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2008/07/31

ツルゲーネフ「猟人日記」より二葉亭四迷訳「あひゞき」及び中山省三郎訳「あひびき」

ツルゲーネフ「猟人日記」より、文学史上名高い二葉亭四迷訳による「あひゞき」と、中山省三郎訳による「あひびき」の同一原作翻訳二種を正字正仮名で「心朽窩 新館」及び「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」(双方から閲覧可能)に公開した。二葉亭の訳には何処か浄瑠璃本のような雰囲気が漂っている。こういう小悪党が文楽にはよく出てくるではないか。太夫の唸りが聞えてくるような気がする。対する中山訳は俄然映画的である。台詞が洗練され、フレーミングがしっかり見える。これを読むと、この原作自体が映画脚本でないこと自体が奇蹟のように思われてくるから不思議ではないか。

僕は秘かに思う――

アクリーナにはグレゴーリ・チュフライ監督の「誓いの休暇」のシューラ役ジャンナ・プロホレンコを、ヴィクトルにはイワン・プイリエフ監督の1968年年版「カラマーゾフの兄弟」で美事なスメルジャコフを演じたワレンティン・ニクーリンを起用したい。

うん? 主人公の猟人ピョトール・ペトーヴィッチ役は? それは勿論、ロシア人に生まれ直した、僕、だよ――

2008/07/30

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」冒頭注追記

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」の冒頭注を追記した。

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」22句追加

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」に春秋社2007年刊の「増補決定版 尾崎放哉全句集」所収の新発見句22句を追加した。

2008/07/29

帰還

硫黄岳の麓で雹と稲妻の洗礼にビビりアイアンマンのように両腕が赤銅色に焼け爛れながら僕はまたしても帰還した――子らに怪我もなくそれぞれの思い出を残して――何、それも過ぎればまたよき忘れ難き思い出となる……

2008/07/26

されば

いざ出陣

2008/07/25

八ヶ岳山行用長期Pause Lutherstube又は巨大ニューロンに刺激されしルター

バッハの生地アイゼナハでは、山上のヴァルトブルク城wartburgに泊まった(厳密には城のちょっと下の殆んど城に接したホテルであるが、これは殆んど城に泊まった気分になれる部屋造りで、木製のガラス窓を開けるとフリードリヒそのままの人工物のない三日月と夕焼けの低い丘陵の続く清冽な空気の層の連なる風景が広がっていた)。

城内にはルターが1521年5月から1522年3月までの10箇月に亙って、新約聖書をドイツ語訳した小部屋、ルターシュトゥーベLutherstubeがある。

Luther

翻訳の途中、ルターが横になると彼の好物のヘーゼルナッツを箱から盗み出して、梁の上でそれを押しつぶしてみたり、部屋の前の鍵がかかって入れぬはずの階段の上から樽を幾つも投げる音がしたりと、サタンが数々の妨害をしたことが知られている。彼は果敢にインク壺を投げつけ、遂には見えないサタンに向かって「おまえなのか、それでは仕方がない」と床に就いたと伝えられる(1989年社会思想社刊 H.シュライバー著関楠生訳「ドイツ怪異集」による)。

Sarai後世の人が洒落た(?)のでもあろうか、手長猿(猿はダーゥイン登場以前からキリスト教徒にはすこぶる付きで評判が悪い。イブに知恵の実を食べさせたヘビにその実を渡したのも猿とされ、また「マタイによる福音書」に現われる「石にパンに変じよと命ぜよ」と難題を吹っかけ「人はパンのみに生くるにあらず」とキリストに言わしめたのも猿=サタンの化身とも言われる)の掛け釘が下がっている。

しかし、僕が何より感銘したのは、ルターが坐った椅子であった。それは鯨の脊椎骨であった。僕はこのフォルムと質感に、ノックアウトされた。――これこそが、ルターの忍耐であり覚悟であり決断であり一切の完遂である――そんな感動が、僕のカメラのフレームの中に満ち満ちてきたのであった――その一枚である――

Lutherstube_4   

                    

  

  

では、随分、ごきげんよう!                           

2008/07/24

実は今日、僕の父は神経性胃炎で散弾銃を胃に浴びたように4~5箇所出血して救急車に乗ってあの湘南鎌倉病院へ送られた。さても、不孝にも同じ胃を遺伝された僕は、彼を見舞うこともしないという、まさにその互いの胃に負担をかけざるを得ない形で、明後日早朝から八ヶ岳に子らと入らねばならぬのだ。しかし彼はまさに3年前の僕のあの骨折の手術の日、白神山地へ平然と鮎釣りに行ったのであってみれば、互いの胃は実は如何にも強いのであろう。父の順調な回復をここに祈りつつ、では皆さん、随分ごきげんよう。帰還は29日の夜となる。

フリードリヒ「海辺の月の出」

「海辺の月の出」“Mondaufgang am Meer”(部分)

Mam  

 

 

1822年 カンヴァス 油彩 55×71㎝

全図(英語版ウィキペディア画像)

昨日の「朝の田園風景(孤独な木)」との対幅である。「朝日美術館」の大原まゆみ氏の解説によれば、先の「朝の田園風景(孤独な木)」は、手前から奥にかけてフリードリヒが常套的に示すところの「時」の経過の描写が見られ、朝から昼への推移を示すとする(山裾の白煙がそれであるとする)。確かに、中景の池塘の畔に差し込む日差しとホリゾントの山塊を包んでいる気配は早朝のそれではない。それにしても、これを対幅とするには、如何にも本作は縮尺が違い過ぎる気がする。少なくともは、これを「朝の田園風景(孤独な木)」と並べて僕の部屋に飾りたいとは思わないということだ。大原氏は更に『現世的労働と宗教的瞑想の対比』、『異教とキリスト教』を見、『休らう羊飼いの素朴に対する』、岩礁の上の『「古ドイツ風」服装の、つまり都市に住む同時代の青年と娘たち』=『さまよう都会人』の思いが対峙しているとするのだ。フリードリヒはこの時42歳である。その彼が、『都市に住む同時代の青年と娘たち』に敢えて『「古ドイツ風」服装』をさせ、月光を見入らせる精神の彷徨をさせたことの意図は何であったのか? という問いかけを大原氏は、逆に我々に投げかけている。確かに彼らの背中は何かを期待し、待っているように見受けられる。同書の評論「フリードリヒ、時代の表現者」で大原氏はその種明かしをしてみせる。『ウィーン体制下のこの抑圧された時期、多くの画家が、敢えて政治的ととられるような態度を表明することなく、小市民的片隅の小さな幸福を見つめたり、人畜無害の夢の世界に遊ぶことを選んだのに対し、フリードリヒの作品の一部には、反体制派の学生たちの目印となった「古ドイツ風」の衣装をまとい、髪を伸ばした若者たちの姿が添景人物として登場するようになった。彼らが「デマゴーク」とみなされ得ることを画家は承知の上で描いたのである。』――言われて、僕の写真をよく見ると、確かに彼は長髪だ!――

