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2008/06/24

忘れ得ぬ人々20 ポンペイのドイツ人

1991年夏、僕はポンペイの灼熱の太陽の下にいた――

――妻と一緒にザックを担いだバックパッカー染みた14日間の無謀なフリーのイタリア行……ヴェネチアではべろべろに酔ってバポレットの上で大声でイカサマのイタリア語のサンタ・ルチアを歌って欧米旅行者の老人集団のやんや喝采を浴び(あんなに拍手をもらったのは多分生涯であれっきり)……シエナのカンポ広場では、夕涼みの地元の太ったおばあちゃんに逢って、意味も分からず分かった振りをしてヘラヘラ笑って頷いていたら、最後に究極のキス攻撃に逢った……という話は、「忘れ得ぬ人々 2」でとっくに書いていたね――

ローマのポンペイ遺跡英語ツアーに参加したが、ナポリで一人の背の高い痩せた老人がバスに乗り込んで来た。後で81歳だと知った。

ポンペイはピーカンで、フライパンの上を歩いているのと同じだった。老人は少し足元がふらついており、ツアーのアメリカ人の若者が時々、気にかけている。しかしその若者は新婚らしく、若い女性が常に少し離れて寄り添っていて、僕は何だかその二人が可愛そうな気もして、その若者に声をかけると、途中からその老人の腕をとって一緒に歩いたのだった。

Doic2

 

老人はドイツ人だった。鼻が悪いらしく、しきりに褐色の如何にも高級な絹のハンカチーフで、鼻をかんでいるのであった。それは正しく「鼻びしびし」というに相応しい、妙な言い方だが、「ドイツ人らしい」きっぱりとした、正に「びしっ」とした、確かな「かみ」様であったのである。

僕は黙ってその手をとって歩いていたが、先来のアメリカ人が頻りに彼に話しかけて笑っていたのを思うと、幾分か、情けない気持ちになってくる自分を意識しないではいられなかったことも事実であった。

そこで僕は、一つ気が付いたことがあって、思い切って首からぶら提げたコンタックス(当時唯一ドイツ製Carl Zeissのレンズが装着できる国産カメラの名。風邪薬ではない)の、重たくだらしなく下方を向いたPlanar T*f/2 100レンズ(望遠135ミリ)を指さすと、

「これはドイツ製カール・ツァイスの100ミリレンズです。僕の自慢なのです。」と乏しい英語で言った(この異様に重い交換レンズは生粋の西ドイツ製で、カビをはやかしてしまって(!)修理に出したときには、1ヶ月半かかり、、戻っていた時にはドイツ語の点検箇所詳細とドイツ人技師のサイン入り検査証明書が同封されていた。この開放値F2のレンズ、友人のカメラマンに言わせると、今でも逸品だそうである。但し、お恥ずかしながら、僕はもうかれこれ4年近くこのカメラもレンズも仕舞い込んだまま、この記述のために、久々に見たという体たらく……)。

老人は如何にも、という感じで眼をむくと、僕の好きな英国人俳優ジョン・ギールグッドのシェイクスピアの台詞回しよろしく、

“Are you professional?”

と重厚に厳かに発音した。そこで僕が、如何にも「ダメな」日本人に有り勝ちな卑屈な笑みを浮かべながら黙ってしまったことは、言うまでも、ない。……

満面に汗をかき、ほとんど分からない英語ガイドに飽きた頃、やっと昼食のレストランに着いた。僕ら夫婦は、その老人と一緒で、同じテーブルには韓国人の若夫婦もいて、5人。韓国人の奥さんは、老人のしっきりなしの「鼻びしびし」に、見るからに嫌そうな顔をあからさまにした。いや、食事中であればこそ、分からぬではない。分からぬではない、が、やっぱり少し、老人が可愛そうに思って、彼を見てみると、そういった周囲への関心は彼には幸いにして全くなく、相変わらずビシビシ、ニコニコしている。僕は心から安堵したのであった。

たどたどしい会話(主に勿論、僕のせい)の中で81歳と知り、大袈裟に驚愕しながら(演技ならお手のものだ。いや、確かに81には驚いたのだけれど)、どうして(「その歳で」というところは勿論言わなかったし、僕の英語力では表現できなかったというのが正しい)ここへ? と聞くと、彼、またしてもギールグッドのように、ゆっくりと(それは僕が如何にも英語が分からないことを分かっていたからとも言えるのだが)答えた。

「私は50年前、この港からドイツの戦車兵として、アフリカに渡ったのだ。」

――僕はここで心底、驚愕したのであった。50年前とは、1941年――彼はロンメル将軍率いるあの最強の機甲師団の一人だったのだ!――僕はもう、舞い上がって、「ロンメル」とか「タイガー戦車」とか「砂漠の鼠」(如何にも恥ずかしい。あの時、彼はその言葉に、ニヤリとしながら合槌を打ってくれたが、「砂漠の狐」と言うべきで、「鼠」は連合軍側だ!)とか、単語を散発しながら、僕は失礼ながら好きな戦争映画を見た手に汗握る感じ以上に、この老人の手を実際に握りつつ、何とかこの、歴史的(?)邂逅への感動を(それをオタクと呼ぶも底が浅いと呼ぶもご勝手に)、この老人に伝えたかったのだった……

彼は、しかし確かに、この如何にも浅薄な、如何にも愚鈍な僕の奇妙な感動を受け入れてくれ、ドイツ語交じりの、残念ながら最早僕には意味の分からない感懐を、しみじみと語り続け、そうして、分かったような顔をして少し涙ぐんでいる(それは演技ではなった。幾分かは、思いを伝えられない、分からないという悔し涙ではあったかもしれないが)僕の両手をとると、如何にも強く痛い握手を、上下に、ドイツ人らしく振ったのだった――

――ポンペイで泊まるといって、その大きな手を挙げると、彼は、僕らと別れた。

Doic1_2

 

帰りのバスから見えた、バールのテラスの椅子に一人腰掛けた、海を見つめている彼の姿が、僕には、今も忘れられない――

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