婆羅門教徒 イワン・ツルゲーネフ
婆羅門教徒
婆羅門教徒は、おのれが臍をうちながめ、「オム」の一語を復誦す。復誦することによりて神に近づく。
けれど人間の軀(み)のうちにあつてこの臍ほど神聖でないものがあるであらうか? この臍ほど、うつそみの果敢なさを、はつきり想ひ起させるものがあるであらうか?
一八八一年六月
□やぶちゃん注
◎表記について:底本は『「オム」の一語を』の鍵括弧後部が『「オムの」一語を』となっているが、誤植と判断し、表記のように直した。
◎「オム」:原文は“«Ом!»”。現在は一般に「オーム」と表記され、アルファベットでは“om”又は“oM”と表記される(実際には“o”と“m”が同化して鼻母音化し「オーン」【õ:】と発音する)。バラモン教のみでなく、広くインドの諸宗教及びそこから派生し世界に広がった仏教諸派の中にあって神聖視される呪的な文句・聖音。バラモン教ではベーダ聖典を誦読する前後及びマントラ(mantra:宗教儀式における賛歌・祭文・呪文を記した文献の総称)を唱えたりや祈りの前に唱えられる聖なる音である。バラモン教の思想的支えとなるウパニシャッド哲学にあっては、この聖音は宇宙の根源=ブラフマン(Brahman:梵)を表すものとして瞑想時に用いられる。後の近世ヒンドゥー教にあっては、「オーム」の発音としての“a”が世界を維持する神ビシュヌを、“u” が破壊神シバを、“m”がブラフマンの人格化された創造神ブラフマーに当てられ、その「オーム」という一組の音によって三神は実は一体であること、トリムールティTrimurtiを意味する秘蹟の語とされる。なお、これは仏教の密教系にも受け継がれて「恩」(おん)として真言陀羅尼の冒頭に配されている。唐の般若訳「守護国界主陀羅尼経」にはヒンドゥー教と同様、仏の本体・属性・顕現を意味する三身を、即ち「ア」が法身(ほっしん)を、「ウ」が報身(ほうじん)を、「ム」が応身(おうじん)を指すとし、三世諸仏はこの聖音を観想ことによって全て成仏すると説かれている。
◎うつそみ:現身。この世に生きる人間又はこの世、人の世の意。「うつせみ」の古形。「現(うつ)し人(おみ)」が「うつそみ」となり、更に「うつせみ」と変化した。「身」の字や「空蝉」は後世の当て字。