふのか?」
「ええ、さうですの、聲を立てて。大きな聲は出ませんけれど、それでも人に分かるくらゐに。あの、さつきお話しましたでせう――娘が來るつて。あれは孤し兒で、よく分かる子でございますよ。それで、私はあの子に歌を教へましてね、もう四つほど覺えました。ひよつとしたら本當になさらないでせうね? では一寸お待ち下さいまし、直ぐにお聞かせ申しますから……」
ルケリヤは息を繼いだ……この半ば死にかかつてゐる生物(いきもの)が歌を唄はうとしてゐるのだといふ考へは、思はず私のうちに恐怖を喚び起こした。しかし、私が一言(ひとこと)もいひ出さないうちに、私の耳には、長々とのばした、殆んど聞きとれるかとれないくらゐの、しかも清く澄んだ、しつかりした聲が響いて來た……、續いて二聲、三聲と。ルケリヤは『草場のなかで』を歌つた。彼女は化石したやうな顏のけしき一つ變へずに、眼さへ一ところに据ゑたまま歌ふのであつた。とはいへ、このあはれな、力をこめた、細い煙のやうにふるへ勝ちな聲たとへやうもなく哀切なひびきをもつてゐた。彼女はその魂の全部を注ぎ出さうとしたのである……。私はもう恐怖の念は感じなかつた。いひ知れぬ憐憫の情が私の胸に惻々と迫るのであつた。
「あゝ、やつぱりいけない」と不意に言ふ、「力が続きません……、お眼にかかつた嬉しさに胸が詰まつてしまひました」
彼女は眼を瞑ぢた。
*
多くを語りたくない。僕は思う。僕にとって、ノース2号の「あの」曲は、間違いなく、これであった――
僕は考えている。それはこのネット上の技だ。僕はただ朗読をしたい。文学を語るのでも、分析するのでも、教授するのでもない。ただ、この下らない自分の、でも、最も自信をもって出来うるところの、「朗読」を、したいのだ。それを音響学的に考え得る限りの最高の状態で(この要求は最も贅沢な状態を考えて欲しい。旧式のパソコンであっても臨場感のある自然な「朗読」がしっかり聴こえるシステムだ。機械音声みたようなのとか、ブツブツ切れるのははだめだ)、ネット上に無料で流すにはどうすれば一番、いいのだろう? どなたか、僕にお教え頂きたい。急がない。抜群の教え子が僕には一杯いるから――きっと、待ってるぜ。
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)の“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフの「猟人日記」の中の一篇、
“Живые мощи”(Living Relic)中山省三郎訳「生神様」
を正字・正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。
「猟人日記」は中学2年の時に全篇を読んで、痛く惹き付けられた作品である。二葉亭の「あひゞき」は大学生になってから読んだが、中山・佐々木・米川他に等の現代語訳の方が僕の意識の中では洗練されたものとして魅力的なものに映った。獨歩の「武蔵野」も蘆花の「自然と人生」も、僕の文学体験ではツルゲーネフあってのものであった。それは今もって変わらない。個人的な好みからいうと、新潮社の米川訳の印象が鮮明である(但し、米川氏のドストエフスキイ訳には時折飽きる)。教員になったその4月、僕は勤務校の学校新聞の自己紹介記事に愛読書を、ツルゲーネフ「猟人日記」、と書いた。その年の秋に一人の男子生徒が、『「猟人日記」のどこがいいんですか? 少しも面白いと思わない。』と好戦的に現在形で語りかけてきた。6つ程しか違わない彼等には、新米の僕は、滅多突きにするにた易い、格好の対等な槍玉だったのであろう。僕は『「生きたご遺体」はどうだった?』(米川訳は確かそうだったか。僕は新潮文庫のそれを、かつての恋人にあげてしまってもう手許にはない)と聞いた。『可愛そうだとは思いましたが、それだけのことでしょう。』と言い切った。僕は、彼の浅薄なロマン主義への軽蔑の語感の先に、語る本人自身のロマン主義的な孤独の相を垣間見た気がしたが、それを完膚なきまでにやり込める程には、当時は残酷ではなかった。「そうか、それは残念だ。」と言って、僕は少し淋しい顔つきをして別れた。――
僕にとって「猟人日記」の中で最も忘れがたい一篇を選べと言われれば、迷うことなく、この“Живые мощи”(Living Relic)を挙げるであろう。今日も――校正をするために僕はしばしば独りで朗読をするのだが――そのラスト・シーンで図らずも落涙してしまった。僕はこの乙女に、僕の人間として儚い(即ち宿命的な薄っぺらな)同情をしないわけでは、勿論、ない。そのくらいの愚かさは、人間に不可欠であるとさえ、僕は思っているぐらいだ。いや、だからと言って、僕は僕が「当たり前の人間であること」を暗に誇ろうとしているのでも、勿論、ない。……
――確かに言えること、それは、僕はこの乙女の自然を見るその「豊穣なる視線」に激しく嫉妬しているということであり……そうして僕はこのルケリヤに出逢った13の時からずっと、今も、確かに死にたくなる程に彼女に恋をしているという、事実である――あの生徒が今頃、ルケリヤに恋していてくれたら、僕は確かに彼を、友として抱きしめるであろうに……