――メランコリーの画家フリードリヒは、実は同時にどっこい反骨のプエル・エテルヌス(永遠の少年は常に反逆者である)であったことを忘れてはならない。――

2008/07/23

フリードリヒ「朝の田園風景(孤独な木)」

 

フリードリヒ「朝の田園風景(孤独な木)」“Dorflandschaft bei Morgenbeleuchtung”(部分)

1822年 カンヴァス 油彩55×71㎝

これはもう明るく綺麗なネット画像を見るに如くはない(ドイツ語サイトの大画像)。ただ、実際には美術館の光量が極度に制限されており(窓にも全て黒い遮幕がなされていた)、こんなに明るい画面でみることは出来ない。例えばこちらのドイツ語版ウィキの画像は、NHKの朝のラジオ体操みたような如何にもな緑色なのであるが、こんなくっきりな色は、実物には到底見られないものなのである。これは全景で撮れる大きさではあったが、僕はどうしても、この「孤独な木」にズームしたかった。ご存知でない方のために言っておくと、フリードリヒは絵に殆んど題名を附しておらず、現在我々が呼称している題名はみな後世の研究者らが命名したものであり、実際には題名が錯誤しているものさえあることは押さえておきたい。

Kodokunaki

 

 

 

 

 

これはベルリン領事ヴェーゲナーのために描かれた、次回に僕が予定している「海辺の月の出」との対幅であることが分かっている。美術史家が言いそうな良き羊飼い(いや、羊飼い自体は労働であってさすればそれはアダムの原罪である)やら、アニミズム・自然・世俗という二元論的属性の一方は、確かに二つ並べた時に、語り得よう事柄であるし、そのようなものとして、生真面目なフリードリヒは描いたのであろうとも思う。しかし、この絵を前にした僕は、実はそんな解釈はどうでも良かったのだ。僕は実にこの「自然」の中に素朴に、フリードリヒの「雪の巨人塚」の枯れ果てた古木に対峙する、余りに健全な「息苦しい」「生命の木」を、確かに見た気がした。芽吹き、茂り、絡み、伸び、「花咲き、はびこる牧場のように」(アルチュール・ランボー作金子光晴訳「一番高い塔の歌」より)、むんむんと噎せるように、「鼻を撲つ」ように香ってくる「緑」の臭気の「生の暴威」を感じるのである。だから僕は、何かこの絵を前に居た堪れなくさせられるのである。そうして、何という、おぞましい感情! これが枯れることを、それに「雪降りつむ」ことを、切に、切に願うに到るのである。……枯れよ! 干乾びて、死、あれかし! と……

Irako

 

 

 

 

 

さて、それは何故であろう……僕が28歳の秋、とある傷心の中で――その当事者であった人物は、この謂いを聞いたら、傷心はこっちの方だと唾棄するであろうが、思いの齟齬とは、相応に両者も、そうして更には第三者をも、いや更には四人目、五人目を巻き込んで致命的に傷付けてゆくものであろう――伊良湖岬を一人旅した(僕の一人旅は都合、今までの生涯に、大学1年の折の原爆の広島及び尾崎放哉の事蹟を訪ねるための小豆島行と、この時の、たった2度きりである。僕は強烈な出不精なのである。実は僕は旅は嫌いなのだ)。……その折、「椰子の実」の歌で知られる恋路ヶ浜の上で見つけた枯れ果てた木が、上の写真である。……僕は僕の無数の拙い写真の中で、この何の変哲もない写真が、好きで好きで堪らない。……それは、その時も、そうして今も、これが、僕自身の惨めな写像であるからである……では、翻って、君は問うであろう、じゃあ、何故、よりによって息苦しくなる「朝の田園風景」の「あの木」に近づいたのか、と……ほれ、それが僕らの原罪だよ……

 

Pause 舞姬との出逢ひ又は獸苑の至福カピパラ

Pause 獨逸語にて一休みの謂ひなり。五月蠅き蠅共の爲に言ひ置く。昨日は滿を持して醫學部看護系進學希望者へオリジナル特殊講義をしに行きしに(こは多分、我が授業の中にありて自身の記憶に殘れる良き思ひ出の授業となれり)、今日は用もなし、正しく合法なる年次休暇取りて朝の五時自り晝には麺麭齧りつゝ日がな丸一日パソコンに向かひてやぶちやんワアルドの世界構築に漬りかりたり。

……或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫步して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄(おばしま)に干したる敷布、襦袢(はだぎ)などまだ取入れぬ人家、頰髭長き猶太(ユダヤ)敎徒の翁が戶前に佇みたる居酒屋、一つの梯(はしご)は直ちに樓(たかどの)に達し、他の梯は窖(あなぐら)住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む每に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。

 

Marien2 Marien

 

 

 

〔聖マリエン敎会 St.Marienkirche 〕

 

:左寫真に立つてをるはエリスならぬ我が妻なりき。

 

 今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を吞みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。この靑く淸らにて物問ひたげに愁を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
 彼は料(はか)らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覺えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繫累なき外人(よそひと)は、却りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大膽なるに呆れたり。
 彼は驚きてわが黃なる面を打守りしが、我が眞率なる心や色に形(あら)はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」暫し涸れたる淚の泉は又溢れて愛らしき頰を流れ落つ。
「我を救ひ玉へ、君。わが耻なき人とならんを。母はわが彼の言葉に從はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは(かな)はぬに、家に一錢の貯だになし。」
 跡は欷歔(ききよ)の聲のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項(うなじ)にのみ注がれたり。
「君が家に送り行かんに、先づ心を鎭め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覺えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。……

