ツルゲーネフ「猟人日記」より中山省三郎訳「ホーリとカリーヌィチ」
Иван Сергеевич Тургенев“Хорь и Калиныч” ツルゲーネフ作・中山省三郎訳「ホーリとカリーヌィチ」(「猟人日記」より)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。本テクストには、末尾に旧ロシアの度量衡等、「猟人日記」全般に及ぶ僕の注を附しておいたので、今後、他篇を読みになる時は、ここを時に参照されたい。また、既公開の「猟人日記」の「死」のテクストに幾つかの私の補注を追加した。
この「ホーリとカリーヌィチ」の二老人は、文字通りの『地の塩』である。この一篇の中では何事も起こらぬ。何事も起こらぬが、そこに確かなロシアの民とその大地が透けて見えてくるのだ――
それは読者それぞれが感じることである。ただ、不遜にもロシア語の出来ない僕が注で物言いをつけた『こうろへた』という単語がある。ロシア語に堪能な方の御確認を是非願いたい部分である。
最後に。敢て本作には「一昨日来い」みたような一言を附しておこう。
冒頭に登場する「オリョール縣」! これは即、僕の好きなチュフライ監督の「誓いの休暇」のアリョーシャの最初の台詞を思い出す――彼は前線で侵攻してくるドイツ軍戦車群団を発見して、慌てて本部へ連絡するのだが、その本隊の名称が「オリョール」!
『ここは戦場の最先端である。前哨の小さい壕のなかに兵士の制服を着た獅子鼻の若者が入っている。彼は興奮して前方を見つめている。そこからは、だんだんと大きくなるモーターの唸りが不気味に聞こえてくる。
若者と並んで初老の兵士がいる。彼は受話器に叫んでいる。
――オリョール! オリョール!……オリョール! 答えてください! タンクです! ……タンクです!……
誰も答えない。彼は受話器をゆさぶる。震える手でコードを確かめ、また荒々しく叫ぶ。
――オリョール! オリョール!……
返事がない。兵士たちは互いに目を見合わせる。二人の目の中には、恐怖と、いら立ちと、〈何をなすべきか〉という無言の問い掛けが読み取れる。
前方のモーターのうなりはますます物すごく、キャタピラがぎしぎしと軋む……。』(“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ”「誓いの休暇」文学シナリオ――雑誌「映画芸術」一九六〇(昭和三五)年十一月号(第八巻第十一号)[発行 共立通信社出版部]田中ひろし氏訳より引用。この文学シナリオについてもし御関心ある向きは、こちらの僕の記載をお読みあれ)
……しかしそれは糠喜びであることが分かる(そもそも何でそんなことで喜ぶのか? それこそロシア語を知らない白痴の喜びに他ならなぬ)……この「誓いの休暇」の「オリョール」は、多分、“орёл”であって、軍事通信の、ほれ、「コンバット」の「チェックメイトキング!」と同じ暗号名で、「鷲」の意味であろうから、この実際のオリョール縣“Орловской”(原文。現在はオリョール地区“Орловский”)とは無関係と考えられる(綴りも違うわい)。上記のシナリオの中、故郷サスノフカ村(「ゲオルギエフスクの」とあるので彼の故郷はアゾフ海の東側スタブロポリ地方南部と思われる)へと向かうアリョーシャが、現在のオリョール州よりもずっと西のベラルーシのボリゾフを経由する描写が出てくることからも、これはただのカタカナ表記の偶然の一致ということらしいなぁ……されど! この作品にはやっぱりこの、“орёл”「オリョール」が出てくるんだな、これが! カリーヌィチが主人公に語る農村のエピソードの中に、製紙工場の請負人が村々の襤褸切れを集める男を雇うとあるが、その渾名が――『鷲』(原文“орлами”“орел”“орла”)!