芥川龍之介作品集『傀儡師』の奥付の後にある新潮社の広告三ページ分をここに掲載する。画像によるHPのディスク消費を気にしなくてはならなくなってきたのも事実だが、実は芥川龍之介も関知していない広告を、それもあの島崎藤村や德田秋聲といった連中の名を載せる広告を、芥川龍之介の装丁した作品集のページに同じ大きさで画像として出す気には遂になれなかったのである――芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)からここにリンクさせてある。
○奥付後3ページ目
遂に芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」公開した。
一月程前に、僕はこんな風なことを書いた。
『彼が「あの時」、自分の作品を「読みたい」と思う読者に、彼自身「読ませたい」と思った作品群を再度、単行本化した時、そこには別なシチュエーションがあったはずだ。「その時のために」アップ・トゥ・デイトに組み替えられた作品群。だから、それを僕らが追体験しよう。』
『もう一度、大正8(1919)年の一月、その時代に戻った庶民、読者になってみよう。そこから「自由な」芥川龍之介の生きた、「あの時」の世界が、見えてくるのではないか――』
――いや、そんなに気負う必要もない。バーチャルに楽しんで戴ければ、僕は少し嬉しいのである。加えて、遅ればせの110000アクセス記念として――
芥川龍之介「袈裟と盛遠」の作品集『傀儡師』版テクストを正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
遂に、作品集『傀儡師』全篇の復刻テクストを完成した。これより、作品集『傀儡師』復元ページの作成に取り掛かることとする。
言っておくが、僕は今日と明日、文化祭の代休である。
8日振りに自分の時間に浸れる。
僕はこの一週間で、ほとほと有象無象現世現生幻滅自滅の下らなさを感じ入ったと言って過言ではない。いや、生徒の喜びは素直に受け入れられても、この「学校」という爛れ切った組織の愚劣さ加減には厭き厭きした。「それだけのことです」――
きょうのおひるの12じにアクセスすたあなたがぼくのブログの110000アクセスですた。スマソ(スマンではないブログ用語として僕が最も嫌悪している語を使うことでギャクにとんでもなく不愉快な現実を表現したい)、さつじんテキなリフジンなしごとでぼくは、スマソ、つかれているんでありますル。もう、ぼくはすツかり「キレ」ますた。しんそこあきキレ果てますた。みれんもじれんまもゾルレンもけれんも可憐も憐憫もありんせん! あすもあさつてもしごとでありんす――さあて、さて、かんわきゅ~だい! ブログ110000のあなたをただただ祝福することでおゆるしあれ!
芥川龍之介「蜘蛛の糸」の作品集『傀儡師』版テクストを正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これには、岩波版旧全集との多岐に亙る校異を別立てで注記してある。実際、この異同はえっ! と思うほどに多い。その理由は冒頭に附した注を参照されたい。僕が言うのもおかしいが――僕等の知っているあの馴染んだ、芥川龍之介の人口に膾炙したあのストーリーの「蜘蛛の糸」が、作者が知らなかった以上に、これほどいじられていることを知らなかったことは――僕も今回の作業で細かに知ったのだが――僕には、驚きとして感じられるのである。
……さても、どちらが、あなたに、しっくりくる「蜘蛛の糸」であろう?
前のブログで記載したY氏の御情報を得て、「本草綱目」を確認、確信を得たので「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」本文の「鱘」注の冒頭同定を大幅に追加変更し、「鮫」の「松前の菊登知」注を削除追加補正した。
一昨日、未知の方からメールを頂いた。その方は釜石キャビア株式会社というところでチョウザメに係わるお仕事に従事しておられるY氏で、僕の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」を通読(! 感謝!)され、幾つかの箇所に貴重なご助言を下さったのである。以前に「和漢三才圖會」の水族の部テクスト化に某国立水産大学の元名誉教授の方から励ましのお言葉を頂いた時以上に、僕はすっかり嬉しくなってしまった。何か技術や理論といった冷たいものではない「温かな智」というものがこの世にあって、それが静かに増殖してゆくのが感じられる……そんな思いがする――
まず一つは「鮫」の項に現れる「松前の菊登知」である。僕はこれに次のような注を附した。
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「松前の菊登知」キクトヂ 同定不能。ただ、その「きくとぢ」という印象的な呼称が気になる。松前にこの痕跡は残っていないか? そもそもこれは「菊綴ぢ」であろう。菊綴じとは、水干や直垂(ひたたれ)等の縫目に綴じ付けた紐の呼称で、本来は絹製で、その結んだ紐の先をほぐして菊花のように細工したところから名づけられた。さて、これは後に皮紐製のものが登場してくるのだが、そこで鮫皮である。これはエイ由来の欛鮫等とは違って、サメ由来だったのかも知れない。もし松前の方がここをお読みになった際には、是非、郷里でお聴きになってみてもらいたい。あなたのメールをお待ちしている♡]
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この中年男のおぞましいハート・マークにY氏は、素直にお答え下さったのだ。以下に引用する(御本人の許可を得ている)。
