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2008/07/23

フリードリヒ「リーゼンゲビルゲの朝」“Morgen im Riesengebirge”

フリードリヒ「リーゼンゲビルゲの朝」“Morgen im Riesengebirge”(部分)

1810~11年 カンヴァス 油絵 108×170㎝

これはまず全図(ドイツ語版ウィキペディア“Morgen im Riesengebirge”画像)を見よう。

この程度の大きさでも、風景画として漫然と見る人はこの山上の十字架のキリスト像(地平線よりもこれだけを高く描き、その東雲(しののめ)の光背が特異なクロースアップの効果を生み出している)の下に、

Reazenge 白いドレスを着た女性が、左手に杖を持った紳士の右手を取って頂上に引き上げようとしているのに気づかないであろう(実際、ドイツ語サイトの別なもっと精密な大型画像で見ても、僕の写真のように杖を突いているのまでは良く分からない)。いや、僕も長くそのことを気にせず、視線はひたすら十字架から左へ流れて透明清澄な気に吸い込まれていたものだった。しかし僕はこの実物を見て、不思議に左の山並みの記憶がない。いや、僕は妙にこの点景の人物にこそ惹かれていた……。

「朝日美術館 フリードリヒ」の大原まゆみ氏の解説によれば、この作品は本来対幅の一方として描かれたものと言う。現在所在不明のその対の絵は、夕刻の日没直後の風景であったとされる。『同時代の記述によれば、「前景に高く切り立った岩山があり、雲に覆われたその頂からは小川が流れ、一か所雲の切れたところから遠くの夕日に染まった地平が見え」た』と記す。そうして、そちらの絵にも本作とよく似た男女が描かれており、こちらは岩から岩へと移ろうとする女性を男性が手を添えて助ける様子が描かれていたとする。そこにあるのは、朝日と夕日というザインとしての生にあって、キリスト者としてのアダムとイヴの幸福なゾルレンとしての理想の姿が暗示されていたといって良いであろう(大原氏は『人生を歩む上での世俗的活動と宗教的浄化とにおける男と女の、あるいは男性的理性と女性的直観の役割が、添景人物の行動に寓意化されており、これは十九世紀初めの社会や文学と共通するジェンダー観の反映ともなっている』述べている)。ただ強い悲哀のトラウマを抱えたフリードリヒ(少年期に川で溺れ、助けに入った弟クリストファーが逆に死んだ)独特ののメランコリックな筆致は、本作の冴えた清澄な朝の空気以上に、失われた対幅の夕景の方に効果的に現われていたであろうと思われる。

本作のみが残ったのは、当時の動詞の人称を無視して不定詞のまま使ったとかいう変人「不定詞王」プロイセン王フリードリッヒ・ウィルヘルム4世が、誰かと同じように美事な山並みだけを気に入って、本作のみを買い上げた結果だった。

但し、彼は好色であった父フリードリッヒ・ウィルヘルム3世を嫌悪し、ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ王妃のみを愛して愛人を持たなかったとされる。1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン王国はフランスに大敗、ナポレオン1世の強い圧迫を受けることとなった。彼女はその間、自らその交渉役を引き受け、崩壊寸前のプロイセン王国を辛くも支え切った。1810年7月、ルイーゼが34歳の若さで肺炎のために亡くなった時、この愛国の王妃の死をプロイセン中の国民が嘆いたと言われる。さすれば、この絵の方を選んだフリードリッヒ・ウィルヘルム4世は、もしかすると杖を突いてほうほうの体の男に自らを、そうして、この男を導く白いドレスの女性に亡きルイーゼの面影を感じていたのかも知れない。――

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