 

 

Kapipara 我彼の獸苑Zooツオオにてカピパラに逢ひたり。廣々したる庭池塘に臨みて犬程もあるカピパラの至福に遊びたりき。我腦裡に一點の彼を羨むこゝろ今日までも殘れりけり。

フリードリヒ「リーゼンゲビルゲの朝」“Morgen im Riesengebirge”

フリードリヒ「リーゼンゲビルゲの朝」“Morgen im Riesengebirge”(部分)

1810~11年 カンヴァス 油絵 108×170㎝

これはまず全図(ドイツ語版ウィキペディア“Morgen im Riesengebirge”画像)を見よう。

この程度の大きさでも、風景画として漫然と見る人はこの山上の十字架のキリスト像(地平線よりもこれだけを高く描き、その東雲(しののめ)の光背が特異なクロースアップの効果を生み出している)の下に、

Reazenge 白いドレスを着た女性が、左手に杖を持った紳士の右手を取って頂上に引き上げようとしているのに気づかないであろう(実際、ドイツ語サイトの別なもっと精密な大型画像で見ても、僕の写真のように杖を突いているのまでは良く分からない)。いや、僕も長くそのことを気にせず、視線はひたすら十字架から左へ流れて透明清澄な気に吸い込まれていたものだった。しかし僕はこの実物を見て、不思議に左の山並みの記憶がない。いや、僕は妙にこの点景の人物にこそ惹かれていた……。

「朝日美術館 フリードリヒ」の大原まゆみ氏の解説によれば、この作品は本来対幅の一方として描かれたものと言う。現在所在不明のその対の絵は、夕刻の日没直後の風景であったとされる。『同時代の記述によれば、「前景に高く切り立った岩山があり、雲に覆われたその頂からは小川が流れ、一か所雲の切れたところから遠くの夕日に染まった地平が見え」た』と記す。そうして、そちらの絵にも本作とよく似た男女が描かれており、こちらは岩から岩へと移ろうとする女性を男性が手を添えて助ける様子が描かれていたとする。そこにあるのは、朝日と夕日というザインとしての生にあって、キリスト者としてのアダムとイヴの幸福なゾルレンとしての理想の姿が暗示されていたといって良いであろう(大原氏は『人生を歩む上での世俗的活動と宗教的浄化とにおける男と女の、あるいは男性的理性と女性的直観の役割が、添景人物の行動に寓意化されており、これは十九世紀初めの社会や文学と共通するジェンダー観の反映ともなっている』述べている)。ただ強い悲哀のトラウマを抱えたフリードリヒ(少年期に川で溺れ、助けに入った弟クリストファーが逆に死んだ)独特ののメランコリックな筆致は、本作の冴えた清澄な朝の空気以上に、失われた対幅の夕景の方に効果的に現われていたであろうと思われる。

本作のみが残ったのは、当時の動詞の人称を無視して不定詞のまま使ったとかいう変人「不定詞王」プロイセン王フリードリッヒ・ウィルヘルム4世が、誰かと同じように美事な山並みだけを気に入って、本作のみを買い上げた結果だった。

但し、彼は好色であった父フリードリッヒ・ウィルヘルム3世を嫌悪し、ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ王妃のみを愛して愛人を持たなかったとされる。1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン王国はフランスに大敗、ナポレオン1世の強い圧迫を受けることとなった。彼女はその間、自らその交渉役を引き受け、崩壊寸前のプロイセン王国を辛くも支え切った。1810年7月、ルイーゼが34歳の若さで肺炎のために亡くなった時、この愛国の王妃の死をプロイセン中の国民が嘆いたと言われる。さすれば、この絵の方を選んだフリードリッヒ・ウィルヘルム4世は、もしかすると杖を突いてほうほうの体の男に自らを、そうして、この男を導く白いドレスの女性に亡きルイーゼの面影を感じていたのかも知れない。――

フリードリヒ「樫の森の中の修道院」“Abtei im Eichwald”

1996年夏、僕は妻とフランクフルトから旧東ドイツへ入って西へと向かうフリーの旅をした。バッハの生地アイゼナハを訪れ、その山上にあるルターが聖書のドイツ語訳をしたワルトブルグ城に泊まり、ライプチヒでバッハの墓参、しかし、全く言葉が通じない(ドイツ語は二人とも全く分からない上に、ホテルマンも殆どがまだ英語が喋れなかった)ストレスで胃が痛くなりながらも、辿り着いたベルリンのナツィオナル・ガレリーで、念願のフリードリヒの作品群に逢った。HPトップにその折の「海辺の僧侶」の部分を大画面で掲載しているが、その折に僕が写したその他の写真も少しアップして行きたい。

「樫の森の中の修道院」“Abte im Eichwald”(部分)

1809~10 カンヴァス 油彩 110.4×171㎝

Abtei  

これは彼の作品として最も知られる、あのグライフスヴァルト郊外にある「エルデナ修道院跡」がモデルとなっている。

Abtei2 ……曙の時、捩れた樫の木立が空を摑む。修道院の壁はかろうじて前方の部分のみが残りそそり立つ。その下方には、この廃院の空虚な入り口(そこには中央に十字架が見える)、門の更に手前の雪原には、真新しい墓穴が掘られ、土の地肌をのぞかせている。絵の左右の暗い雪原には、点々と墓標が立つ。そこへ仲間のものと思しい柩を担いだ黒い修道僧の列が闇の奥へと粛々と進む。――

それは厳粛な死の観想である。コントラストの悪い写真版や書籍の小さな挿絵では気づかないが、月は画面右上で、曙の中、白く光を失っている。作品の下部は薄闇に包まれているが、この空は晴れ渡った、澄んだ気に満ちている。それは旭日の予感である。これを不気味な絵としてはなるまい。光明の兆しこそがこの作品の静かな語りなのだ。

全図(ドイツ語版ウィキペディア“Abte im Eichwald”画像)

