俺 尾形亀之助
俺は長い間ちつとも晴ればれしい気もちになつたことがない
そうじのされない押入れのすみのように
心はごみやほこりにまみれてゐる
いかによく晴れわたつた朝でも
墓場のように湿け
古新聞のようにふるぼけてゐる
*
(詩集左翼戦線 大正十二年版 大正13(1924)年6月発行)
この前年7月、亀之助は村山知義・柳瀬正夢・門脇普郎・大浦周蔵・ワルワーラ・ブブノワ(ロシア人女流画家)という錚々たる面々と共に未来派の集団「マヴォ MAVO」を結成している。「MAVO」とは川路柳虹「現代日本の美術界14」(大正14(1925)年5月発行『中央美術』)によれば『マヴォ(MAVO)といふ名は会員の頭文字を描きとつて作つた偶然の名前であるさうが……Vの字があるのは露西亜人ヴヴノヴァが加はつたためださうである』(正津勉「小説尾形亀之助」より孫引き)とする。しかし、この虚無感は何だ。正津はそれを、まさにこの錚々たる才人たちの中にあって早くも自己の画才を見限っていたのではないかとするのだが……実際、思潮社版全集の年譜によれば既にこの大正13年1月の欄には『マヴォと疎遠になり、絵画活動を休止。』とあるのだが……やはり正津によれば、画家としての彼の、現存する油彩は大正12(1923)年作「化粧」(宮城県近代美術館に寄託)たった一枚しかないという――