◇〔引用開始〕
「松前の菊登知」とはチョウザメのことでございます。水干の袖等を留める、放射状の糸綴を「菊綴」と呼びますが、この放射状の装飾が、チョウザメの背の鱗に似ていることから「菊綴鮫(きくとぢ)」とも呼ばれていました。松前は最近でもチョウザメが捕獲される地域でございます。
◇〔引用終了〕
この情報に僕は正に目から「鱗」だった。実はそれはエイでもサメでもなく、チョウザメだったし、「逆」だったのだ、「絹製」の「水干や直垂等の縫目に綴じ付けた」「紐の先をほぐして菊花のように細工した」その模様がチョウザメの鱗と似ていたのであった! 更に、何と、現在も「松前の菊登知」は捕獲されているのだ! 本件についてもう少し詳しい情報をお願いしたところ、今朝、次のようなメールを頂いた。こちらは御本人の許可を得ていないが、このY氏のチョウザメへの真摯な思いをお伝えしたく思い、また、少なくとも僕はまるで知らなかった日本のチョウザメについての、皆さんの知見を豊かにして頂くためにも、引用させて頂く。
◇〔引用開始〕
日本において、忘れ去れてしまった魚、その利用の文化と言う観点から、「菊綴」をいろいろと調べていました。その、中心地は北海道であり、その文化はアイヌ民族が中心で、文字を持たない民族であるため、その資料数は限定されています。アイヌ語でチョウザメを「ユベ」と呼び、北海道の地名に「ユベ」の名のつく場所は、チョウザメが捕獲、又は関係のある場所とされています。日本近海では、大きく2種類のチョウザメが捕獲されますが、「菊登知」とされるチョウザメは、Acipenser medirostris mikadoi と言うチョウザメです。mikadoiは「帝」の意と聞いております。小河川にも産卵遡上する、特殊なチョウザメでございます。重くて恐縮ですが、菊登知の鱗を利用した刀剣の写真を添付します。この、5月末に北海道大学のグループが、日本近海で捕獲される菊登知を、十数年がかりで収集し、餌付けした親魚から採卵、孵化に成功しております。寺島良安先生も、生きたチョウザメは見たことはなかったと思いますが、確かにチョウザメは日本においても、知られていた魚であったと考えられます。本州では、付近の海で捕獲された菊登知が、大洗水族館で、飼育展示されています。
◇〔引用終了〕
Y氏から送って頂いた「菊綴」の写真は以下である。
ここで氏が述べておられるのは、硬骨魚綱条鰭亜綱軟質区チョウザメ目チョウザメ科チョウザメ亜科チョウザメ属のチョウザメ(和名をミカドチョウザメとするものもあるが氏の呼称を支持する)Acipenser medirostris mikadoiである。そうして、「菊綴」は多様に変化する。今度は、フィード・バックして、「菊綴」に似たチョウザメの鱗が、刀剣の鞘の「菊綴」文様に逆利用される……僕だけだろうか、なんだか変化自在に増殖する面白さを感じるのは!?
更に、もう一件、Y氏は最初のメールで僕の北海の霧景色を払ってくれた。「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱘(かぢをとし)」の絵である。勿論、これは良安が描いたものである。Y氏は言う。
◇〔引用開始〕
「かじとうし」の絵、長江に生息します、ハシナガチョウザメと考えられます。チョウザメの仲間の中では特異な姿をしており、口に歯がはえております(チョウザメ類には歯が無い)。現在、長江でも絶滅したと考えられ、わずかな尾数を中国政府が保護飼育しております。添付図は中国のハシナガチョウザメの切手でございます。
◇〔引用終了〕
僕は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の中で、何人かの識者が述べているように、「鱣」や「鱘」・「鮪」にチョウザメの影を感じてきてはいたのであったが、メールを頂いた当初は、これは良安がオリジナルに描いたのだから、これはもう海産のスズキ目メカジキ科 Xiphiidae 及びマカジキ科 Istiophoridae の二科に属する魚(カジキマグロとは通称で正式和名ではない)の絵であるだろうと思っいたのだが、今回、再度よくみると、これは時珍の「本草綱目」の叙述に従って頬に星の模様まで入れてあるのである。これから「本草綱目」の叙述部分を国会図書館版で再読しようと思うが、これはほぼ間違いなくY氏のおっしゃる、英名“Chinese swordfish”、チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属ハシナガチョウザメ(古くはシナヘラチョウザメと呼称) Psephurus gladiusの叙述と考えられる。氏の中国切手の画像も以下に示す。まさにチョウ極似。
Y氏に出会えたことを、僕は素直に僕の内なる神に(邪神しか住まぬと諦めきっていた私の内面の善なる神に)感謝したいと思っている。
芥川龍之介「枯野抄」の作品集『傀儡師』版テクストを、正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開。岩波版旧全集及び初出との校異を注記した。
芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注の古文引用箇所すべての注を補充し、更にすべてにオリジナルな現代語訳を附した。
大好きだからゆっくり読み始めているという、あなたに――