「忘れ得ぬ人々20 ポンペイのドイツ人」写真追加

教え子やマイミクに好評だった「忘れ得ぬ人々17 ポンペイのドイツ人」の写真を掘り出した。1991年7月31日(イタリア日時)のポンペイにて。

Doic2_3 公衆浴場の温浴室跡にて。ポンペイの可愛い野良犬と。左に坐っている老人が彼。

Doic1_3 レストランにて。彼は撮っている妻の方を見ている。左端のおじさんは英語ツアーのイタリア人ガイド。

尾崎放哉全句集(やぶちゃん版) 沢芳衛宛書簡中に現れる句 追加

7/23 「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」に「沢芳衛宛書簡中に現れる句」を追加した。

2008/07/22

夜の部屋 尾形亀之助

夜になると床の間の水仙が消えさうになる

 

静寂した部屋で

私は寝床に入つた

(文藝第五号第四号 昭和2(1927)年4月発行)

では

「お休み!」

僕の すべての 女へ――

尾崎放哉全句集(やぶちゃん版) 拾遺句稿 追加

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」に「拾遺句稿」を追加した。

僕がこれからどうするかは……

内緒や! すまんな、メールもろうた何人もの人! じき、分かりますて。訳の分からんのが、わいや! それが、また、ある意味、わいの良さやて。おおきに!

新発見の芥川龍之介の遺書の驚天動地

見たい! 見たい! チョー見たい!!! みんなも知りたいよね!? 焼却を命じたことが他の遺書に示されたいわく附きだぞい!!!

『近代文学館に行った人が、きっとテクストにしてくれている!』

……って今日、僕は素直に期待してグーグルで「芥川龍之介 遺書」検索をかけた……さて、トップに表示されるのは!?

――あれ! おいおい!!! 僕の芥川龍之介の遺書のページやないかい!!!

これは嬉しくもなんともない! グーグル! あかんぜよ! こんな愚劣なページ!!!

風の中 尾形亀之助

部屋の燈をともして

風の吹く暗い夜を過ごさうとしてゐる

 

さしてから十日にもなつて

机の上の水仙が怖くなつた

(北方詩人第六輯 昭和3(1928)年3月発行)

2008/07/21

僕がこれからどうするか

それは、すまんが、もう決めたのだ。

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」全篇完全再校訂

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」全篇を完全再校訂した。一読者の方からの厳しい御批判が、僕の過去の杜撰さを僕に再認識させてくれ、僕を十全に内省させてくれ、ひいては僕のHPの向上に役立てて下さったことに、心から感謝したい。やっと真に、このページは僕のものとなったのである。再々度申し上げる。保存されている方は、破棄して現在のものを最新版をダウンロードして頂きたい(この数日は細かな追加補正をすると思われる)。ゲーデルの不確定性定理を僕は思う。手前勝手な満足の中で、自己の矛盾を知覚出来ない時、本当に誤っていることを、僕らは「知る」ことが出来ないのである。

3年目の朝

今朝は裏山からゆっくりと蜩の声(ね)が鳴き初(そ)めたが、ニイニイゼミがそれを掻き消したかと思うと、鶯の音が処々にリズムを打ち出して、すぐ近くの梢でタイワンリスの屈託のない声(こえ)がした。そうして、曙の終わりにカラスの声がコーダを鳴らして、音楽堂から引いてゆく観客たちの思い思いの勝手な喧騒のような夏の朝の無数の声々となった――僕はその音楽会とその後を聴き乍ら、何か今日が特別の日のような気がしていた。そうして、それは確かなことであった――今日はあの3年前の真鶴での骨折の日だったのであった――

考えてみると因縁の多い日並びだ。河童忌は7月24日、23日は映画「鬼火」のアランの自殺決行予定日である(但し、これは「遅れてるんだ」という台詞から奇しくも芥川龍之介と同じ24日であった可能性が高い)。

3年前の7月23日の手術は失敗し、凡そ一ヵ月後の二度目の手遅れの手術でボルト5本と共に右腕首に永久に嵌め込まれたチタン板のレントゲン写真は、不思議に蜩の形に似ている――僕は確かに不思議に蜩に生かされ生き延びているのである――

2008/07/20

人に寄す 媼婉 佐藤春夫訳

 

          万木凋落苦

          楼高独任欄

          綉幃良夜永

          誰念怯孤寒

               媼 婉

 

人目も草も枯れはてて

高殿さむきおばしまの

月にひとりは立ちつくし

歎きわななくものと知れ

佐藤春夫「車塵集」(講談社文芸文庫「車塵集/ほるとがる文」)より。佐藤春夫の「原作者の事その他」によれば、媼婉は宋代の妓女と伝える以外は、不詳とある。

ツルゲーネフ「猟人日記」より中山省三郎訳「シチーグロフ郡のハムレット」

Иван Сергеевич Тургенев“Гамлет Щигровского уезда”、ツルゲーネフ原作・中山省三郎訳「シチーグロフ郡のハムレット」(「猟人日記」より)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。

……あらゆる思想家や作家の真似をしているように、自分の意志ではなく、義務のように生きていると感じる「シチーグロフ郡のハムレット」……彼の人生……おじの財産横領……大学への失望……策略家としてのそれぞれの娘の親……彼の「よからぬ噂」とは?……退役陸軍大佐の未亡人の娘……ソフィアへの空想的な奇妙な愛情……ソフィアの結婚後の謎の抑鬱……それに纏わるハムレット自身の猜疑と不思議な自殺願望……そうして、そのソフィアの死に際してもハムレットはソフィアのメランコリーの理由を知りえないこと……

ハムレット……

優柔不断――生きているか死んでいるか分からないほど静かな知性の人――しかし内に狂気にさえ通じる感情を膨らませて乍ら――何ものをも信じ得ず判断を留保し続け苦悩する不幸な男……

……「シチーグロフ郡のハムレット」……とは、「ハムレット」ではない……或る部分が反転した、もうひとつの「こゝろ」の、生きてしまった「先生」の話である――

もうひとつ、言おう。

不幸にも、且つ不遜にも、僕は大学生の時に「かういふ」「どこの郡にもたくさん居」る「ハムレット」の一人に自分を擬えていたではないか……そうしてそれは、今も変わらないような気がするのである――

2008/07/19

大人さへ子供じみる 尾形亀之助

正十二時の食卓に坐るのは子供に限る

大人はちよつと後にして下さい

(銅鑼8号 大正15(1926)年月不明)

お子様ランチはどこでも赤字覚悟の料理で、大人は注文出来ないということを知ったのはつい、数年前のことだった……死ぬ前に一度、帝国ホテルのレストランでお子様ランチを注文しよう……

十一月 尾形亀之助

犬を探して私は山の上の路へ出た

 

何処かで太陽がてつてゐるやうな日であつた

美しい立樹の肌が

白い空にまじつて光つてゐた

(若草第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)

君は至上の愛に満ちた犬にこそ探されているのであろう……そら! 鳴き声が近づいてきた!……

街へ行く電車 尾形亀之助

機械を取つてしまつて

ワルツで電車を走らさう

音楽が止んで街を下の方に見ながら停つてゐたり

客の中の口笛で少しづつ走り出したり

夕飯はそのまゝ食堂になつてゐる電車の中でゆつくり食べやう

そして 街へ着いてももう降りるのはよさう

(詩神第三巻第十号 昭和2(1927)年10月発行)

……そうだ、尾形、もう降りるのは、よそう……ワームホールの果てまで、僕は付き逢うよ――カンパネルラ……

七月 尾形亀之助

赤い日傘が近づくと

空いつぱいになつてしまつた

 

おくさん!

それをくるくるまわして見せてくれないか

(銅鑼7月号 大正15(1926)年8月発行)

いいね……つげ義春の「夢の散歩」だ……

馬鹿息子 尾形亀之助

私に顔がない

   ×

「鉛筆を探してゐるのなら、それはあなたの耳にはさまつてゐます」といふやうなことを言はれるのはいやだ。「私に顔がないが――」と言ってやりたい。

(<亜>24号 大正14(1925)年10月発行)

これはソソル――。「私に顔がないが――」の後、尾形亀之助は「××はある」と言いたいのではない――「私には顏がないが、だから、どうやってない耳に挟むめると言うんだ」と応酬しているのだ……

蜜柑 尾形亀之助

美しい少年の頭の上へうまさうな蜜柑を一つのせて部屋の中を歩かせろ。

そして、少年の頭の蜜柑の香のしみたところを力いつぱい指で弾け。

少年がぶつとおこつて部屋を出てゆけばそれでいいのだ。

畳にころげてる蜜柑を拾つてきれいにむいて夕刊を見ながら喰べるのだ。

(<亜>26号 大正15(1926)年12月発行)

なるほど、僕は僕の愛するあの少年に思いっきり、人差し指にタメを入れて、パツン! とやってみたくなった――

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」前半校訂終了

先に記した通り、一読者の方のご指摘を受けて「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」前半部分、底本である春秋社1993年刊の「決定版 尾崎放哉全句集」との遅きに失した校訂を終了した。更に数十箇所の誤植が認められた。再度、保存されている方は、破棄して最新版をダウンロードして頂きたい。なお、後半の句稿部分は頭注に記した通り、「随雲」発表の初出を底本として、これを手打ちでタイプしたものであり、現在、ネット上で公開されているものをコピーしたものではない。従って、その後の出版になる筑摩書房版全集やネット上のものとは異なっている可能性がある。

猫 萩原朔太郎

   猫

            ――光るものは屍蠟の手

まつくろけの猫が二疋、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
いとのやうな三ケ月がかすんで居る。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病氣です』

               ――十五、四、一〇――

『ARS』第一巻第二号・大正4(1915)年5月号より。「月に吠える」所収のものとは異なる。底本は1975年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集」によった。傍点「ヽ」は下線に代えた。

寺島良安 和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類 卷第四十五 終了 水族部 完成

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に「天蛇」(ヤマビル)及び「蛇皮」を追加し、遂に「卷第四十五」を終了した。やぶちゃん版「和漢三才図会」の水族の部の完成である。多くの未知・既知の方からの励ましの言葉を戴き、心優しき専門の方々からも、極めて有益な御助言を頂いた。それらなしに僕はこれを成し得なかった。ここに心より感謝致します。ありがとう!

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」訂正

「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」の誤植の指摘を受け、訂正、またルビを排除した。これはHP開設当時の古い仕事であるが、正直に言うと前半部分の春秋社版底本部分は、当時のネット上に存在した(現在は消失している)同書底本と思われる翻刻テクスト(底本明記はなかったと記憶する)を無批判にコピーし、順序を入れ替えたに過ぎなかった。今回、誤植指摘を受け、僕自身、「これはひどい」と今更ながら、思った次第である。本来ならば、正しく底本との校訂をすべきところではあるが、とりあえず早急な補正措置を行った(本日中に底本との校訂を終了する予定である)。50数箇所に及ぶご指摘を戴いた方に御礼を申し上げ、何よりも尾崎放哉に謝さねばならない。保存されている方は、破棄して最新版をダウンロードして頂きたい。

僕の猫

僕の猫は僕の懷で圓くなると

僕の知らないうちに管狐の祕術を使つて

僕のおへそから僕の中へ入り込みます

さうして ゆつくらと

僕の糖尿病の肝臟やら膵臟やらをみんな喰らひ盡すと

知らんぷりして また僕の懷に戻つて

ゴロゴロ 聲を立てゝ 寢てゐるのです

 

するとなんだか僕は 素敵に死んでゐるやうな 氣がする

2008/07/17

俺 尾形龜之助

 

俺は長い間ちつとも晴ればれしい気もちになつたことがない

 

そうじのされない押入れのすみのように

心はごみやほこりにまみれてゐる

いかによく晴れわたつた朝でも

墓場のように濕け

古新聞のようにふるぼけてゐる

 

(「詩集 左翼戰線」 大正十二年版 大正13(1924)年6月発行)

この前年7月、亀之助は村山知義・柳瀬正夢・門脇普郎・大浦周蔵・ワルワーラ・ブブノワ(ロシア人女流画家)という錚々たる面々と共に未来派の集団「マヴォ MAVO」を結成している。「MAVO」とは川路柳虹「現代日本の美術界14」(大正14(1925)年5月発行『中央美術』)によれば『マヴォ(MAVO)といふ名は会員の頭文字を描きとつて作つた偶然の名前であるさうが……Vの字があるのは露西亜人ヴヴノヴァが加はつたためださうである』(正津勉「小説尾形亀之助」より孫引き)とする。しかし、この虚無感は何だ。正津はそれを、まさにこの錚々たる才人たちの中にあって早くも自己の画才を見限っていたのではないかとするのだが……実際、思潮社版全集の年譜によれば既にこの大正13年1月の欄には『マヴォと疎遠になり、絵画活動を休止。』とあるのだが……やはり正津によれば、画家としての彼の、現存する油彩は大正12(1923)年作「化粧」(宮城県近代美術館に寄託)たった一枚しかないという――

出してみたい手紙(2) (雨の日の風呂の中の鼻歌) 尾形亀之助

君は僕と馬車の乗つて旅行に出てみやうと思はないか。

君さへその気なら僕は黒塗りの馬車と馬を買はふ。

パンのかけらや半熟卵のからで馬車の中が散らかつてゐるのを

僕達は笑つてお互の顔をのぞいてゐると馬車が急に速くなつたりするのさ。

 

そして

君はうすでのわりに短いスカートに毛の靴下をはいて

 

ねずみの天鵞絨の上着には金茶の絹レースで士官の服のやうなぬいをしてゐる。

僕は粗まつな服を着てゐやう。

夜は眠つたり眼がさめたりランプのやうな燈りでりんごを食べたりしやう。

街へ入つたら半分だけカアテンを下して馬をゆつくり歩かせて

こいコーヒを飲ます店を探したり手まねでチヨコレートを買つたりしやう。

君さへその気なら僕は君のケライになつて出かけやう。

君はうすでのわりに短いスカートに毛の靴下をはいて。

(<亜>25号 大正15(1926)年11月発行)

「恋愛後記」の僕の附言を参照のこと。この「出してみたい手紙」の宛名には「吉行あぐり」とあったのであろうか――

出してみたい手紙(1) 尾形亀之助

あ…な…た…の…な…ま…け…も…の

あ…な…た…と…私…の…な…ま…け…も…の

あなたは今日私へ手紙を出して呉れましたか

(<亜>25号 大正15(1926)年11月発行)

「恋愛後記」の僕の附言を参照のこと。この「出してみたい手紙」の宛名には「吉行あぐり」とあったのであろうか――

春は窓いつぱい 尾形亀之助

春は窓いつぱいにあふれてゐる

私は昨日から寝てゐる

 

頭から蒲団をかぶつて

 

こんど床を出るまでに彼女との愛をすてなければならない と

私は床の中で自分の不幸を考へてゐる

 

(何時の間にか私は蒲団から頭を出してゐる)

かなしい春である

(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行) 

「恋愛後記」の僕の附言を参照のこと。この吉行あぐりへの恋情は一方的で、無論、失恋に終わる。それだけではなく、この昭和3年、尾形亀之助は3月に妻タケと別居し、5月には協議離婚している(二人の子は尾形が引き取って、長男猟は実家に預け、長女泉は同居した)。ちなみに、この時、タケは、亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者であった詩人(後に小説家に転身)大鹿卓(金子光晴実弟)の元へと走っている(その辺りの経緯は正津勉の「小説尾形亀之助」に詳しい)。

恋愛後記 尾形亀之助

午後からの雨であつた

そして冷え冷えと暮れてゆく

 

夢のやうな夏はもうそこにはない

空は遠く帰つて行つてしまつてとり残されたやうな庭があるばかりである

(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行)

妻子持ちでありながら、止み難い思いに囚われた尾形亀之助、その愁人――この「恋愛」の相手は、正津勉の「小説尾形亀之助」によれば、――当時親交のあった作家吉行エイスケの経営するバー「あざみ」で知り合い、耽溺して行った女――何とエイスケの妻、吉行あぐり、であったとする。

白い手 尾形亀之助

うとうと と
眠りに落ちそうな
昼――

私のネクタイピンを
そつとぬかうとするのはどなたの手です

どうしたことかすつかり疲れてしまつて
首があがらないほどです


レモンの汁を少し部屋にはじいて下さい

(詩集「色ガラスの街」より)

2008/07/15

蜩といふ名の裏山をいつも持つ 安東次男

2005年2007年も

僕は7月8日に蜩を聴いている

蜩の声に耳傾けられぬとは

今年の僕は如何にも愚劣な人生に生きている――

僕は今朝4時に起きた

ただ ただ蜩の声を聴く贅沢のために――

蜩といふ名の裏山をいつも持つ   安東次男

2008/07/14

蜩聴く

実に僕は今日蜩の声を聞いた――

それは我儘なもの謂いをする僕のための美事なレクイエムだった……

煙草と花 尾形亀之助

夕暮

一人部屋の中にゐる

 

朝から街を歩いてゐる幻影を見て

一日中窓を離れなかつた

 

机の上の枯れた花を今日も捨てずにゐた

北方詩人第二巻第一号昭和3(1928)年1月発行所収。

底本は思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いた。

カテゴリに「尾形亀之助」を作る。彼と知り合ってもう30年が経過した。僕にとって、確かに彼は僕の、ある因縁の詩人である――

2008/07/13

ある自白

○昭和23(1948)年7月13日。「事件」の丁度一箇月後。三鷹警察署尋問室。映写機。モノクロの画面。押収品の隠し撮り映像の再生。映像・音聲共に不分明。

(暗闇の底で幽かに音立てて流れてゐる小川に沿つた路を歩いてゐる二人。)

「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶對理解できないばかりか、輕蔑してゐる。」

「ツルゲーネフは?」

「あいつは貴族だ。だから、いやなんだ。」

「でも、獵人日記、……」

「うん、あれだけは、ちよつとうまいね。」

「あれは、農村生活の感傷、……」

「あの野郎は田舎貴族、といふところで妥協しようか。」

「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作つてゐますのよ。田舎の貧乏人。」

「今でも、僕をすきなのかい。」

(亂暴なる口調)

「僕の赤ちやんが欲しいのかい。」

(女、答へない)……

○刑事、フィルムを止めて、鋭い眼で容疑者を見つめる。

○容疑者ワヂヤノイ、少し腐りかけて臭ひを放つてゐる、緑色の粘液に濡れた嘴を舐め乍ら、吐き捨てるやうに。

ワヂヤノイ「……さうさ! だからさ!……俺は死にてえ! つて演じやがつたあの腐り切つたあ奴を! お目出度い魂の川へ引きずり込んでやつたん、ダ!……糞野郎! 惡いかい?!」……

蜩や聽かざるに我が夏の在る

蜩や聽かざるに我が夏の在る   唯至

2008/07/12

ツルゲーネフ「猟人日記」より中山省三郎訳「死」

Иван Сергеевич Тургенев“Смерть”、ツルゲーネフ原作・中山省三郎訳「死」(「猟人日記」より)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。佐々木彰訳も到着、更にロシアのサイトに「猟人日記」の原文も発見。25年程前に買って数度しか開いていない博友社の新品同様のロシア辞典が、やっと日の目を見た。「ベェージンの草原」の注も、更に追加・補正した。

2008/07/06

ある生活・あれから19年(+44年)

ある生活・あれから19年 (昭和39年 朝日ニュースNo.996)
http://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00e3989f61b50001.html 

幼い心が捉えた原爆の傷跡。広島の歴史はいつまでも語り継がれてゆくことだろう。

あれから19年の生活は、独りの母親にとってただの蛇足に過ぎなかったと、松本さんは言う。

松本さんは今年六十一才。原爆症で夫を失い、一人っ子の璋一君は、十九年前の原爆の日に、行方を絶ってしまった。

まためぐって来た八月六日。あの鮮やかな記憶が、色あせた松本さんの生活に彩りを加える日なのだ。一年のうち、たった一日、忘れていた生活の張りが、戻ってくるのだ。

自分と同じ思いの人たちが、ここに何人かいるに違いない。

大会の雑踏の中で捧げる平和への祈り。それは松本さんにとって、今日も生きていることの証しに他ならない。

息子の璋一が生きていれば、今二十四才。

松本さんは、知らないうちに息子を探していた。

あのピカドンの中で消えてしまった子どもの行方を案ずるのは、間違ったことだろうかと、毎年同じことを松本さんは考えて来た。

ノーモア・ヒロシマから観光広島へ、街は次第に姿を変えた。

公園のベンチのあちこちには、子を失った同じ親たちの姿があった。

死んだ者――残った者――その心を映して、広島の空は赤く焼けてゆく――

夜ふけて針に糸を通す眼がかすむ――やがて松本さんの一日が終る――
広島にならどこにでもある、母親の話である――

(作品No.NAJ0996-04)
(昭和39年8月12日公開)

やぶちゃん注:以上は、フィルムを視聴しながら、そのナレーションを活字に起こしたものである(一部にリンクの公開ブログに附された当時の原稿の一部を挟んである)

一聴、このナレーションには、ある種のこなれていない文飾と通常ならば不適切と言われて仕方がない言葉遣いが認められる。冒頭の「あれから19年の生活は、独りの母親にとってただの蛇足に過ぎなかった」という謂いは、決して彼女の生の声とは思われない。自身を言うに「独りの母親にとって」という客観表現は、如何にも不自然で、飾ろうとする第三者の言換えの匂いが強いし、「あの鮮やかな記憶が、色あせた松本さんの生活に彩りを加える日なのだ。一年のうち、たった一日、忘れていた生活の張りが、戻ってくるのだ」というフレーズも、今ならデリカシーを欠くと批難されるところである。映像面でも、子供を無意識に探すというシーンの(というより、そこに強引に牽引して演出しようとしているように思われる製作者の意識にもやや不満がある。インドシナ反戦の横断幕の前を彼女は受動的に「歩かせられ」はしなかったか?)、ベンチにごろ寝する浮浪の若者の足のケロイド、その効果音等は、エイゼンシュティンの教条的モンタージュの悪しき例を見るかのように覚える部分もある。――しかし、この短い映像に幾多の違和感や不満を感じながらも、僕はこの「ナレーション」、この「作品」、その全総体に、確かに胸打たれるのだ――うまく説明出来ないのであるが、そういうものって、不思議に、確かに、あるものなのである――

また、あの熱い、あの日が、廻って、くる――

ビェージンの草原 注追加<追記有>

ツルゲーネフ「ビェージンの草原」の訳者の注に、わずか4つではあるが、僕の注を追加した。読みの流れを乱すのだが、今回の翻刻では、本文の一部に「っ」の促音表記、「ょ」等の拗音表記が見られ、更に活字の脱落もあって、僕の割注を入れざるを得なかった。また、僕が今回読んで、辞書を調べて正しい意味かどうかを確認した語が幾つかあり、まずはそれをアップした。

ただ実際には他にも、その謂い自体がやや不審な訳もある。例えば、イリューシャの噂話、卓抜なワルナヸーツィ羊怪談(これは猟犬を悉く死なせてしまう呪われた名犬番エルミールという絶妙の語りの枕、羊の顏・眼のクロースアップ、慄然と断絶する聴覚的余韻からも、怪談の絶品たる面目を美事に示している!)の副話、大旦那霊現譚の最後にフェーヂャが言う

「して見ると、餘り長生きしなかつたんだな」

という台詞は、僕には不審である。僕なりに強引に解釈するとすれば、フェーヂャはここで、

『大旦那は長生きやつたと皆(みな)言ふし、大往生やつたと皆も俺(おら)も思(も)つとつたんやが、違(ちご)うたんやな、大旦那樣はちつとも長生きした、大往生やつた、なんぞとこれつぽつちも思(も)つてながつたんやな――』

と思っての、この一言なのであろうか。にしても不自然な台詞ではあると思われる。

現在、僕が遠い昔、心許した人々に次々に贈って失ってしまったところの、本訳に後続した米川正夫訳(新潮文庫:1951年刊)や佐々木彰訳(岩波文庫:1958年刊)を古書店に注文中である。そこでの訳比較や注から、一部の不審箇所の解決は図れると思う。――もう、お分かりと思われるが、僕は先だってより、愛読書、ツルゲーネフ「獵人日記」中山省三郎譯の全翻刻プロジェクトに入った。

追記(2008年7月6日8:27):今夕、注文の本が来たのだが、手違いで米川訳の方しか手に入らなかった(一緒に梱包されていたのは佐々木氏のではなく、中山氏の昭和14年の岩波文庫版であった。……ちょっと泣……でもいいや、「猟人日記」が、いっぱいだもん!)。そこで早速、上記の箇所を確認してみた。米川氏は以下のように訳している。

「してみると、この世の暮らしが足りなかつたんだな。」

また僕なりにフェーヂャになろう。

『――大旦那樣は、この世の暮らしにちつとも滿足しなさんなかつたんやな、いんや、まるで出來んかつた程に慾深の因業親父樣だつたんや――だから、まだまだこの世に未練があつて、墓の外へ拔け出さう、拔け出さう思(おも)て、この世にまた肉ば持つた、まがまがしか姿で戻ろとなさつとるんやな――』

こんな感じ? なら、ピンと来た、ね――

2008/07/05

ブログ開設・HP開設3周年記念 ツルゲーネフ「猟人日記」より「ビェージンの草原」中山省三郎訳

ブログ開設3周年及びHP開設3周年(多忙にて失念していた過ぎし6/26のこと)を記念して、僕の愛読書から、プエル・エテルヌスたちの面影、Иван Сергеевич Тургенев“Бежин луг”、ツルゲーネフ原作・中山省三郎訳「ビェージンの草原」(「猟人日記」より)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。

……闇・少年・犬・焚火・妖怪・霊・声・馬・朝日……ロシア人である僕はこの眠った振りをした主人公を演じたことがある気がする……僕はこの少年たちと一緒に、本当の、ツルゲーネフの「ベージン草原」という映画を、タルコフスキイかソクーロフのような監督の下で撮ったという、あり得ない記憶が、「ある」のである……これを僕は、少年の日の僕の魂の「遠野物語」としたい……

本作については、そこで語られる生きたロシアのフォークロア、それぞれの少年たちへの僕の夢想的配役、少年たちの体験談の構成と解釈、果てはエイゼンシュテインの映画「ベージン草原」のこと……無数に語りたいことがあるけれど、とりあえず、醜い中年として惨めに下劣に、3年生き延びてしまった、その記念として。

2008/07/04

3年目のブログ

明日でブログ開設3年目となる。今夕より明日までは湯治に出かけるが、3周年の記念テクストは半ばは出来ている。乞御期待。

2008/07/01

ルーカの眺め 又は レフト・アローン <リロード>

マル・ウォルドロンのように繰り返すサビを弾けたら、僕はそれだけでもう、何も、誰も、いらない気がする――いや、それは間違っている――タモリが容易にマルを真似て弾いたのを昔聴いたが、彼は、マルを好きだけれど、如何にもな憂鬱な演奏するからもう沢山だと、不遜に、いや、本当は優しさから言ったんだ、が――あのリフレインの半音階のひねった上行と下行――ブルースは、ブルーではない、ブルースは、希望、だ――僕はマルの曲をジャズではなくブルースだと本気で思っている……海の、薄暗い夜明けの、匂いがする、二人で嗅いだ、あの2月、いや、7月の浜辺……僕は、水きり遊びの石を投げよう――あの水平線の向こうへ届く、ラルゲリウスの飛び去った、あの向こうへ……ベヨネーズ列岩を超えて、少年航空兵であった僕の父の友達が消えて行った、あの彼方へ……そのような「者」、絶対の追悼者として、僕がマル・ウォルドロンのようにサビを弾けたら……

〔僕の確信犯的な思い違いを訂正するのが面倒である。それを説明するのも、「忘れられた」マルやシェップに対してオタクである人にしか溜飲は下がるまい。そこで題名を変え、本文もいじった。今日、地獄のような雨の檜洞丸から帰って、足も擦れた股間も、激しく痛むし、瞼がほとんど閉じている……鬱々と雨中行軍をしながら考えた末にかくなる仕儀となった。悪しからず。2008年6月29日9:15追記〕

〔下肢の筋肉痛は漸層的に倍加しているが、昨夜の熟睡のお蔭で、頭は冴えた。勘違いの詳細を語る。常時鬱々としている僕はこの数ヶ月、書斎では専ら二枚のアルバムをリピートで聴き続けている。一枚は、Archie Shepp の1980年の Horace Parlan とのデュオ、Steeplechase の

“Trouble in Mind”

1

 

  

 

である。これは遠い以前にブログに書いた。なお、僕は発売当時のアナログで持っているのだが、これはシェップの伝統的なジャズへの回帰の金字塔と思っている(勿論、彼の前衛演奏も認めての話である)し、そのブルージーな演奏は逸品であると確信するが、残念ながら国産CDはない。新星堂でアメリカにCDを注文したが、1年経った現在も届いていない。さて中でも終曲の“St. James Infirmary”はグンバツのスグレモノである。パーランのダルなラインが慄っとする程、イイ(因みにこの曲の別な一枚を選ぶとすれば僕は躊躇なく南里文雄をフィーチャーした浅川マキのアルバム「裏窓」の「セント・ジェームズ病院」――マキは歌中では「病院」ではなく「医院」と歌っている。僕はいろいろな思いや語感から、この曲の和名を「聖ジェィムズ医院」としたい人間である――を推す。因みに、これにはまさに僕が始めて聴いた、まさに(!)「トラブル・イン・マインド」が入っているし、驚天動地!、筒井康隆(!)作詞の「ケンタウロス子守唄」も大好きなんだナ、これが)。

もう一枚は、「同じ」 Archie Shepp で、Mal Waldronとのデュオである“Left Alone” (Revisted Enja Records)

2

 

 

  

である。二人の燻し銀の晩年が超ハイブリッドで鬱った心をメッタ刺しにしてくれること請け合いだ(よろしければ僕の“Left Alone”の拙訳を)。 で、……メッタ刺しにされて、頭がショートしたんだな、これが。結果が、シェップで、パーランの、聖ジェイムズ医院の、フレーズがマルで、思い込みのブルーになりにケルカナ運河、となったという落とし話。而して場外乱闘法界坊ぼうぼう燃える葉カチカチ山で捻り出したのが、題名の捏造、マルに繋がらない「聖ジェイムズ病院」はあかんから、マルの演奏でいっとう好きやねん、アレや、アレ! 1976年の名盤“All Alone”(Globe)の“A View Of  S.Luca”で誤魔化させておくんなはれ、あかん! そやったら、マルのライフ・ワーク・オード、“Left Alone” を欠かす訳には、イカン! て……てふ仕儀也……こうしてやっとひねくれた懺悔を致す気持ちになったのも、とりあえず、実は勘違いの弁解より……この二枚のアルバムを多くの方にお奨めしたい、というのが本音な訳である。2008年7月1日追記〕

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